遺族の遺言 その3
本間 尚代
銃後の少国民
昭和16年(1941)12月8日、華々しく大本営発表とともに開戦された大東亜戦争の最中、昭和18年(1943)4月、私は国民学校へ入学しました。登下校も団体行動で入学して2日目より「西分団」の班長を仰せつかり、腕章をつけ毎朝点呼を取り、校門のところに立つ6年生に敬礼をしての報告が勉強以外に加わり、幼稚園の時と異なり何故か大人の仲間入りをしたような晴れがましい気持ちになったことを覚えています。また、早く薙刀のお稽古が出来るようにと、お姉さま方に憧れました。
戦局も激しくなった昭和19年(1944)3月末、2年生の新学期を控えて一人、父の故郷である南房州の山奥の村に疎開しました。気位の高い厳しい姑に私を預ける母は、おばあちゃんに笑われないようにと、下着や靴下の洗濯の仕方から干し方まで、口を酸っぱくしての特訓でした。下着は人目に触れないように他の洗濯物の内側に干すとか、下履きの上にはハンカチをかけて干すとか、それまで一度も自分で洗ったことも洗濯物をたたんだこともなかった私には厳しい躾(しつけ)でしたが、私がきちんと出来ないと母が笑われるのだと子供心に真剣でした。挨拶の仕方や言葉遣いなど、それからそれへと家を発つ日の朝まで母の注意事項が続きました。流石に可愛そうに思ったのか、父が助け舟を出してくれましたが、責任感が重くのしかかってきていた私は、お別れに来てくださった近所の方々への挨拶も上の空で、きっと戦場へ発つ少年兵と同じような気持ちだったのではないかと思います。
駅まで迎えに来た祖母のリヤカーの上に乗せられて、父と三人で二里山奥に向かいました。静かな山を一つ越えまた一つ越えて山合の小さな部落につく頃には、日もとっぷりと暮れて「ホロスケ、ホーコ」とフクロウの鳴き声が聞こえてきました。これからの事を考えて小さな胸は心細さでいっぱいでした。父の故郷へ来ましたのは昭和16年に亡くなった祖父の葬儀以来でした。母の実家の白浜は、春夏の休みには長逗留をし、祖母を始め多勢の兄姉たちに迎えられ、楽しく過ごし、近所にも顔なじみのいるところです。父の実家は道を歩いていると、イノシシの通った道だとイネや茅(かや)が倒されていたり、庭の椎の木にはリスがいたり、夏になれば大きなガマガエル、ヤマカガシ、オオトカゲと日に何度もご対面で、都会生まれの私は今で言うカルチャーショックに見舞われました。
祖母は農業の傍ら蚕(かいこ)を飼って糸を紡ぎ、草木染めをして居座機(いざりばた)で布を織っておりました。年4回の「おかいこさん」が暮らしの中の第一で、私のことは二の次三の次で、何度お腹をすかせて父の末妹が務めから帰るのを待ったことでしょう。この叔母は、私の家から女学校に通っていました。同じ頃洋裁学校に通っていた母の末妹のようには遠慮もあって甘えることも出来ず、ずっと辛抱の毎日でした。寂しくなったら手紙を書きなさいと、東京の母のあて名を書いた葉書20枚を父が置いて行ってくれたのですが、寂しいことや悲しいことをつづる手紙になるので私の方からは出さずに、本やお菓子の届いたときの返事だけに使いました。
父が4月に立川航空廠に入隊したのも、父と母それぞれからの手紙で知り、尚一層心配をかけまいと胸に刻みました。
本当は東京が恋しくて恋しくて、毎日夕方になると庭の大きな柿の木に登り、東京の方角の空を暗くなるまで眺めて我慢をしたのです。この頃大人の前に立ち、両耳の所を両手で挟んで5センチでも10センチでも体を持ち上げて貰い、「東京めーたか(見えたか)」という遊びが流行り、何度もせがんでは小さな満足をしたのです。
学校も分教場で年配の先生が1人で1年生から4年生まで14、5人を1つの教室で教えるのです。中には電気も通わずランプの家の子もおり、見るもの聞くものみんな驚きの連続でした。そのうち疎開っ子が5人に増えました。
初めて学校の田んぼに入らされた時は、私の足ばかりにヒルが次から次へと吸い付き、気味が悪くなって立ち往生する私に、「そんなことでどうする!戦地の兵隊さんのことを考えなさい!」と先生の叱責が飛んできました。けれども、その時は戦地の兵隊さんは父だけなのにと、とても悲しくなりました。
おとなしいお嬢ちゃんだった私も疎開っ子いじめに会い、田畑を耕し、田植えや草取りと地元に馴染んで行くうちに、いやでも鍛えられて逞しくなりました。昭和19年の暮れには母と3人の妹も東京を引き上げての同居になりました。10か月ぶりに私を見た母は、おかっぱの髪は伸び放題の虱(しらみ)だらけ、まるで乞食の子のようで父に逆らってでも自分の実家に預ければ良かったと、後悔したことを中学生になってから聞かされました。時々叔母がすき櫛を使って髪を梳いてくれたのですが、学校に行けばすぐに新しい血が欲しいのか、疎開っ子に虱は集中し、毎日すき櫛を使ったり、灰のあく汁で洗髪したりと気を付けるのですが、何しろ子供のすることですし、堂々巡りだったのでしょう。妹たちも友達と遊ぶようになり、すぐ虱の洗礼を受けたのです。終戦後、外地からの引揚者と同じように、学校でDDTを何回か頭から真っ白になる程振りかけられて虱は根絶されました。
その頃、学校割り当てで兵隊さんの食糧になると山蕗取り、どんぐりや椎の実拾い、食用油にするとか椿の実や榧(かや)の実拾い、兵隊さんの洋服に織られると苧麻(からむし)刈りもやりました。これは葉をむしり皮を剥いで干し上げるのですが、リヤカー1杯刈っても干し上げると稲束1束位にしかならず、60軒足らずの部落の子供が総出でやりとげても10貫目(40kg足らず)の供出は大変でした。上級生は松根油(しょうこんゆ)掘り、これは飛行機の燃料になると聞かされました。2年生の3学期だけ、母方の祖母の所で過ごしましたが、そこでは海岸に打ち上げられた海藻を拾って干し上げ、学校に供出したのです。それはヨードを取りヨードチンキの原料になると教えられました。後日、その海藻は搗布(かじめ)と呼ばれる食用にもなる海藻であると知りました。
わずか2年生・3年生の少国民の我らでも、お国の為にと与えられた仕事を一生懸命に励んだのです。私たち子どもの果たした役割が本当に役に立ったのか、今でも是非知りたいところです。ある時、田舎の友人に苧麻刈りのことを聞いてみたのですが、貧しくとも両親揃って幸せだった友人たちの記憶には残っていませんでした。
看護婦で助産婦の母は、無医村の保健婦の役目も務め、合間には農家の手伝いをするなど朝から晩まで寝る間も惜しんで働き通しでした。私の家ではわらび、ぜんまい、蕗取り等は子どもの役目でした。毎日のおやつも、季節ごとにナツメ、ヤマモモ、桑の実、グミ、野イチゴ、栗など全て自然調達でした。1歳半の末妹の子守をしながら、炊事や薪(たきぎ)拾いと今振り返ってみましても、我ながらよく働き、よく気が付いたと思います。その妹は3歳くらいになった頃からたまに学校に連れて行きましたが、私の隣に座って本を見たり、字を書いたりと、おとなしいので邪魔にはなりませんでしたが、近隣の村から住み込みで子守に雇われてきていた同級生の1人は、たまにしか学校に通わないのに連れてくる子が泣き虫で、2人共校庭に出ているほうが多かったと思います。
昭和20年(1945)に入ると山深い里にも県道を広げて、太平洋側の鴨川まで戦車の通る道を作るのだと、50名くらいの兵隊さんが家の前の共同作業所の2階に寝泊まりをするようになりました。近所の家5軒が風呂の提供宿になり、私の家にも毎晩10人以上の兵隊さんが風呂に入り、ただ1台のラジオを聞きに集まってきました。私たちと同じ年頃の子どもがいるからと、可愛がってくれる兵隊さんもおりましたが、近所の農家から仕入れてきたサツマイモを蒸してくれ、大豆を炒ってくれと言いながら1粒も残さず持って帰る人がいたりと様々でした。
風呂の水汲みも薪集めも、みんな私の仕事なのかと思いましたが、戦地の父のことを思えば我慢も出来て、子どもながら泣き言も愚痴の1つもこぼしたことはありませんでした。風呂焚きの折、杉丸太を薪にするための仕事中、杉皮が滑り思いっきり自分の左手の人差し指を鋸で引いてしまい、今も大きな傷跡が残っています。地元の子は、親の背中や畦道に置かれたかごの中に寝かされている時から、教えられなくても見て覚えるのでしょうが、私は杉の木を薪にする時は皮を剥ぐということを知らなかったのです。血が噴き出し、慌てて側にあった藁縄で手首をきつく縛り、血止めをし、庭先の蕗の葉を揉んで傷口に当て、手拭いを裂いて包帯にし、左手を上に上げたまま風呂焚きも夕食の支度も済ませたのです。夜になって母が帰宅し、傷を調べて驚いていました。骨にまで刃が当たっていると慌てて消毒をし、傷薬をつけ添え木をしてくれました。父からは、お転婆をしても良いけれど女の子は体に傷をつけるのが1番親不孝だと聞かされて育ちましたので、申し訳なくて胸が痛みました。3か月位で傷口はふさがったのですが、包丁の傷と違い鋸ですからギザギザで醜く肉が盛り上がっているので、人の目がとても気になるようになりました。大人になってからようやく私の傷は遊んでいて出来たのではなく、名誉の負傷と思えるようになったのです。長い年月の間に傷口も目立たなくなりましたが、今でも冬になると傷口が疼き、嫌でも忘れることは出来ません。
終戦の翌月から兵隊さんたちは引き揚げ始め、元の静かな村に戻りました。私たち家族も父が無事にフィリピンから帰ってくることを祈り、一日千秋の思いで待ちましたが、父は一片の紙に姿を変えて帰って来たのです。戦後の1か月前にフィリピンで亡くなっていたのです。
ひとひらの 紙にて還る 父抱(いだ)き
胸の軽きを 未だ忘れじ靖国神社 献詠御題「紙」
父はお国のために殉じましたが、父の故郷では道路沿いの畑は道幅を広げるためにと、長い距離にわたって削り取られ、1枚の桑畑はハッパをかけて切り崩され、真ん中をすっぽり道路に提供させられても、お国の為と説明され、お印の涙銭が支払われた程度だったと聞かされています。戦後山奥の部落にもバスや車が通り、ダムが作られるようになって、土地を買い上げられた家と父の家とは雲泥の相違、随分と犠牲も強いられました。だからこそ現在、核さえ持たなければ平和と思い込み、原子力発電所の稼働まで反対する人は、それに代わる何かを考えているのでしょうか。また日本国の将来をどう考えているのでしょうか。父たち英霊は、日本国の将来と子孫のために、尊い命を国に捧げたのです。自分の国、自分の城は自分で守るのは人たる者の鉄則です。集団的自衛権が閣議で決定され、やっと自分の国を守れるようになるとの思いです。
戦勝国によって破壊された教育の根本を考え直し、日本人としての誇りと愛国心を取り戻し、正しい歴史が次の世代に引き継がれるよう、草の根の1本になるのが私たち少国民だった者の役目です。
靖国の英霊に恥ずかしくない日本国を見届けて、父たち英霊に佳き報告のできる日の来ることを願ってやみません。
(平成26年7月15日記)
izokunoyuigon
honma takayo
vol.3
