ページ
TOPへ
魂の行方、国の行末 無動来西
遺族の遺言

遺族の遺言 その1

本間 尚代

  祭神名の訂正を願って

 私の父は、昭和19年(1944)3月、三度目の召集を受けて、昭和20年6月15日、フィリピンのルソン島のバギオ東方山地で戦死したと公報が届きました。後に部隊、マニラ陸軍航空廠、威15311の死亡認定理由書を書かれた厚労省の担当者、吉田元久様からもお話しを伺ったり、名簿を見せていただいたりして、多勢の戦友も同日死亡となっていることを知りました。
 靖國神社には昭和29年合祀されています。その後、父の消息を辿り名簿の生還者で昭和19年5月、父と同じ三川航空廠からマニラに派遣された方を尋ね歩きました。昭和54年(1982)に“マニラ航空廠の会”が発足し、父を知る戦友に次々とお会いすることが出来ました。そして父の最期を知る部下の一人にも会うことが出来たのです。その方の案内で昭和57年には父終焉の地バーリグを目差したのですが、国道とは言え車は途中までしか入ることは出来ず、母と姪とで遠く、バーリグ村を見下ろしての供養でした。私と母は昭和52年に公報にあったバギオで慰霊の行事をしており、私は昭和54年と3度目のフィリピンでした。10年後ほど経ったでしょうか、道路を車が通れるようになり念願のバーリグ村、父終焉の地に立つことが出来たのです。残念ながら案内をして下さるはずの方は前年に亡くなられているのです。とてもきれいな村で、ここが戦場になり父が爆弾を胸に抱き敵戦車に突っ込んで散っているとはとても最初は信じられませんでした。何度も、何度も「特別挺身戦車肉迫攻撃隊」と心の中でくり返しました。後で村の人から、終戦となり更に山深くに逃げていて帰ってみると白骨街道だったと聞かされました。父達の後、その場所を通ったという別の部隊の生還者の話を聞いて何度も巡拝の足を運び納得したのです。郷土部隊ならいざ知らず、最後の寄せ集め部隊では、まず消息を尋ねても判らないのが普通なので、幸運に感謝をしています。兵役義務を終えるまでは気球隊勤務であった父は、2度目の召集では、教育召集ということでマニラでは本部企画部勤務と教えられました。タイピストの女性や、各島に配属されて本部に出入りされた方々が、父を覚えていて下さいました。
 昭和19年(1944)12月末、重要書類を焼却し、残る書類を父たち3人が背負い、山下奉文閣下の命により、マニラでの市街戦を避けるため山岳地への移動の第一歩が「イポダム」で、そこが集決地となりました。そこからルソン島の各地に別れ別れになったと聞きました。幸い父の足跡は一部不明な点もありましたが、お蔭様でほぼ繋がったのです。
 昭和19年3月末、父の故郷に1人で疎開をすることになり、1週間を父と過ごしました。国民学校2年生になる転校手続きや本校にもつれて行ってくれたのです。分教場ということが最初のカルチャーショックでした。別れの朝、父と手をつないで送られる道々、父は私の心を引き立てようと、楽しかった事、私の喜ぶことを話しかけてくれるのですが、口を開けば泣き出しそうなので、じっと唇を噛み締めて堪えました。後になって考えますと父は、3度目の召集が分かっていたのかも知れません。言葉をかけてあげられなかったことは、唇の痛みと共に申し訳なかったと今でも思い出しては後悔し詫びています。「寂しくなったら靖國神社に会いに来なさい。尚代のことは何処にいても見守っているよ。」これが最後の言葉でした。
 昭和57年バーリグより帰り、お墓も建て直し、“戦没地バーリグ、昭和20年7月20日戦死”と訂正し、厚生省にも届けました。千葉県庁、靖國神社にも後日書類が送付されることを聞きながら、一刻も早く靖國神社で訂正していただきたいとの思いでした。最期を知らせてくれた戦友と私とで直接届出をして安心していました。ところが、昨年(平成31年)3月7日、偶然なことから靖國神社では公報のまま、父の名前、文字、番地までの間違いを知りました。翌8日訂正をお願いに行きました。最初に出て来た方に簡単に話しをし、2人目の人と代り、3人目にお会いしたのが禰宜の岡本真人氏でした。同氏のお話しはこうでした。戦後73年も経っているし、あなたが言って来てからも45年過ぎている、そのころ私は神社にいなかったと逃げ腰でした。当たりまえですが、その頃の神職の方はどなたも居りません。私は昭和30年疎開先から戻って以来父との約束を守り、ことあるごとに神社で父と語っています。現在その頃の方が在職していないと言われても現在在職している方の責任でしょうと言うと、その通りですと返事をされたので当然責任をもって下さるものと思いました。公報に書かれていたことと、訂正を預うことを書いた書類を渡しますと、父の姓である吉田の「吉」の字を見て、上が長いか下が長いかの違いですね、とたったこれだけで面倒くさいと言わんばかりでした。「吉」の字だけではなく、文字や番地も違ったら別人でしょうと文字の長短の説明をしても無駄と思ったので、父の本籍地の一番古いお墓は、元緑2年没の御先祖様です。それから続いて20数基の墓石が建っています。父は長男ですから名前を勝手に変えられては困りますと言いましたが、御自分の仕事も相手のことも分かっていないのでしょう。娘の私の言うことも信じられないのか、誰か証人はおりますかとか証拠がありますかとか随分失礼な言い方でした。証人がいるわけないでしょう、みんな亡くなられました。厚労省にも、千葉県にも証拠はありますと言っても、自分で動こうとする気配は感じられないので結局私が県から取り寄せますと帰りました。
 県庁に依頼して2、3日経った頃、県庁から本間さんが大変だから直接靖國神社に送ります、担当者の名前を教えて下さいと電話があり、その後県庁からは2、3日後、靖國神社に送付しましたと控えが届きました。暫くして神社から訂正しましたと届いた書類には「吉」は直っていましたが、吉田正の正(せい)の横に大きくタダシと赤字で仮名が振られていました。赤字で仮名を振られたのは当てつけか、それとも意地悪なのかと驚きました。電話を掛けますとアァ振り仮名がなかったので振っておいたとの返事です。神社での肩書きは御立派でも失礼ながら脳軟化症でも患っているのかと呆れました。その後書類が出来たからと言伝があり、約束の日時に出掛けると、記念事業のことで仕事が忙しいと2度、すっぽかされました。私は神前のお参りがあるので、神社へ出掛けるのはかまいませんが、この人は英霊と遺族より記念事業が大切とは、いったい何処の神職なのかと思いました。3度目は令和元年6月15日、私が恐いからと立会人付きで、靖國会館1階の休憩室に向かい合って座りました。1度も顔を上げず私の目を見ようともせず、黙って封筒を私の前にすべらせました。封筒から少し引き出して見ますとまたまた違っているのです。どうして書類を右から左に写すことが出来ないのだろう、もう何も言うまいと心に誓いました。すると、名前の誤記はあなたの場合だけではないと、とんでもない事を言い出しました。御祭神の名前の誤記は7,200名余り、その他の誤記を入れると12,000名からあると重大なことを平然として言うのです。
 「分かっているのなら早く直して下さい。遺族も、もう半数位しか連絡はとれないかも知れませんよ。」と曙光会の会員のことを考えて私は話しました。「そうなんです。あなたのように言ってくれれば直しますが、多過ぎて直せない。」と人のせいにして岡本氏は語る。「どこの誰であっても靖國神社で英霊の名前が間違っているなどと思う人はいない。早くしないと私たち遺族も10年経てばほとんどいない。15年経ったら全員いない。それまでほったらかしにしておくのですか。」と尋ねますと返事はありませんでした。「父のことは私が知ったのでどうでも良いですが、何日かかっても良いので7,200名の方の正確な名前を神前で読み上げて、さらに祝詞で心から詫びて下さい。出来れば遺族、関係者をその場に呼んでほしいけど。私が知ってしまった以上、このままにはさせません。それとも私たちがいなくなるまでお待ちになるのですか。これでは靖國神社の役目を果していないでしょう。父たちは皇軍の兵士として国に尊い命を捧げ、靖國神社に祀られるのを誇りとして征ったのです。私たちも父のことを誇りに生きて来たのです。」と言っても心ない職員たちには私たち遺族の気持ちなど分かろうはずもないということをあらためて知らされました。
 30分位したところで忙しいからと席を立ちながら、小声で私の顔を見ることもなく、ドウモスミマセンデシタと言われましたが、私は謝罪をされたとは今も思っておりません。遺族の私に簡単に7,200余名の名前の誤記があると告げられました。私はずっしりと肩に重荷を背負わされました。3日にあげず神前でもう暫くお待ち下さいと心よりお詫びをしているのです。流石タフ子さんと呼ばれた私も末期高齢者の身体ゆえ、思ってもいないことが起こります。私は父以外のことは知らなくても良いことでした。昨年11月から前宮司、小堀邦夫様の『靖國神社宮司 退任始末』に書かれている「靖國神社の神前にて」の詩を、参拝の折に神前で、英霊の皆様に聞いていただいているので、父のささいなことから、名前の誤記をされている7,200余名の英霊の皆様が「私たちもだよ」と動き出して下さったものと信じています。そして誤記されている英霊の皆様のことは世間の方々、特に遺族の方々には知っていただけたらと願うのです。私のような息子、娘も多勢いることでしょうに。それを考えると胸が痛みます。天皇陛下にお認めいただいて御祭神として祀られた御祭神の名前の誤記をいとも簡単に口にするような神職が神をも畏れず平然として神殿に上り、心にもない祝詞をあげても御祭神には届きません。英霊とは?と尋ねた時、正しく答えられる神職が果して何人いるでしょうか。
 英霊は泣いています。以前というか、私が通い始めた頃の神職たちは、「私どもも英霊をお護りさせていただいております。」と言われました。真剣に英霊をお護りし、正しいお祭りをしてくださる神職様を英霊の皆様はお待ちしているのです。

(令和2年1月3日記)

izokunoyuigon
honma takayo
vol.1



pocket line hatebu image gallery audio video category tag chat quote googleplus facebook instagram twitter rss search envelope heart star user close search-plus home clock update edit share-square chevron-left chevron-right leaf exclamation-triangle calendar comment thumb-tack link navicon aside angle-double-up angle-double-down angle-up angle-down star-half status