遺族の遺言 その17
本間 尚代
靖國神社境内の犬の散歩
靖國神社の休憩所でお茶を飲んでいると参集殿の前を大きな乳母車を押した女性が歩いて来ます。大人なら車椅子でしょうにフト気にかかりました。すると大きな犬が立ち上ったのです。御神門は幌をしっかりと被せて通り抜けたのかしら、随分大胆なものだと呆れて見ていると休憩所脇の椅子に腰を掛け、犬に水を飲ませ始めました。犬は余程喉が渇いていたのか三回もお代りをしたのです。早く守衛さんが通らないかしらと待ったのですが、こういう時に限って守衛さんも、神職も通らないのです。私は暫らくの間我慢をしていましたが、ここはどなたがお祀りされているのと声を掛けました。フフンと嘲笑っています。知らないのなら教えて上げようといつものお節介が始まりました。
中学生、高校生に御祭神の話をするように、お国のために尊い命を捧げられた方々、特攻隊として十五、六歳の少年も多く祀られているのよ、そして現在があり、あなたがいるの、ここはただ、ただ感謝を捧げる神社なの、それに何処の神社やお寺でも、神社の鳥居の中、お寺の山門の中に犬をつれて入るのは非常識なのよと言うと、だって歩かせなければ良いと神社で許可しているわよと、ふてぶてしい態度です。四十歳前後と思われる女性でしたが馴れています。こんな無常識な人と話をしても無駄とリュックを手に掛け帰ろうとした所に守衛さんが見えました。
私は声を荒げていた訳でもなし、いつも子供たちや、若い人に諭すように話していたのですが、相手の態度が大きいので側を通った人が守衛所に声を掛けたのでしょう。守衛さんは、私たちも困っていますが、神社で許可しているのですから私たちはどうすることも出来ません、と言われました。私はいくら何でも御神門の中は辞めてほしいわね、どうも有難うと守衛さんに御礼を云って帰りました。
ここ一年位でしょうか、私は犬を隠すようにして神前にまで入った人にも気がついていました。時々大鳥居の下を犬の鎖を持って散歩をさせながら入って来る非常識な人も見かけます。勿論そういう姿を見掛ければ注意をしています。第二鳥居の辺りで入るか、入るまいか躊躇している姿も見掛けますが、御神門の中にまで堂々と犬をつれて入った人は初めて見掛けました。今年に入ってからも裏の茶室の前のベンチに腰を下ろしている時、若い女性が隣のベンチに座り肩に掛けていたショッピングバッグの中から白い小さな犬を取り出し、お食事にしようねと話しかけたのです。犬と一緒にお弁当でも使うつもりだったのでしょう。その時はすぐに神社、佛閣に犬をつれて入れないことは常識よと言うと何かブツブツと呟いていましたが、私には聞こえませんでした。でもすぐに立ち上がってその場を去りました。近頃はバスや電車の中にもショッピングバッグに犬を入れている人、中にはオンブ紐で赤ちゃんを前に抱えるように、犬を抱えている人、不愉快になる経験が多くあります。翌十五日、どうしても納得が出来ないので神社に電話を掛けました。
女性が出たので要件を話しますと、分る人に代りますと電話を置いたまま、やや暫らく待たされて男性に代りました。昨日御神門の中で大きな犬をつれた人を見かけました、犬を歩かせなければ良いと神社の許可があったとも聞きましたけれど、というとあなたのように反対する人もいれば、喜んでくれる人もいますと言うのです。私は神社、佛閣での常識論を話しているのに面倒と思ったのか、ここの神社には軍馬、軍用犬、軍鳩が祀られていますと、とんでもないことを言うのです。さも私を小馬鹿にした物言いです。
だから軍用犬でしょ、昭和十八年の暮にいつも私たちが遊んでいた近所のシェパードが、「出征太郎」と書かれた襷を肩に満州につれて行かれた悲しい別れを体験していますと言うと流石に黙りました。とうとう靖國神社では犬まで神域を英霊と一緒にしてしまいました。英霊を何処まで貶めたら良いの、山口宮司に言っておいて下さい、と頼みました。
ところで犬を歩かせなければ良いと、掲示板に貼り紙でもして「お知らせ」したの、会報には載っていなかったと思うけど、私が見落としたのかしらと言うと、そんなことは当たり前でしょうとの返答で呆れて物も言えません。何にも知らない若い人や、子供たちにもこんないい加減な説明をするのかと想像するだけで空恐ろしい思いです。毎年四月第一日曜日に軍馬、軍用犬、伝書鳩の銅像の前に関係者が集い、慰霊祭が行われています。私も行き会えば太郎のために参加させていただいておりました。今年は参加者も数人でした。軍用犬の銅像建立に係った知人二人もとうに亡くなられました。
戦後マッカーサーが、神社を焼打ちして、ドックレース場を作る計画を立てた時、当時の上智大学学長(アメリカ人神父)が何処の国であっても、国に殉じた人々を祭る施設を破壊すれば、後々まで後悔が残ると強硬に反対され、現在の靖國神社が存続していると聞いています。山口宮司は、参拝者が少なくなったから、ドックレース場にしたら儲かるとでも思われたのでしょうか。今でも第二鳥居の所位までは犬の散歩に入って来る人はおりますが、犬同伴で御神門を入るのは、神社関係者か、家族ではないかと疑うのです。なぜなら近くに社宅がありますから。
(令和4年9月吉日記)
izokunoyuigon
honma takayo
vol.17
