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魂の行方、国の行末 無動来西
遺族の遺言

遺族の遺言 その7

本間 尚代

  赤尾敏先生との御縁

 昭和27年3月、中学校卒業後、夜学に通う条件で、住込みのパン屋の店員になるために上京しました。毎日毎日忙しさに追われて、新聞を開くことも、本を読むことさえも許されず、2年後には夜学の話さえも消えてしまいました。雇用主に学校の話をしても相手にされず、なお一層こき使われるだけで、このままでは学校どころか、お稽古ごと一つ出来ないので、思い切って一旦家に帰り出直すことにしました。間もなく伯母(母の姉)の所に仕事と住いの両方が見つかるまで置いて貰い、虎ノ門タイピスト学校に通い、邦文タイプを習得しました。それからは毎日職安(職業安定所)通い。履歴書を提出し、面接、試験と何度受けても最終的には”片親”という理由で採用はされないのです。父のことは履歴書を見ればひと目で分かることで、世の中の残酷さをいやというほど、味わわされました。後に遺族の仲間もほとんどの人が同じ思いを体験していたことを知りました。
 ある日職安からの紹介で面接に行くことになりました。どうせまた同じと、重い足を引きずるようにして訪ねた所は20人程の職工のいる小さな木工所でした。そこの社長が、激戦の島、ペリリュー島からの数少ない生還者のお一人でした。父のことを知って、あなたさえ良ければと早速に採用して下さいました。給料は5千円(ラーメン1杯35円の時代です)と少額でしたが、三畳一間のアパートでも帰宅後は本も読めるし、習い事も出来るので私にとっては天国でした。経理士から教わりながらの仕事にもすぐに慣れ、靖國神社に参拝するのが唯一の楽しみとなりました。土曜日の帰りには、新橋から銀座方面にウィンドウショッピング、次はあんな衿のワンピースを作ろう、あのセーターの柄を編めたらと、スケッチのようなメモをしながら歩き、目を楽しませていました。

 ある日、数寄屋橋方面から、「靖國神社」と聞こえる声に引かれるように側に行くと、有名な赤尾敏先生の演説でした。それからはたびたび時間が許すとお話を聞きに行ったのです。
 中学校の3年間は、担任の赤い教師からことあるごとに、戦争加担者の娘がいると、いわれなきいじめに会いながらも、父はそんな人ではないと父を信じ、常に教師には内心反発をしていたので、赤尾先生の日本国の将来、皇室のこと、靖國神社に祀られている英霊のことなど、先生のお話を理解出来るようになると、赤い教師に洗脳されずに済んだことを父に感謝したのです。先生の演説を聞くようになって3ヶ月ほどたったころ、演説を終えて車から降りられた先生が、私の前に立たれ、若い女性で私の話を聞いてくれる人は少ないのだが、あなたはどんな話に興味を持ったのですか、差し支えなかったら聞かせて下さいとおっしゃられました。尋ねられるままに私の身の上話を聞いていただきました。父が3度目の召集でフィリピンで戦死していること、靖國神社、英霊のお話しに足を止めたことなどを話すと、深く頷かれ、大変でしたね、御苦労様でしたと優しく肩に手を掛けて労って下さいました。父のことで労いの言葉を掛けていただくことはまず無かったことですので、涙を堪えるのが精一杯で顔を上げられなくなっていました。そして困った事があったらいつでも遠慮なく連絡を下さいと名刺を下さったのです。演説が終って30分以上の立ち話で申し訳けないと思い、回りを見まわすと、お弟子さん3人と交番のおまわりさんが真剣な表情で聞いていました。秋の終り頃で肌寒くなって来て、その日は先生に促され帰路につきました。先生の第一印象は、とても穏やかな優しい方というものでした。
 ペリリュー島からの生還者である勤め先の社長の話をすると、お父上がちゃんと引き会わせて下さったと御自分のことのように赤尾先生は喜んで下さいました。それからも演説を聞かせていただき、時には社会一般の話をして下さったりと、私にとりまして「社会大学」の大切な先生のお一人となりました。5年程過ぎて結婚することになり、主人の父が戦前から人に貸していた家に住むことになりました。住所を聞いて、びっくりしました。文京区大塚坂下町と先生と同じ町内で、先生のお住いから5、6分の所でした。お風呂屋さんを挟んで右と左の住居でした。ある時、お風呂から上られた先生と入口でばったりお会いして、先生のお住いを教えていただきましたので、拙宅もお教えしてお誘いをさせていただきましたが、近所に気を遣われて一度も寄ってはいただけませんでした。主人の仕事についても心に掛けていただきました。幸い2人共先生のお世話になることはありませんでしたが、遠慮なく相談して下さいと仰っていただいていたことが大変心強く、どれほど安心できましたことか、今でも心より感謝をしています。靖國神社のことをはじめ、現在私が頼りにしたい方は皆様が旅立たれたり病床だったりです。赤尾敏先生や高橋正二先生そして門脇朝秀先生を懐かしく思い出し、どうぞ今しばらく見守って下さいと祈っている日々です。

注.赤尾 敏(あかお びん)。明治32年(1899)1月15日、名古屋市生れ。平成2年(1990)2月6日、東京都豊島区で死去。91歳。衆議院議員。大日本愛国党初代総裁。

(令和2年6月9日記)

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vol.7



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