英霊に捧げる手紙(全19通)
第1通・「顔も知らないお父様へ」
小川 晴子(川崎市多摩区)
お父様とお別れしたのは、私が2歳になる前(昭和19年5月)のようですね。お父様との思い出のない私は、演奏会の時の写真を見ては、想像しています。森川家の初孫として誕生した私を、祖父母は不憫に思い充分な愛情をかけてくれました。母は、お父様のことを「あんな優しい人は、いない」とか、日比谷公会堂でのピアノの演奏会の事等思い出話をよくしてくれました。子育ての忙しさをよいことに、聞いてあげられなかった事に今になって後悔しています。
母は、昭和52年神奈川県遺族会の慰霊巡拝で初めてフィリピンを訪れました。その時知り合った本間尚代さん親子とバギオにご一緒させていただきました。宿泊したホテルでの事、明け方ノックの音に、3人は飛び起きたそうです。そっとドアを開けるとシーンと静まりかえり、廊下には人影も見えないとのこと。お父様達が会いに来てくれたのかもしれないと不思議な気持ちになったそうです。今では想像もつかない程、バギオへの道のりは遠く、部落があると車窓から母が目を離すこともなく、物思いに耽っている様子に、本間さんに声を掛けられたとの事。「主人は何処かに生きているのではないか」、「娘に似た子がいないか」、探していると話したそうです。何であれ生きていてもらいたかったのでしょう。
母は、バグサンハンに建った慈眼山比島寺に墓標を建て、2度目のフィリピン行きを楽しみにしておりました。戦後の荒波を乗り切った母も病には勝てず、72歳で亡くなり、今年(平成26年)の11月9日に二十三回忌の法要を迎えます。ただただお父様と暮らした2年間を大切に頑張ってきたような気がします。
その後母にかわり私は、姿の見えない父に会いにフィリピン慰霊巡拝に参加しています。
歌舞音曲が禁止され、演奏が思うように出来なかった時代に生きたお父様は、何と気の毒なことでしょう。演奏会で着たお父様の燕尾服だけが我が家の箪笥の奥に残っております。
私達夫婦は3人の息子に恵まれ、よいお嫁さんと孫6人の14人の賑やかな一族となりました。これもお父様が見守って下さっているのですね。
来年3月、日本遺族会の巡拝に加わる予定にしています。その時は「晴子よく来てくれたね」と肩を叩いて知らせて下さい。お母様、お父様と思いっきり話をすることができたでしょうか。安らかにお眠り下さい。
〔小川さんの父、森川展彦兵長は昭和20年6月5日、マニラ東方山地で戦死。独立重砲兵第20大隊。〕
(おがわ・はるこ)
第2通・「おじいさんのお話聞きたい」
甲斐 聡美(滋賀県栗東市)
滋賀の山々、滋賀の湖、そして蒲生野の青々とした田畑の美しさは、今この平成の世も美しさを保っております。
おじいさんが滋賀の姿を最後に見られたのはいつだったのでしょうか。広島の宇品から比島へと船で渡られるその時のお気持ちは、何を思い何を考えておられたのでしょうか。
おじいさん、私はもう、おじいさんが戦死された年齢の倍以上を生きています。おじいさんが会うことのできなかった父も70歳を過ぎました。この歳になるまでおじいさんのことを語ることのなかった父ですが、幼い頃の苦しい生活に歯をくいしばり、母1人子1人の生活をがんばって生き抜いてきたことを思うと、心が痛みます。そんな父が、色々とおじいさんのことを調べ出した私に、心を開いてくれたことはうれしい限りです。
おじいさん、2年前(平成24年)、父と行った比島レイテ島ブラウエン飛行場の風景は心に焼きついています。レイテは私の第二の故郷です、レイテの風も植物も、何もかもがおじいさんが見た風景ですから。おじいさんの軍事郵便に書かれていた南十字星を私も見ることができましたよ。
おじいさん、とても会いたいです。たくさんお話を聞きたいです。私は今、子どもたちに歴史を教えています。おじいさんに受けた思いや体験を知り、おじいさんが生きた証を次世代の子どもたちにも伝えたいです。平和な日本を創りあげてほしいです。おじいさん、小さな小さな力ですが、私もそのためにがんばりますね。どうぞお守り下さいね。
おじいさん、日本の為にありがとうございました。
〔甲斐さんの祖父・岡田秀三兵長は昭和19年12月8日レイテ島ブラウエン飛行場で戦死。第16師団歩兵第20連隊。〕
(かい・さとみ)
第3通・「災難続きを克服して」
九ノ里俊一(福井県福井市)
昭和18年10月18日、父は第二国民兵で出征をしました。私は7歳で、父を慕い夜になると寂しくて泣き止まず、母も見るに見かね仕方なく夜行列車に乗り朝早く着き、人力車に乗って京都府の旅館まで私を連れて行ってくれました。
父に会い、父からは木製の飛行機を買ってもらって帰りました。しかしながら父との宝物、記念品を空襲で失くしてしまいました。残念でなりません。
3日程過ぎて親戚の人達と一緒に京都の連隊に行き、面会室で10分程話していると、突然に命令が下されて撤収、短い時間が私達の最後であって親子の別れとなってしまった。その後再度面会に行った折には海外派遣(フィリピン)に出発して面会できず寂しく帰宅しました。
その後数回の手紙がありましたが、戦況が厳しく音信不通となって、戦況はますます悪化の道をたどり本土空襲が多くなって、ついに昭和20年7月19日、福井までも空襲となって、B29の焼夷弾で焦土化となって、私達の家も財産も焼失し、疎開で少々助かった家財は昭和23年6月28日、福井地震によって家もろとも失い、更に1ヵ月後7月23日には大雨による福井水害が発生して、痛んだ堤防が決壊して2メートルあまりの浸水で道路が川となって、木材その他色々な物が流れ出し、救命ボートが走り、着の身着のままの生活となってしまいました。しかしながら多くの皆さん方に助けられて、お力をいただいて漸く立ち上がることができましたら、今度はお隣から出火で、家が半焼してしまい、どうしてこのように災難が続くのかと失望してしまいました。
だけど母は強かった。負けずに再興をなしとげ偉かったと思います。人様のおかげをもって、私もご縁があって結婚して2人の子供に恵まれて、昭和60年に家族が一緒に暮らせる家と思って4回目の家を建て暮らしております。
母も平成14年に他界、2人の子供も結婚し、孫も3人あって楽しい生活を送らせていただいております。父上様にお礼を申し上げます。
私も平成4年と15年の2回、フィリピン、レイテ島に日本遺族会の慰霊巡拝に参加をさせていただいて、現地の様子を知ることができて、日本国と違って生水を飲むことができず、焼け野原で食糧もない野戦で、異国の地で、どんな気持ちで、どんな思いだったかと、計り知れない苦しみ、戦争の情けなさを思い寄せて止みません。
福井では復員された戦友の皆さんが集い、166名の方々で資金を助け合い、昭和50年に比島戦没英霊之碑を福井県護国神社境内に建立されて毎年10月第3日曜日午後1時より、戦友を思い偲んで慰霊祭を斎行しておりましたが、戦友の皆さんも高齢と病気で他界されて、斎行できなくなって、その後は私達遺族が会い集い、6485柱の英霊顕彰を続けて行きたいと思っております。今年は終戦七十回忌慰霊祭をさせていただきたいと思っております。
雄々しくも幾山河を戦いていまだ帰らぬ父ぞ懐かしい
〔九ノ里さんの父・九ノ里高男兵長は昭和20年7月15日、レイテ島カンギポットで戦死。第16師団歩兵第9連隊から師団司令部付。〕
(くのさと・しゅんいち)
第4通・「お父さんへ」
谷口 芳枝(千葉県船橋市)
お父さんへの手紙は平成15年にルソン島への御霊迎えの時以来ですね。私は昨年(平成25年)暮れに古希を迎え、年齢を重ねる程、写真でしか知らないお父さんへの思いは募ります。これまでお父さんとのつながりを求め、お父さんの足跡を尋ね回りました。
お父さんは昭和19年2度目の出征前に、赤子の私を背負い、ねんねこを掛けて田の見回りに行ってくれたそうですね。多くの人からよく聞かされて来ました。その度に私の心が明るくあたたかくなりました。平成15年に、昭和10年お父さんが25歳の時の毛筆なる短歌「霜降りて踏みにじられし野辺の草偲びし後の春のよろこび」に接し、私はお父さんの心に触れた気がし、私の人生の指針にさせてもらっております。
お陰様で私も毎日元気に過ごさせていただいております。あの戦争のことは子や孫たちに本当のこととして伝えていかなければと強く思っております。
お父さん、深い愛を有難うございました。
〔谷口さんの父・齊藤武義曹長は昭和20年7月28日北部ルソンのカバヤンで戦死。独立混成第58旅団。〕
(たにぐち・よしえ)
第5通・「父が帰って来た夢を見る」
土屋 房子(岐阜県中津川市)
昭和17年、私が2歳2ヶ月、姉が5歳3ヶ月で父は召集され、私が2歳10ヶ月で死亡の公報が来たとのこと。私達家族は祖母、母、姉の4人暮らし。私は、父は綺麗な服を着た女の人だと小さな時は思っていたようです。
36年前(昭和53年)に遺族会の方からレイテ巡拝の8ミリを見せていただき、姉と2人で父の眠るレイテに行きたくなり行きました。”汗と涙と埃”の巡拝だと言われた通りでした。私は5歳の子供を1週間主人と義父に預けて行き、5年後また行かせてほしいと主人にお願い致しましたが、駄目だと言われ、それなら主人に行って来てほしいと言いましたら、15年間に10回行って来て、もう行かないよとのこと。それから私が3年に1度の割で6回行きました。姉が2回、母が1回行き、母は82歳で父の所へ行って会っていることと思います。
最初の巡拝1週間前に建て前をして疲れが出て、40度の熱を出し3日間寝込みましたが、それでも行こうという事になっていた朝5時頃、父が帰って来た夢を見ました。家族の居る部屋に来て「125枚の服を着て50人の兵隊さんと一緒に来たからこんなに遅くなった」と言い、下半身しか見えなかったが、国防色のきちんとした服を着てました。後でその夢のことを人に話したら、「125枚の服って何?」と聞かれましたが、その意味までは分からないけど、確かに父はそう言ったのです。
3日後オルモック、ポンコスホテルで、夜中姉の所へ2人の兵隊さんが来て、見ようと思っても眼をふさがれ、見てはいけないと言われたので私を呼び、父だから見るように私の名前を大きな声で呼び、私は起こされ目がさめてしまいましたが、兵隊さんは父だったと姉は言ってました。また会いたいです。
〔土屋さんの父・西尾武夫伍長は昭和20年1月3日、レイテ島オルモックで戦死。第26師団独歩第12連隊。〕
(つちや・ふさこ)
第6通・「お父様に申し上げる言葉」
新田 和子(鳥取県米子市)
今年(平成26年)は終戦から69年です。お父様が仙台市花壇60番地の家から出発されたのは昭和19年6月18日午前10時でした。日記を開くと「行先は今度は支那、比島、外地のどこか不明」と記され…70年の歳月が去りました。
第34航空地区司令部の長として昭和19年7月27日、比国レイテ島サンパブロに空路着陸。米軍上陸10月20日。12月6日戦死認定の公報を昭和22年7月10日宮崎県油津で受領。
仙台から油津移住。日本パルプ工場から米子工場転勤移住。平成2年9月お母様は逝きました。お父様のお傍で朝鮮羅南の夏以降の銃後、戦後の生活を報告されたと思います。お父様にすべてを任されたお母様の責任は重大で、軍人の家族として、お父様の名を穢さぬよう質素を旨とし自立心、忍耐、努力と5人の子供にとり、どれも厳しい躾を受けました。多くの大事に直面しましたが、健康で自立し、お父様の戦死当時の年齢を遥かに越えました。
お母様は常に、「お父様は無言の教育をもって軍隊、家庭でも終始した」と話していました。それは50年ぶりに探し出した父の当番兵と東北6県、新潟出身の配下の方々から軍隊での父の姿を伝えていただき、昭和12年からの空白だった戦野の生活を知ることで、父の姿の深層を知りました。更に満州第824部隊戦友会から分離、新田部隊戦友会を通算20回も開催、米子の父の墓参に鶴岡銘木桜花を持参されました。その間、部隊史編纂委員会を作り、新田部隊史を老兵の方々とも6年をかけて平成7年12月出版。同書はドイツ、ベルリン国立図書館から閲覧に供するためとの依頼書を受け寄贈しました。
和子は35年間会社勤め定年退職後は戦史研究、戦跡調査をライフワークとし、お父様の戦歴に沿って東アジアから東南アジアと大東亜戦争関係地域大陸巡行、海域巡航で慰霊と遺骨収集を実施、本土の軍事遺跡も尋ねます。
回想しますと、お父様にお伝えできなかったことは…終戦は東北軍管区司令部の本部内、日本陸軍内の末端でのご奉公に従事できたことを心の中で誇りにしております。そして新田部隊戦友会とご家族とのご高誼により、至純な男の世界と当時の日本社会の形成の一端をうかがい、歴史が過去と現在との対話であると自覚します。お父様の考えの婦道に背きましたが、自立し定められた運命を一筋に「父への報告書」の完成まで歩み続けます。
〔新田さんの父・新田正義中佐(大佐昇進)は昭和19年12月6日レイテ島で戦死。第34航空地区司令官。〕
(にった・かずこ)
告知
曙光会々員たちの『英霊に捧げる手紙』19通を以下の予定で掲載致します。
英霊に捧げる手紙(全3回・19通)
●6月15日
第1通・「顔も知らないお父様へ」小川晴子
第2通・「おじいさんのお話聞きたい」甲斐聡美
第3通・「災難続きを克服して」九ノ里俊一
第4通・「お父さんへ」谷口芳枝
第5通・「父が帰って来た夢を見る」土屋房子
第6通・「お父様に申し上げる言葉」新田和子
●7月6日
第7通・「恋しさ募るお父ちゃまへ」本間尚代
第8通・「父さん、母さんは103歳で元気よ」大田旬子
第9通・「父さんのおこころ、私の大切な宝物」大脇芳子
第10通・「命日の八月一日は靖国神社へお参り」荻原悦子
第11通・「一緒にお酒も飲みたかった」金森武士
第12通・「一通だけ残る手紙に私宛の訓戒も」亀井亘
●7月13日
第13通・「小林家再興、孫、曽孫は8人です」小林敦子
第14通・「お父さんが撮った私と母の写真」高木美子
第15通・「無言館で年雄兄さんを偲びます」鳥屋ヨシ子
第16通・「父上、あなたの知らない話三つ」牧野弘道
第17通・「飛べ! バタンガスのバラよ」クリム洋子
第18通・「つながり」阪本征夫
第19通・「靖國に眠るお父さんへ」田村治子
*曙光会は、フィリピン戦従軍者と戦没者遺族を中心とした者の集りで、戦争体験の記録と日比友好親善を目標としています。
