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魂の行方、国の行末 無動来西
遺族の遺言

遺族の遺言 その15

本間 尚代

  東京大空襲

 昭和16年12月8日、日本海軍が、真珠湾を攻撃し、勝利したことから、米英他連合軍との大東亜戦争が開戦されました。「臨時ニュースを申し上げます」と繰り返す、朝7時のラジオ放送を、茶の間で父と並んで聞きました。昭和17年4月18日には東京に初めての空襲がありました。横浜、神戸など大都市が爆弾や焼夷弾を投下されたのです。その時の空襲を指揮官の名前から「ドーリットル空襲」と呼ばれていることも大人になってから知りました。
 昭和20年3月10日未明の東京大空襲は、米軍の標的にされた下町一帯がすっかり焼きつくされたのです。私は昭和19年3月末、父の故郷に1人で疎開をしていました。昭和18年の暮には、1年赤組担任の若い女の先生は故郷に疎開され、教頭先生が代って学期末の3月まで担任になられました。その頃から3年生以上の生徒は、学校や区からの指示により、地方のお寺や、民宿、旅館に集団疎開が始まりました。
 私のように田舎に縁故のある人たちは、一家中や私のように1人で預けられたのです。私は早い疎開組で、2年生の1学期までは、疎開っ子は私1人でした。父の故郷は、国鉄の安房勝山駅から2里も離れた山また山の山奥で、私を疎開させた時には、3度目の召集を予感でもしていたのでしょうか。
 立川航空廠に入隊して間もなく昭和19年5月には、ルソン島のマニラに転属となり、マニラ陸軍航空廠、威15311部隊・企画部に配属されたのです。学校も分教場で、年輩の女の先生が1人で、1年から4年生まで10数人の生徒を受け持つのです。ヒステリックな怖い先生で、時々教壇から白墨が飛んで来ました。隣りの部落にも分教場がありました。2年生の2学期になると疎開っ子が7、8人に増えました。そのせいでか、それまでは5年生から本校に通っていたのを私たちからは、4年生から本校に通うようになりました。分教場から本校までは一里の下り坂の道が続くのです。分教場での私の学年は、男子3名、女子4名で、私を含め2人は疎開っ子でした。朝礼と出席簿は全員が呼ばれ、その後は学年ごとにきめられた学科の自習で、体操、音楽は全員一緒でした。本校に行くのは式典のある、1月1日と2月11日(紀元節)、4月29日(天長節)、11月3日(明治節)などの時でした。
 昭和17年4月、東京に初空襲があってから空襲警報発令が多くなり、偵察機が1機、2機と飛んで来るようになりました。その頃の街の様子は至る所に、「撃ちてし止まん」、「ぜいたくは敵だ」、「鬼畜米英」、「パーマネントは止めませう」などの標語の書かれたポスターが1枚ずつ増えていきました。男性は国防服に戦闘帽、足にはゲートルを巻き、女性は上衣ともんぺ姿、皆んな防空頭巾を背にしています。冠婚葬祭もすべてその服装でした。上衣の胸にも、防空頭巾にも、身につけているものから持ち物まで、白い布製の名札を縫いつけ、住所、氏名、血液型が書かれていたのです。白い割烹着の上に「国防婦人会」の襷を掛けた女の人たちが駅や街角に立ち、「千人針」への協力を求める人の増えるのを見て、子供ながら一歩、一歩戦争を肌身に感じて緊張を覚えました。昭和18年の暮れのこと、学校帰りに偵察機に低空であとを付けられて、とっさに学校で教えられた通りに、耳を両手で塞いで側溝に飛び下りて伏せました。その瞬間、偵察機は爆音を残して立ち去りました。その日は5人だったのか、6人いたのかも覚えていないのです。登校と下校に私は西分団の班長として責任を負っていたのです。皆んなの伏せるのを確認してから私は伏せたことをしっかりと記憶しています。それぞれが、すり傷、かすり傷を負ってはいましたが、無事だったことにホッとしたのです。その日は他の班でも偵察機に付けられていたと聞きました。この時が初めての私の空襲体験でした。
 当時の国民学校(現在ならば小学校)は、焼けないで残っていますので、昭和18年の入学式、19年の卒業式などの写真や記録が残っていたら見せていただくことは出来ませんかと、校長先生に手紙でお尋ね致しました。校長先生は探して下さったそうですが、残念ながら見つけられなかったと返信をいただきました。偵察機にあとを付けられた日にちは分かりませんでした。
 この頃になるとどこかで必ず空襲があったと思います。不謹慎のようですが、疎開先の山の中では、学校にも各家庭にも防空壕もなくB29が空を飛ぶのを下から見上げて外人だ、毛唐の顔が見えたと叫ぶ男子生徒たち。私は今日はどこが空襲かと東京のことばかり心配をしていたのです。昭和20年3月10日未明のこと、何で起きたのか、起こされたのかも分らないまま、庭に出て見ると、東京が恋しくていつも眺めている方角の空が真赤に染っているのです。東京が空襲で燃えていると聞いて、東京が無くなってしまう、東京に帰れないと目を見張り、呆然としていたのです。その内寒くなり家に入りましたが、じっとしていられず綿入れの半てんを掴むと又外に出ました。時折真赤な中に、黒いかたまりのようなものが吹き上るのです。焼夷弾でも落とされているのか心配で、心配で寒さも忘れて東の空が、白々と明けるまで立ちつくしていました。真赤だった空も下火になったのでしょうか、濃い灰色の空に変っておりました。ラジオからの朝のニュースで東京の下町方面が全焼したことをくり返し、くり返し放送していました。下町、深川には伯母(母の姉)の家があるので消息が分るまではとても心配をしましたが、翌日のニュースで伯母の家の一帯は、火の粉も浴びていなかったので安心しました。
 日を追うごとに被害が拡がり、一晩で10万人もの人々が亡くなられているのです。私は毎年3月10日になると、江戸三十三観音の一寺でも、二寺でもお参りをして、犠牲になられた方々の御冥福を祈っているのです。
 母方の年嵩の従姉の嫁ぎ先では、義姉になる人が東京の女学校に来ていて、空襲に遭っているのでしょう、未だに消息不明です。その一家も皆、鬼籍に入っていますので、今頃はようやく家族一同揃うことができたのではと信じています。
 あの晩の空の色は、真赤と言ってはおりますが、一口に言い現すことのできない色だったと今でも目に焼き付いています。当時は、高層建築物など遮るものがなかったからずっと近くに感じたのでしょうが、車を運転するようになって東京からの距離が250キロあることを知りました。東京大空襲のことを聞かせて下さいと言われましたが、私は東京を離れておりましたので、3月10日未明の空の色を綴りました。大東亜戦争や東京大空襲を知る人も少なくなり、寂しくなりましたが、現在の日本を考える時、絶対に先人方に忘れず感謝をして過ごしていただきたいと願っています。そして語り継いでいくことも大切な私たちの役目だと思います。

(令和3年11月末日記)

 

izokunoyuigon
honma takayo
vol.15



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