分分夜話 第9話 第6部 18-21
無動 来西
21世紀を国は越えられるか
——終末植民地主義を克服する道——
目次
はじめに
第1部〔8月18日公開〕
1.譲位と個人と法律と
2.山本七平著『現人神の創作者たち』
3.前期水戸学の鋭鋒
第2部〔8月25日公開〕
4.崎門学と国学
5.文部省作成『国体の本義』
6.忘れられた植民地主義
第3部〔9月1日公開〕
7.日本の神(かみ)の諸相
8.天主教の”でうす”は神か
9.日本の神を蚕食した基督新教
第4部〔9月8日公開〕
10.植民地主義から終末植民地主義へ
11.渡辺京二著『逝きし世の面影』・I
第5部〔9月15日公開〕
12.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅱ
13.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅲ
14.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅳ
第6部〔11月2日公開〕
15.招魂社の背後に欧米列強の植民地主義者の魔手が
16.勅裁を経て合祀される公務死、法務死の人々
17.A級被告の合祀と行幸批難
18.北白川宮能久親王と同永久王の合祀
19.神威の盛衰―御代の平安は翳(かげ)らないか
20.御名代と御由緒物
付篇:斎王の御本質と大御手代奉仕について
21.終章 神前にて
参考文献
18.北白川宮能久親王と同永久王の合祀
靖國神社には二つの神座があります。ひとつは、明治天皇の仰出(おおせいで・御沙汰)によってお祭りされることになった幕末以来の神霊(みたま)の宿る御鏡(神体、みかがみ)を奉安しています。今ひとつは、北白川宮能久(よしひさ)親王と北白川宮永久(ながひさ)王、二柱の神霊のための神座です。前章までは、前者について述べましたので、ここでは後者の合祀について概観します。
能久親王は弘化4年(1847)2月16日、伏見宮邦家親王の第9王子として誕生され、明治28年(1895)10月28日に台湾征討近衛師団長として台南でマラリアに罹り戦病死され、皇族としては初めての外地での殉職者となりました。千代田区北の丸公園内にある騎馬像の北白川宮能久親王像の雄姿は、新海梅太郎の優れた芸術性によって明治36年1月26日に建立されたものです。国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり、台湾神社(昭和16年に台湾神宮と改称)が明治33年9月18日に創建され、終焉の地には台南神社が大正12年10月28日、同じく能久親王を祭神として創建されるなど、台湾各地の60社の主祭神としてお祭りされましたが、敗戦後すべての神社が廃祀(廃社)されました。
北白川宮永久(ながひさ)王は明治43年(1910)2月19日、北白川宮成久(なるひさ)王の第1男子として誕生されました。母は明治天皇の第7皇女房子内親王で、のちに昭和22年4月29日に伊勢の神宮祭主に任ぜられました。大正元年(1912)9月13日に外祖父明治天皇の大喪の礼が行われたとき、永久王は「おじいさまがいらしった」と話し、側近が場所を尋ねると、「ほら雲に乗っていらっしゃるではないか」と話した逸話が紹介されています。
陸軍砲兵大尉(参謀)として昭和15年(1940)3月、蒙彊方面の駐蒙軍に出征し、永久王が統率する特別指導訓練の最終日、同年9月4日午前11時過ぎ、不時着して来た戦闘機の右翼に接触し、午後7時過ぎ亡くなられました。享年31歳でした。空路亡骸は翌日夜8時頃、高輪の邸宅に到着しました。3歳の道久王は日の丸の小旗を持ち、正門で亡骸をお迎えしたとのことです。道久王は、後年平成13年(2001)4月10日に伊勢の神宮大宮司に就任されました。
永久王の殉職は戦死(戦傷死)と発表され、蒙彊神社の祭神として奉斎されることになりましたが、終戦後同社は廃絶され、その神体(霊璽)は靖國神社境内の元宮に奉遷されていました。
靖國神社は昭和21年9月7日に単立宗教法人として登記が完了しました。別格官幣社という社格が制度上意味を持たなくなってしまいましたが、逆に別格官幣社ではできなかった皇族の合祀が可能になりました。昭和34年2月16日付で、宇佐美宮内庁長官に「北白川宮能久親王殿下並同永久王殿下奉斎に関する御願」を筑波宮司より提出しました。
(前文略)先般の終戦により俄かに廃祀の厄に遭わせ給い、今日に至りました(略)両殿下には戦後の特異なる事情により今日に至るも未だ、いずれの神社にも奉斎申し上げられず、かつまた近き将来においても新たに一社を興して奉斎申し上げる儀も極めて困難なる事と拝察申し上げます。(略)
御社格の制度も廃止せられたる現在、両殿下を当神社に合祀奉斎申し上げて、皇室の御殊遇のもとに永く崇敬奉慰の祭事を御奉仕申し上げる事こそ(略)両殿下の尊霊に報い奉る現下の方途と存ぜられます(略)。
この願出に対して掌典職より追加の文案が届けられ、両殿下奉斎のための神体として御鏡一面が昭和天皇より賜ることが知らされました。昭和34年10月3日、宮内庁長官から皇居で宮司に御鏡が伝達されるとともに、創立90年に際しての御製一首をも伝達されました。
ここのそぢ へたる宮居の 神々の
くににささげし いさををぞおもふ
同月4日、招魂の儀を行い、第86回合祀が終了し、翌5日には臨時大祭が勅使参向のもと行われました。この年の10月7日、朝鮮公族・陸軍大佐李公(広島で原爆により公務死)の招魂式を行い、同月17日の霊璽奉安祭(第87回合祀)の終了により祭神として合祀されました。神社が官幣社でなくなり、単立宗教法人となったことが、公族をお祭りすることを可能にしました。
明治天皇の仰出により奉斎されました御鏡(みかがみ、神体)と昭和天皇が下賜されました御鏡とが、靖國神社の祭神のために奉安された二座の神座です。そして、すべての祭神は歴代天皇が裁可、またはお認めになられた殉国、殉職、殉難の人々の御霊(みたま)を招魂して、合祀してきたものです。このゆえに、歴朝御親拝は祭神の側からすれば、当然至極のことで、「黙契」という以上に祭神の霊威の盛衰にかかわる重大事なのです。明治7年(1874)1月27日の行幸から昭和50年11月21日の行幸まで、都合28回の行幸(御親拝)に加えて、大正14年4月29日の摂政宮の行啓、また3度の御名代の参拝が行われなければなりませんでした。招魂された祭神に何を願われるのか、慶応4年(戊辰1868)6月2日の江戸城西丸で行われた招魂祭の祝詞にその後の靖國神社の基本となる文章があります。祝詞(のりと)の全文は長文のうえ、宣命体(せんみょうたい)で書かれていますので、口語訳を( )で示して関係する所を書き下します。
(落命した将士〔いくさびと〕たちのことを昼夜を分かたず、天皇〔すめらみこと〕は、歎き悲しみたまい、何とかして)、その魂の往方〔ゆくえ〕を後軽く、心安穏〔おだやか〕に、思い安息〔やすまる〕べく、慰めたまい治めたまわんとして、(立派な祭場を設け、盛大な奉り物をお供えし、絹の反物を美しくお納めし、慎んで祝詞を申し上げました。今日からは)、兵士〔いくさびと・将士〕の幸御魂〔さきみたま〕奇御霊〔くしみたま〕は、天翔〔あまがけ〕り、国翔り、天皇〔すめら〕が御代〔みよ〕をば、ときわに、かきわに守り幸〔さき〕わいたまい、仕えまつる臣たちを始め、これの大城に集いさぶらう(将士たちをお守り下さり、立派に勤めさせて下さい)。
祝詞の「後(うしろ)軽く」は、後安しと同じく、後の心配がない、あとに心残りがない、という意味です。激しい戊辰戦争で戦死、戦病死した将士たちの御霊(みたま)を招き、盛大な奉り物を捧げて、慰め申し上げた上で、御代(みよ、御世)が盤石であるように、神助を垂れさせたまえ、と願う事が主旨です。
昭和50年11月20日の行幸啓を最後に御親拝は昭和、平成、令和と行われていません。246万余柱の神々に御代の平安を願うのであれば、まず御親拝されて、親しく神霊(みたま)に「身を捨て労(いたず)き、仕え奉れる」ことを「慰めたまう」(前引祝詞)ことが、神威を高め、国の平安につながると思われます。
昭和天皇が昭和50年の御親拝を最後に行幸されなくなってしまったのは、すでに述べましたように、政治問題化される状況下では、心安らかに行幸、行幸啓はなり得ないとされてきたことと推量されますが、少なくともこの言論の収束点を見出す努力を政府、宮内庁は怠ってきたのではないでしょうか。
その結果、平成30年8月に始められた神社からの行幸啓請願は宮内庁に一就されました。平成31年は東京招魂社創建から数えて150周年にあたり、過去50周年に際しては大正8年(1919)5月2日に行幸が行われ、同じく100周年には、昭和44年(1969)10月20日に行幸が行われましたことを伝えて神社から宮内庁へ請願されました。口頭での回答は無残なものでした。50年、100年の次は200年だ、というのです。孝明天皇100年祭や明治天皇100年祭といった周年では、50年100年の次は200年かもしれませんが、神社創建の周年を御歴代の崩御の日を偲び行う周年祭と混同されているように思われます。また、この請願には、皇族二柱の合祀から数えて60周年というこれも節目の年であり、昭和22年に皇籍離脱を余儀なくされたとはいえ、宮内庁の無視を決めこむ態度には理解に苦しみます。
平成7年10月27日、皇太后宮女官長・北白川祥子(さちこ、1916-2015、永久王妃)は、靖國神社で行われる北白川宮能久親王百年祭の前日に参拝されました。この年の8月15日、村山首相は「戦後50周年の終戦記念日にあたって」との談話を発表しました。
わが国は遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え(略)た。
これが戦後の知識人たちの平均的考えでしょうが、少なくとも開戦時にアジアの中で、欧米の植民地化に抗して独立を保っていた国はいくつあるでしょうか。
オランダとの独立戦争(1945年8月17日~1949年12月27日)で80万人が犠牲となったインドネシアに、約2,000名の元日本兵が祖国に帰らず、残留してインドネシア独立軍に参加しました。1958(昭和33)年に訪日したスカルノ大統領は、日本への感謝の意を表しました。
市来龍夫君と吉住留五郎君へ。独立は一民族のものならず全人類のものなり。
1958年8月15日東京にて。スカルノ
また、1976年以来インドネシアの国家最高の栄誉「ナラリア勲章(独立名誉勲章)」が金子智一たち6名に授与されましたが、1995(平成7)年には、スハルト大統領から元日本兵69人に対し、官邸において感謝状が贈られ、その功を労われました。村山談話の「植民地支配と侵略」の批難は、日本が一方的に被らなければならないのでしょうか。
明治28年(1895)、日清戦争によって日本に割譲された台湾で、台湾神社を始め60社の主祭神になられた能久親王は、異国で不運の死をとげたことで日本武尊にたとえられ、原地の人々に崇敬されました。平成7年10月17日には、第120回の合祀が行われ、その10日後に北白川女官長は参拝されたのです。
この御親拝をめぐって私が憂慮しているところに鋭く踏み込んでいるのは、松本健一著『昭和天皇―畏るべき「無私」』(2013年ビジネス社刊)の一節です。
現在問題なのは、戦争で死んでいった人びととその戦争で国民に死ぬことを命じたA級戦犯とを、等しく「神」として祀ることへの国民のわだかまりを、靖國神社および小泉首相(当時)があまり深刻に考えていないことである。
昭和天皇はこのような国民感情の揺れや分裂に対して敏感であったから、靖國への御親拝をやめたのに違いない。私は首相が靖國神社に参拝するかどうかより、日本の〈大いなる神主〉である天皇が靖國への参拝をとりやめていることのほうが、はるかに重大な問題を孕んでいるようにおもうのである。それに、昭和天皇はその国際法の知識や歴史認識から、中国大陸への日本軍の進出を「侵略」と考えていた。そのことは、鄧小平副首相が1978年10月、初めて中国要人として来日したさいの天皇の発言(10月23日)に歴然とあらわれていた。わが国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をかけ、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。(傍点引用者)
鄧小平を感激させた、この発言にある「遺憾に思います」と「ひとえに私の責任です」という言葉は、1945年9月27日に天皇がマッカーサーに会見したさいのそれとよく似ている。(中略)
なお、鄧小平副首相の来日から8年後、A級戦犯が合祀された靖國神社への中曽根首相の公式参拝に対しての中国での反対運動に配慮して、翌年から参拝を中止したことについては、すでにふれた。しかし、このときの天皇の反応については、まだふれていない。
岩見隆夫の『陛下の御質問―昭和天皇と戦後政治』(毎日新聞社、1992年刊。現在は文春文庫)に、天皇の反応が次のように出てくる。まもなく、富田朝彦宮内庁長官から中曽根(首相)のもとに、天皇の伝言がもたらされた。
「靖國の問題などの処置はきわめて適切であった、よくやった、そういう気持ちを伝えなさい、と陛下から言われております」
昭和天皇がA級戦犯に同情的であったことは、いくつかの発言でもわかるとおりである。しかし、それと靖國神社へのA級戦犯の合祀とは問題が別である。そういう政治的・外交的感覚が、右の発言には窺えよう。
前章で明らかにしましたように、A級被告14名の招魂式は済んでおり、合祀のことも御承認されてはいましたが、その時機をいつにするか、という内外の情況を考慮しなければならなかった問題を靖國神社の総代会に宮内庁は預け、その結果、総代会によって最終的に宮司判断となっていました。松本健一氏は次のように結論します。
天皇はみずからの戦争責任を意識しつつも、それをA級戦犯たちが負ってくれたとも考えていた。 そうであればこそ、A級戦犯の合祀にわだかまりを持つ国民感情を慮り、そのうえで戦争責任に気配りした政治および外交をおこなえ、と政治家(上述のばあいは中曽根首相)に伝えたかったのだろう。「靖國の問題などの処置はきわめて適切であった」という中曽根首相への伝言は、そういう天皇の政治的・外交的な感覚をよくあらわしていた。
松本氏のたどり着いた結論は正しいと思いますが、では「政治的・外交的な感覚」を構築するにはどうすればよいでしょうか。おそらく最も重要で忘れてはならないのは、反植民地闘争とその変容を国または、国の依頼を受けた機関が歴史的考証を行うことでしょう。大東亜戦争の諸問題を考えれば、満洲事変、支那事変に考察が及び、第1次世界大戦で三国協商側についたことの是非も論じる必要があるでしょうし、日清、日露の戦役、さらには嘉永6年(癸丑、1853)6月、アメリカの東インド艦隊司令官ペリー来航以来の幕末動乱まで視野に入れた「植民地主義と日本の近代史」が編纂されることが、靖國神社をめぐるあらゆる問題の解決につながります。そこでは、幕末から今次大戦までの靖國神社の246万余の祭神たちの犠牲が、いかなる意味を持つのかを顕彰することでもあります。
本章の最後に、山本七平著『戦争責任と靖國問題』(2014年さくら舎刊)に触れておきます。同書第2章「東京裁判で何が裁かれたのか」より。
マッカーサーにとって最も不愉快なものは、アメリカ本国の新聞の彼への批判と、ウェッブの法的主張であっただろう。
それが「天皇出廷問題」で爆発した。では一体彼が、なぜかくも頑強に天皇の出廷を拒みつづけたのか。なぜ、法廷代理人を証人として出廷させて証言さすことまで封じてしまったのか。それは単に、「天皇との単独会見」に基づく印象だけによるものではあるまい。だがその理由はおそらく彼の胸の内だけに秘められており、断言はできぬが、天皇を「光の子」に改宗さすことによって、全日本国民の「光の子への回心」の雪崩現象を期待していたと思われる点がある。
皇太子(現上皇)の家庭教師に、絶対的非戦論者で、良心的徴兵拒否の権利をもつクエーカー教徒のヴァイニング夫人を選んだもの、その一環であっただろう。
山本七平氏の「天皇を“光の子”に改宗」させ、日本国民をキリスト教徒になし得るとすれば、マッカーサーは福音宣教の英雄となり得ただろう、との示唆は正しいと思われます。
明治維新後、廃仏毀釈など行きすぎた運動もありましたが、神仏判然令によって神道と仏教の習合状態を改め得たのち、「神社は国家の宗祀」と考えて行く中で、「天照大神を祀る神殿・神社の建設」(注1)が建議されることになります。明治2年(1869)5月公議所第9号議案に杉浦誠の「天主教を駆(か)るの議」に、
別に我国の教法を設け、伊勢大神祠を東西両京の地へ建立し、我国の宗門とし、主上を始め奉り、その門に入り、神儒の教を簡約せる一部の書を俗文に作り、衆に示すべし
とある同9号議案には、新宮左太夫の「天主教を駆(か)るの議」にも、
仏氏を悉く帰俗せしめ、寺塔を廃し、勢廟の遙拝所となし、広く学校を興して、人倫の道を教導し、天祖の神道に帰せしむるの外、他の策なし
と見え、これは寺院を神宮遙拝所とする案でした。天主教を駆るとは、天主教を追い立てることによって、日本のキリスト教化を阻止し、植民地主義者の蹂躙を避けようとする考えに基くものです。明治4年、神祇省出仕浦田長民(後に神宮少宮司)が「府県ならびに開港場へ神宮遙拝所を建てん事を乞うの議」)(注2)で、この方策が成ったならば、「労せずして耶蘇(やそ、外教)を防ぐに足るべし」と建言すると同時に、神宮の大麻(お札)を家庭で奉斎することが、遙拝所建設と同様、常に天照大神を主神とする「門徒」たり得るとするものです。大麻(たいま)はお祓いの具“おおぬさ(大麻)”の意味で、麻の繊維を使います。現在、神宮の付託を受けて神社本庁が全国に約800万体の神宮大麻をお配りしており、少なくとも神職は必ずそれを奉斎することによって、神宮を通して、御代の平安を日々祈ります。靖國神社の深刻な問題は、単立宗教法人であるために、神職が誰一人神宮大麻をお受けせずに、戦後70年ほどをすごしてきていることです。
神宮大麻を家庭でお祭りすることによって植民地主義者の魔手が及ばないようにすると考えてきたことの反面は、マッカーサーが夢見た日本国民のキリスト教徒化でした。
注1.
平成12年1月月刊、神宮教養叢書・第9集、西川順土著『近代の神宮』第1章「伊勢神宮と国民」に続く第5章「天照大神を祀る神殿・遙拝殿の建設」参看。
注2.
同上。P157収載。
(令和2年9月30日記)
19.神威の盛衰―御代の平安は翳(かげ)らないか
山本七平著『戦争責任と靖國問題』に、「人が人を神に祀るという伝統がローマにあったことをエウセビオス(注:古代教会の姿を描いた“教会史の父”と呼ばれるキリスト教著述家)が『教会史』(Ⅱ2)で記している。」と述べた上で、次のように論じています。
エウセビオスは「古来からの慣習(ノモス)では、ローマ人の間ではなんびとも立法府(スユンクレートス)の議決と勅令によらなければ神格化されない」と定められていることを記している。
いうまでもなくこれは当時の元老院と議決によって行われた一種の国事行為で、カトリックの「列聖」を連想させるような最も重要な宗教行為だから、どのような慎重な審査と討議の結果それが行われたかは明らかになるし、祀ることを決定する機関も明らかである。ところが靖國神社はそうではないので、この例を引くと国会の議決で東條以下の戦犯が合祀されたことになってしまう。
少なくとも靖國神社でお祭りするべき人の審査は、陸軍省、海軍省、内務省等の厳格な審査を経て、天皇に上奏され、裁可を仰いできたことはすでに述べたところですから、「一種の国家行為」でした。戦犯については、国会で公務死、または法務死の認定を示していますから、合祀されてよいとの判断のもと、その時期が神社にゆだねられたにすぎません。山本氏の戦前の「現人神(あらひとがみ)」への批判は誤っていませんが(本稿第1部)国権の最高機関としての裁可―祭神とされるべき人々の認定について―を誤っているかに主張することは無理です。祭神の対象者は、大東亜戦争での戦死、公務死の人々だけでなく、ペリー来航以来の殉国、殉難の志士たちを含めてのことですから、「忠に報ゆる義の声」(注1)を祭神に親しく掛けることができるのは、御親拝によるか、御名代による御参拝しかてだてはありません。
また、山本氏は単立宗教法人となってからの靖國神社についても次のように批判します。
自らが「信教の自由」を主張するなら、他人の信教の自由も尊重すべきである。「厚生省から祭神名票が来たら自動的に合祀する。合祀した者は一枚の座布団に座っているから、霊璽簿からの分離は絶対にできない」は国家を背景とした強制であろう。
純然たる一宗教法人なら、他の宗教感情を無視したそのような強制はできない。簡単に言えばある宗教法人の名簿から、信教の自由を無視して、たとえば遺族が要求してもその名をはずすことを拒否しうる宗教法人など、あれば不思議である。
「一枚の座布団」は神体の御鏡(みかがみ)のことで、霊璽簿という浄書された神名帳とは別物です。この誤解はさて措き、「霊璽簿からの分離は絶対できない」は、少し説明が必要です。本ホームページに“『遺族の遺言』その一「祭神名の訂正を願って」”で本間尚代さんが、靖國神社の祭神名の誤記を訂正してほしい旨願っておられたことと同様、霊璽簿の訂正または削除は、どうすればできるかということでしょう。祭神を最終的にお認めになられた(戦前ならば裁可)のは、歴代の陛下ですから、神社から宮内庁へ霊璽簿氏名の誤記7,200名余(現時点で判明分)の訂正または削除を申し出て、「御覧」物として、今上陛下に慣例となっている上奏簿と同様お認めいただければよいのです。また、その他の誤記を含むと12,000名からの訂正が必要と言う神社側の本間さんへの説明は、何を冒瀆しているのかすら分からない神職が棲息しているということでしょうか。
今ひとつの山本氏の批難は、御霊(みたま)の集合している神体(座布団)から要求された人の御霊だけを分祀(ぶんし、山本氏は分離という)できるか、否かとの問題です。『神道史大辞典』(平成16年吉川弘文館刊)の「分祀」の項はよく整理されています。
分祀。特定の神社に祀られている祭神を、異なる場所において恒久的に 祀ること。本社の祭神の分霊(ぶんれい、わけみたまとも)を祀ることになり、分宮・新宮・今宮・遥宮(とおのみや)などを冠した社名は、本社の祭神の分霊が祀られたものである。特定社の祭神に限らず、神籬(ひもろぎ)に勧請しての祭祀形態は古くからあるが、分祀はあくまで特定社の分霊であるので、本社は分霊の本体である祭神は変わらず祀られている。本社と祀られる場所との関係は、神戸や御厨(みくりや)である場合や、封建領主の信仰神、稲荷、愛宕などの特定信仰など、歴史上さまざまな形態がある。官国幣社の分霊は許可制であった。
一方、本社の祭神のうちの一部を本社から別の場所に移して祀ることも、分祀と称する例がある。神社合祀された祭神を元の氏神として祀る場合がそうであり、これは復祀とも称される。この場合先の分霊とは異なり、分祀した祭神は本社に残らないので、本社では祭神として祀られないことになる。近年の靖國神社の問題で報道される場合の分祀とは、後者の形態である。(八幡崇経)
実は神職にとってこの説明は基本知識ですが、単立宗教法人の靖國神社には果たしてこの常識があるのでしょうか。神職には、階位と身分があります。階位は下から、直階、権正階、正階、明階、浄階とあり、靖國神社に限らず多くの大社では正階位か明階位の神職が勤めていますが、これには教員免許と同じでインターンを伴わない、ペーパーだけの者も多く存在しています。そこで階位を補うために身分が設けられています。下から、4級、3級、2級、2級上、1級、特級とあり、浄階位は1級と特級の者のみで構成されます。靖國神社の神職はこの神社本庁が定める階位、明階か正階かを持ってはいますが、身分はおそらく2級以下の者たち、または身分を持たない者たちばかりと思われます。さきほどの分祀について言いますと、『神社祭式同行事作法』(岡田米夫編集、神社本庁刊)に、鎮座祭、合祀祭、分祀祭とあって、その意味や式次第が教本として解説されています。
私が最も恐れていますのは、御親拝がなくお祭りも正しい作法、正しい姿でないとしたら御霊(みたま)はやはり、衰え、その影が薄くなってしまうのではないかとのことです。一、二例をあげますと、祝詞の冒頭で、「靖國神社の広前に」と現在奏上されますが、いつのころよりこのような漠然とした作文に変更されたのでしょうか。皇大神宮(内宮)の祝詞であれば、「天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)の大御前(おおみまえ)に」と、具体的に神名を奏上することから始めるのが千年の伝統です。つまり、神社の「広前」で祝詞を奏上するのではなく、具体的に神の名を、それが多くの祭神の代表であっても奏上するのが常識です。江戸城での招魂祭では、招魂される将士の実際にあった奮戦、戦死のさまを奏上しているように、きわめて具体的であることに対して、「広前」の一語で、246万余柱の神霊を語ってしまっては、まことに申し訳ないと思われますが、これは全国の神職に正答をお聞きしたいとも思います。
今ひとつの例として、神職の常識である「参籠(さんろう、おこもりのこと)」や「潔斎(けっさい、心身を清めること)」が理解されていないようです。神に奉る品々、神饌(しんせん)を調理することは、日常的にどこの神社でも行われていますが、本来神饌調理は神職が参籠して潔斎の上、行うものです。靖國神社ではいつのころから始めたのか、住込みの学生たちが調理しているようです。優秀な国学院大学の学生たちなので、美わしく調えられてはいますが、神職がそれを勤めないということは、果たしてお祭りを奉仕する資質が養われるものでしょうか。
繰り返しますが、私は神威の衰退、消滅を恐れるのです。昭和3年(1928)制定の神社関係法令には、正しい祝詞や美わしい神饌調理などは、お祭りを勤める際の常識であったので、何も規程はされていませんが、第2条と第3条は参考のために引いておきます。
第2条。別格官幣社靖國神社の祭神は地方長官の許可を受け縁故ある地方の「招魂社」に合祀することを得。
第3条。祭神の霊代は公衆に拝観せしむることを得ず。
当該神職は特別の事由あるときに限り官国幣社に在りては内務大臣、府県社以下の神社に在りては地方長官の許可を受け之を拝観することを得。(注。霊代〔れいだい、みたましろ〕)
第2条は、靖國神社の祭神を分祀(分霊)することができるとの規程で、先ほどの解説では前者の場合であって、「本社には分霊の本体である祭神は変わらず祀られて」います。
神体(霊代)を座布団にたとえるのはあまり感心しません。神体はこの場合、御鏡(みかがみ)なので、鏡の機能を考えた方が分かりやすいと思います。鏡を二面用意して、互いに表を向け合うと、鏡は少しずつ小さくなりながら数知れず見えます。つまり、鏡は海よりも深く、空よりも遠く何かを映すことができます。神の御霊(みたま)を鏡に移す、奉遷することも、その鏡に何かを映すことも、鏡の“うつす”というすぐれた機能が期待されているのです。したがって、第2条の靖國神社の祭神の分祀の場合、数多ます祭神の中から分祀祭によって、その分霊は新たな招魂社(のちには護国神社)の祭神となりますが、靖國神社には分霊の本体である祭神はお祭りされています。もちろん、その家には、祭神となられた方をお祭りしています。この場合を図示します。
靖國神社の祭神………A
Aの分霊(招魂社)…B
家庭での祭神…………C
Aは勅裁によって合祀された神霊(祭神)で、Aからの分霊がBですから、Bは地方長官がかつては決定します。Cはその家庭でお祭りをうける神霊(みたま)ですから、もとは一人の人の霊魂(C)なのですが、国がお祭りすればA、さらに地域的なお祭りされるとBとなります。
この理解をもとに、大江一二三の弔問歌を見たいと思います。
靖國の 宮に御霊(みたま)は 鎮まるも
をりをりかへれ 母の夢路に (原文は電報のカタカナ表示)
この短歌は大江志乃夫著『靖國神社』(昭和59年岩波書店刊)の章末に紹介されています。著者の父が同じ部隊にいた若い見習士官の戦死の報に接して、弔電として彼の実家に届けた短歌でした。のちに信時潔が作曲して国民歌謡に選定されたと言います。
問題はこの歌の解釈のしかたにあります。直接的な意味ですと、靖國神社の祭神となったAさんに時々お母さんの夢路に帰って行って下さい、というものでしょう。それはあくまで大江一二三の希望であり、それ自体は決して批判される心情でもありませんが、おそらくAさんの実家では家庭でのお祭りをしていたことでしょうから、靖國神社に永遠にお鎮りになった祭神に「折々帰れ」とは告げるべきことばではないと思われます。
大江志乃夫は、「一身を天皇に捧げた戦死者の魂だけでもなぜ遺族のもとにかえしてやれないものか、なぜ死者の魂までも天皇の国家が独占しなければならないのか」と靖國神社批判をしますが、根本的に間違えているのは、戦没者の御霊は、ひとつは家でお祭りされ、ひとつは地域(護国神社など)でお祭りされ、ひとつは国が勅裁を仰いで靖國神社でお祭りされているとの視点が抜けていることです。祭神の御霊を分祀祭によって、他社へ分霊を遷してお祭りすることが神社関係法で示されていることを忘れては論点が定まりません。
靖國神社の246万余柱の祭神は、広島に投下された原爆で公務死した者を含めて、幕末以来欧米の植民地主義者に対峙して、この国の独立を確保しようとしてきた結果、天寿を全うすることのかなわなかった殉国、殉難の人々です。それらの人々は、少年少女を含めて歴代天皇が、同社の祭神となるべく裁可され、同社を永遠の鎮座地と定められました。昭和40年から同49年までは、靖國神社法案をめぐる熾烈な政治日程の10年間となりましたが、5回提出された法案はすべて廃案となりました。現憲法第20条の信教の自由と政教分離の原則を克服する法理論を形成できなかったことが、廃案の原因でしょうが、それでも多くの国民は靖國神社への崇敬心を失うことはありませんでした。国家管理を神社に望むことは、神道祭祀を採用している限り現憲法下では不可能と言わざるを得ません。では、どういう筋道があるのか、のちに述べます。
靖國神社の祭神について思いをめぐらせるとき、植民地主義と近代文明の功罪が大きな問題点として避けられないと考えられます。渡辺京二氏は『逝きし世の面影』の補足のような意味で、『近代の呪い』(平成25年平凡社新書)を執筆されています。
環境保全という問題意識は、やっぱり人間本位の考えを脱しておりません。人間が棲めなくなるから困るというのでは、人間中心主義に変わりはないのではないでしょうか。私はそうではなくて、人間がこのコスモスの中での正当なしかるべき地位を喪って、コスモスの中に宇宙基地のような人工空間を作って、その中で歓楽を尽くそうとする志向こそ、経済成長至上主義、社会の全面的な経済化の最も悪しき、最もおそるべき帰結だと思うのです。
人は閉じられた生態系の中で生きているものではないということを知った上で、経済成長とは何を地球にもたらすのかを、21世紀の展望を示す『西暦2000年の地球』に読まれなければならず、さらにより本質的な視座を手に入れるためには、槌田敦氏たちの「資源物理学」の指摘に学ぶことが重要です。
いろいろと申しあげましたが、私が痛感しておりますのは、近代のもたらした寄与が呪いに転化するという一種のアイロニーです。そのアイロニーの中からどういう自覚が生まれてくるかは今後の問題だと思います。
寄与が呪いに転化するアイロニー(Ironie)は、資源物理学的に言えば、寄与と信じている行為の裏にその寄与と一体となってもともと存在している呪いが浮上してきた、というにすぎないのではないでしょうか。私の言う穀物経済の千数百年の歴史には、内乱、動乱、飢饉も数々ありましたが、穀物の生産量がずっと安定的に(環境を劣化させずに)右肩上がりで来たことを振り返りみるべきではないでしょうか。
石炭、石油を全く使わない文明が『逝きし世の面影』に具体的に表出していることは、ことばにできないほど貴重です。無から有を生ぜしめようとするかの未来論を沈黙させるばかりか、終末植民地主義の時代に、何をもってこの世を生きる勇気の源とするかを私は子孫たちに『逝きし世の面影』を通して知ってほしいと願うのです。
注1.
人形浄瑠璃・文楽の『仮名手本忠臣蔵』11段目に見える語です。
「ウムさこそあるべし、この上は早まらず上(かみ)の裁きを心静かに、菩提所にて待ち給へ。(略)ほどよき時刻の移るまで某ここに道塞ぎ、よし師直方来たるとも一歩もここは通すまじ。はや疾く行かれよ、方方」と忠に報ゆる義の声に大星始め一味の義士
「こはありがたし忝し。ご好意受ける今の身のやがてお礼は冥途より。さらば」
「さらば」
(令和2年10月5日記)
20. 御名代と御由緒物
植民地主義者・欧米列強の魔手から、日本の独立を守るために急激な近代化をなし遂げて行く間に、殉難、殉国の人々の御霊(みたま)を招魂して、手厚くお祭りすることが、明治、大正、昭和の三代にわたって行われてきました。靖國神社にお祭りされた246万余柱の御霊(みたま)に、御酒(みき)御饌(みけ)や幣帛を奉り、神霊を和(なご)め申し上げるお祭りを「受けたまいて」、「大御代(おおみよ)を常磐(ときわ)に、堅磐(かきわ)に守り奉りたまい、幸わえ奉りたまう」ことを祝詞で申し上げます。ここの「」内は明治2年9月の例大祭の祝詞のことばです。
申すまでもなく、祭神の神威に期待するところは、“大御代の盤石”つまり、世の中の安寧平穏を招来して下さることが主眼です。神威がますます盛んにならなければ、それは招来することができないばかりか、もし神威が衰え、さらに神霊(みたま)の影が薄くなって行く事態が出来したならば、もう誰が何を語りかけようとも静寂のみが神社境内を覆ってしまうでしょう。祭神が去ってしまっても、神社は文化財として残存するでしょうが、そうならないためになすべきことを順を追って記します。
Ⅰ.御親拝が今後も行われないとすれば、どうするか。
Ⅱ.御名代を立てて、伊勢の祭主に倣うことはできないか。
Ⅲ.神体二座を皇室財産にできないか。
Ⅸ.神社のお祭りを正しく行うためには、何をすればよいのか。
Ⅰ.
昭和天皇が行幸、行幸啓を昭和50年以後、見合わせられたのは、松本健一氏が指摘するように、昭和天皇の「政治的・外交的な感覚」によることであったでしょうし、現憲法第20条の法理をもとに国家護持の方策も潰えてしまった結果、平成、令和の代に至っても、親拝の重要性を正しく説明できる者がいないのは、246万余柱の祭神の前にお詫びすることを忘れてしまったことが原因です。
平成2年から平成30年まで、毎年10月17日に霊璽奉安祭が行われ、第115回から第143回までの合祀が終了しました。それらのお祭りの対象は、満洲事変、支那事変、大東亜戦争の戦死、戦傷死の人々です。毎年神社から上奏簿を提出して、先の大戦での戦没者合祀について「御覧」いただき、上皇陛下にお認めいただいてきたと神社側は信じてきましたが、実は陛下のもとへ「御覧」物として宮内庁は扱ってきたのか否か、証拠となる遺された文言はないのです。なぜ、このような疑問を抱くようになるのかと言いますと、それは“大御代の盤石”が揺らいできているからです。地震災害の深刻なものだけでも平成の30年間には次の通りです。
平成6年10月4日 北海道東方沖地震
同 7年1月17日 阪神・淡路大地震
同 16年10月23日 新潟県中越地震
同 19年3月25日 能登半島地震
同 19年7月16日 新潟県中越沖地震
同 23年3月11日 東日本大地震
同 28年4月14日 熊本地震
同 30年6月18日 大阪府北部地震
同 30年9月6日 北海道胆振東部地震
このような地震災害を地球にもともと内在する地殻変動と考えて思考を停止してしまうのか、あるいは環境破壊の影響によると分析しようとするのか、地震や自然災害に対してさまざまな見解が語られました。私は神職としてこのような天変地異が頻発するのは、神々に対する不敬や神々をお祭りすることの不備不足が原因ではないかと考えます。
靖國神社の祭神246万余柱の前に、譲位されるまで行幸、行幸啓がなされず、親拝をなされなかったのは、昭和天皇の昭和50年以後の「政治的・外交的な感覚」を継承されたからでしょうか。あるいは、現憲法の法理上、政教分離の原則を宮内庁は優先して、神社からの上奏簿を「御覧」いただくことすらしていないのでしょうか。
退位されたから、上皇陛下には御親拝をたまわりたいとの主張をなす者もいますが、246万余柱の祭神はすべて歴代の陛下が裁可あるいはお認めになられた戦没者たちですから、上皇陛下が靖國神社に親拝されるとすれば、今上陛下の御名代としてよりほかに道はあり得ません。
令和元年10月17日、霊璽奉安祭が行われ、第144回合祀が終了しました。先の大戦のすべての戦没者たちの招魂祭はすでに終了しており、今もわずかな人数ながら、氏名の判明した戦死、戦病死の人々が合祀されています。今上陛下が神社からの上奏簿を「御覧」になられたものとして大祭が終了しました。
Ⅱ.
令和の御代にも行幸、行幸啓が行われず、御親拝もないとすれば、246万余柱の祭神の神威はいよいよ衰えて行くのではないでしょうか。“大御代の盤石”を招来するために残された道はだぶんひとつしかありません。
それは今上陛下の御名代として皇族または皇族であった方が立たれ、親しく神前で太玉串を奉られ、246万余柱の祭神に今上陛下の御名代として臨んだことをお告げになることです。これが、残された最善の道かと思います。
伊勢の神宮でのお祭りの上では、神宮祭主が最も重い任を果たされています。戦後は女性祭主がつづき、北白川房子(明治天皇皇女)、鷹司和子(昭和天皇皇女)、池田厚子(同)、黒田清子(上皇皇女)と四代にわたって神宮祭主の資格、「皇族もしくは皇族であった者」としてお仕えになられています。昭和27年3月3日、岡田米夫氏は「謹稿」として、おそらく歴代神宮祭主が学びおかなければならない、宗教法人となった神宮(伊勢神宮は通称)の祭主の意味を説くべく『斎王の御本質と大御手代奉仕について』を執筆しました。原文は正漢字・歴史的仮名遣なので、当用漢字・現代仮名遣にして本章末に全文を注記として掲げておきました。神宮祭主は「天皇の大御手代(おおみてしろ)として」神宮に奉仕されると昭和2年の神宮司庁官制に定められました。大御手(おおみて)に代わって、つまり天皇の身替(みがわり)、御名代として伊勢に参向されることとなりました。岡田米夫氏の謹稿は、その歴史的意義を説くもので、神宮祭主が就任されたならば必ず知らなければならない事柄でした。
昭和50年11月20日の参議院内閣委員会で、昭和天皇が靖國神社へ行幸されるのは、「天皇の私的行為」として社会党議員も認めています。ただし、憲法20条第3項の「重大な問題になる」かもしれないとの政府答弁に対して、「今後とも追求をやめない」と社会党秦議員の質問は終わりました。「私的行為」ゆえに内廷費より支出して、靖國神社への行幸を実施するとの政府答弁に対しても、「私的行為であるとするならば、純粋に天皇の個人資産から支出すべきなんです。」)(矢田部議員)と言った追求もそののちの行幸を見合わせる原因となったかもしれません。
行幸が「政治的・外交的」に問題化されることを恐れた結果、今日まで246万余柱の神前に45年間、親拝いただくことはありませんでした。この無残な現状を前に、言い訳風な議論が二つあります。
一つは、総理大臣が参拝することによって、御親拝の環境作りができると説くものです。これは一見穏当な考え方のようですが、本末転倒しています。仮に総理大臣が私的参拝としてではなく、神前に進み、玉串を捧げて拝礼し、政治的・外交的問題ともならなかったとすれば、行幸を願出るというのでしょうか。親拝の儀は、そこに裁可によってお祭りされている多くの祭神に対して太玉串(ふとたまぐし)を捧げて拝礼されることを期待するものです。御親拝の環境が整うか否かが優先課題ではなく、国が国のために身を捨てた人々を丁重に弔うことなく、未来を築き支える国民精神の基軸を生むことはできないのです。丁重に弔うためには、招魂祭や合祀祭によって神(かみ)としてお祭りすることが、仏教渡来以前の日本の古く、自然な考え方です。
また、今一つは上皇の行啓、御参拝を希望する言論もありますが、それは御親拝の儀とはなりません。平成の御代に一度もできなかった御親拝を令和の御代に行わせられるとすれば、今上陛下の御名代として神前に進まれるほかにすべはありません。
Ⅲ.
『文芸春秋』の令和元年10月号に、“上皇から天皇に継承された宝物リスト初公開”と銘打って、『天皇家「御由緒物」を鑑定する』として磯田道史と大熊敏之の対談記事が目を引きます。そこには、“新天皇が受け継いだ「宝物」リスト(抜粋)”が掲載されており、上から五項目のみ拾います。
八咫鏡(形代を含む) 三種の神器
草薙剣(形代を含む) 三種の神器
八坂瓊曲玉 三種の神器
壺切の御剣(皇太子相伝の御剣)
宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿及び付属施設)
これらの御由緒物は、皇室経済法第7条に「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに、皇嗣が、これを受ける。」とあることによって、昭和から平成、平成から令和への御代替わりに際して財産相続として一覧表が作成されました。皇室経済法は昭和22年1月16日に法律第4号として公布されました。日本国憲法が昭和21年11月3日に公布されたことを受けてのことでした。
八咫鏡(やたかのかがみ)は伊勢の皇大神宮(こうたいじんぐう、内宮)の神体です。形代(かたしろ)は神体の代わりとなる物、身代わりとなるものを意味します。形代は、本体と同じものを複製して、そこに本体の分霊を宿らせ、神体と同様に至極丁重に扱われます。
草薙剣(くさなぎのつるぎ)は熱田神宮の神体です。次の八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)は皇居にあり、鏡、剣、曲玉の三種を合わせて三種の神器(じんぎ)と言い、皇位の標識として、歴代天皇の受け継いだ三つの宝物です。
壺切(つぼきり)の御剣(ぎょけん)は皇太子相伝の護剣で、立太子(りったいし)の時に天皇から伝承されます。五つ目の由緒物は、宮中三殿で、賢所(けんしょ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿の三つとそれに付属する施設です。土地は相続の対象外ですが、このような特殊な物の相続をいかに扱うかが、昭和21年12月21日の第91回帝国議会貴族院皇室経済法案特別委員会での金森徳次郎国務大臣の答弁に伺うことができ、要約すると「皇位とともに伝わるべき由緒ある物として三種の神器や宮中三殿を想定、それらは国有財産としてもよいほどの公的性質が強くあることを認めるものの、宗教に関わるものを国有財産に移すことができないとの理由で、皇室経済法第7条に特殊な皇室の私有財産を設定する」との内容で、翌年1月16日に同法が公布されました。
またこの由緒物は、宮中三殿が明治時代に誕生し、大正、昭和、令和の即位に際して継承されてきた、比較的新しい由緒物であるとともに、由緒物に相当する物が後日追加されることを示唆しています。
靖國神社の神体の一つは、明治天皇の仰出によって始められた招魂祭でお祭りされたものであり、今一つは昭和天皇が北白川宮能久親王と同永久王をお祭りするための神体として神社に下賜されたものです。この二座の神体を由緒物に加えていただければ、伊勢や熱田のお祭りが天皇のみそなわすものであるように、246万余柱の祭神をお認めになってこられた歴代天皇が、断絶することなく、遺族国民の思いを掬うことにつながります。終末植民地主義を克服しようとする近未来の障壁を超えるために、150年間にわたる殉国、殉難の叫びを胸に聞くことができるならば、未来の国民に勇気が生まれます。亡き人々のほほえみと涙を思うことが、これからの環境汚染や環境破壊の絶望的な100年、200年を生き抜く子孫たちの力に、正気を呼び覚ます力に必ずなるでしょう。
Ⅸ.
行幸と御親拝が叶わないならば、御名代を立てて神前に額ずいて下さる道を尋ねなければならず、そのためには、靖國神社の神体二座を由緒物に加えていただくことが、国の目前の急務なのではないでしょうか。これを怠ると、神威の衰え、神霊の影が薄くなり行きかねないのです。
靖國神社の神威が赫奕(かくやく)と光りかがやくためには、御親拝の問題解決と今ひとつ、正しくお祭りが行われつづけなければならないとの点です。
参籠潔斎(さんろうけっさい)して、美わしく神饌調理をし、神前に右左過つことなくお供えし、正しい作文による祝詞を奏上するなど、神職の作法を厳しく学ぶことのない者が、神前に参入してはなりません。今述べたことのひとつでも大きく誤るところがあれば、そのお祭りを神々は享けられず、したがって神威の衰え行くことになるでしょう。
その気運を高めるためには、終戦後75年経っても公開されない246万余柱の神名を簿冊に作製して、遺族、国民に示すことが急務の第一です。単立宗教法人とは言え、公益法人たる責を果たさなければなりません。何よりも、歴代天皇が裁可あるいはお認めになってこられた祭神への思いに神社はお応えしなければなりません。神社の旧職員たちはすでにパソコンへの入力はほぼ終了していると言いますが、本間尚代さんが神職から聞かされた氏名の誤記7,200名余にその他の誤記を含めた12,000名余をすみやかに訂正し、優秀な校正者の奉仕を募れば、おそらく二年もかからず完成するでしょう。創建150周年の記念事業などで30億円余りを使う前に、246万余柱の神名を公開することの方が、神威高揚に資するでしょう。(注1)
靖國神社の祭神はすべて幕末以来の欧米列強の植民地主義と闘って落命された人々であると考えてよいかと思います。大東亜戦争には、植民地主義国家となったかの驕りが見られ、さまざまな恥ずべき行ないも伝えられておりますが、米国の太平洋戦争がアジア侵略を目的とするものであったことに対し、大東亜戦争にはアジアで唯一近代化を成し遂げた日本が、アジア解放を信じて惨敗し、神社の祭神となられた人々に限っても、213万人余の死屍累々の上に近代化は一旦頓挫しました。この敗戦後、お祭りでは「靖國神社の広前」の一語で、祝詞奏上をすませてしまう無神経さの横行がつづいています。神威が衰えて行くとき、戦後の高度工業社会によって生まれた終末植民地主義と子孫たちは闘わなければなりません。100年後200年後の未来の富を奪うことを断念するためには、やはり今一度、殉国殉難の人々の上を深く静かに思い、自らの正気を奮い立たすより他にすべはありません。
最後に皇室経済法の第2条「その度ごとの国会の議決を必要としない財産の授受」について触れ、今日の皇室が幕末時の一藩程度の予算すらないことが、根本的な改革案件であることを考えておきたいと思います。
〔皇室経済法第2条〕
左の各号の一に該当する場合においては、その度ごとに国会の議決を経なくても、皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が財産を譲り受け、若しくは賜与することができる。
この法には、皇室経済法施行法が同時に定められていて、その第2条で「価額」が設定されています。
一.天皇及び法第4条第1項に規定する皇族については、これらの者を通じて、賜与の価額は千八百万円、譲受の価額は六百万円とする。
つまり、寄付を受け得る金額は600万円以下、下賜できる最高額は1,800万円ということです。昭和50年11月の靖國神社行幸に反対する社会党矢田部理議員が「私的行為であるとするならば、純粋に天皇の個人資産から支出をするべきなんです。それを公の費用で賄うということもおかしい」との質問があり、おそらくその後の靖國神社への行幸を阻害する一要因となった内容でした。譲受の価額六百万円は久しく改定されてもいないようですが、この上限額の設定さえなくなれば、「私的行為」の費用は、国民からの寄付で支えることができます。私はこの意味でも、現在の皇室は江戸時代、幕末期と変わらない疲弊した状況にあると思います。参照する資料が少し古いものになりますけども、鳥取県の人件費は約900億円、沖縄県の人件費は約2,020億円と公表されることと比較して、令和2年度の皇室費(皇室費と宮内庁費)は約238億円であることから、江戸時代の一藩なみの扱いと見ることができます。皇室費111億4,900万円の内訳は、内廷費3億2,400万円、皇族費2億6,400万円、宮廷費111億4,900万円で、宮内庁費123億2,600万円より小さいものです。
『保建大紀』の著者栗山潜鋒を始めとする前期水戸学の儒者たちは、保元の乱における“天皇の不徳、非徳”を厳しく批判していますが、朝廷が乱れて、政治を執り行えなくなったのは武家に原因があります。穀物経済について述べましたように、古代の国家経済を支えていたのは税です。税は単年度収入の租をストックしたもので、最長保管年限は20年で、国語では「ちから」と言いますように、わが国の資源である穀物は、今で言うエネルギーとなりますので、「ちから」は資源=エネルギー(働き)を意味します。この税の国庫のものを正税(しょうぜい)と呼びますが、全国の穀倉に貯蓄・保管されていた正税が古代国家のあらゆる行政を支えていました。延喜天暦の治と呼び、古代の理想的時代であったとされる、醍醐天皇・村上天皇の時代(10世紀前半)は、古代律令制度が完成したと考えられてきましたが、それは古代の税制がまがりなりにも朝廷の行政的基盤を支えていたからです。公地公民制に期待していたのは、税(穀物のストック)によって朝廷が政治的、文化的に機能していたからですが、延喜天暦の時代にはすでにそれが私的所有地(荘園)の発達によって阻害されていました。武家や寺院が公地公民を奪って行くことにより、朝廷の行政力は低下しつづけます。前期水戸学が“あるべき天皇”を論じ、天皇の失徳を難じるのは、朝廷から税収を奪った者にこそ向けられるべきですが、当時の学問にこのような視座がありませんから、儒者の思考では無理なことでした。
天皇の失徳の時代が、武家や寺院の荘園所有による朝廷の経済基盤の崩壊にあったと同様、現代の皇室費の小ささは早急に改善されない限り、スキャンダルに襲われる時代を克服できないでしょう。
「譲受の価額は六百万円とする」法律を改訂し、国民の寄付を受ける公益財団封法人を設立して「私的行為」の経費の大半を支えればよいかと思われます。天皇の祈りを支えてきたとされる寺社へ勅使によって奉納される幣帛や金封を始め、神宮祭主参向に必要な経費また御名代の行啓、参向などの諸費などにそれは当てられることが望ましく、さらには「皇家第一の重事」と称される、20年に一度の神宮式年遷宮への金品の献進にも大いに役立つことかと思料されます。「私的行為」には、古代以来の伝統文化を支援し、保護するという朝廷の本来の聖政を継続する営みが含まれています。もちろん、国のために命を捨てた人々をお祭りするために資する経費もここに含まれます。
注1.
昭和7年(1932)8月1日、靖國神社社務所編集・発行の『靖國神社祭神祭日暦略』は、日々のお祭りで忘れず祭神名を奏上するために、祭日(命日)ごとにまとめたものです。これが唯一の祭神名を公表したものですが、先の大戦での祭神数、約234万柱(全祭神数の約95%)の神名が公開されないばかりか、毎日のお祭りでもこの75年間、奏上されずにきました。神社の怠慢という以前に、歴代天皇への不義不忠と断罪されなければなりません。創建150周年記念事業で30億円以上もの事業予算を組みながら、公益法人としてなすべきことの第一を捨てて顧ない責を誰が負うのでしょうか。
(令和2年10月10日記)
20.御名代と御由緒物の付篇
斎王の御本質と大御手代奉仕について
1、
斎王ということばは、皇族についていうことで、これを一般の祭祀職について言えば、斎主(いわいぬし)、あるいは忌人(いわいびと)というものと、祭祀奉仕の本質においては異ることがない。古典に出て来る斎主(日本書紀)、あるいは忌人(古事記)というのは、神と人との間に立って、神言を人に伝え、あるいは人の願事を神に執り次ぐもので、祭祀職としては最も重大な位置を占めている。
これを皇室において言えば、事実上の祭政一致の時代においては、天皇は神と人との中間に立たれ、いわゆる同殿共床のまつりごとを執られていた。しかるに崇神天皇以後神殿と皇居とが分離するようになってから、天皇の皇祖奉斎の御仕事を分掌せられるようになったのが斎王である。
2、
思うに、古代の「いつきのひめみこ」には三つの型がある。天皇の御代理として、皇祖たる伊勢神宮に奉仕される方を特に斎王(正しくは斎内親王、あるいは斎宮)と言い、皇城鎮護の神たる賀茂神社に奉仕される方を斎院(さいいん)と申し、また宮中にあって神意を伺いまつる位置につかれる方を中天皇(なかつすめらみこと)と称した。この最後の中天皇というのは、天皇の御名は称しているが、天皇の御位に即かれた方を言うのではなく、皇女もしくは、天皇の親縁者で、神と天皇との間に立って神言をとりつがれる方を指すのである。その義は。「中之詔命伝達者(なかつすめらみこともち)」の意だと言われている。伊勢の斎王、賀茂の斎院がおのおのその任所にあって、同様の事に奉仕されたものであることは言うまでもない。
すなわち神と天皇との中間に立って、1つは神の御杖代(みつえしろ)となり、一つは天皇の大御手代(おおみてしろ)として神に奉仕し、神言を天皇に伝えるとともに、天皇の御願意を神に申し上げる役目を果たしたものである。
3、
かかる性質のものであるから、今、伊勢の斎王のことだけについて言えば、神から見れば斎王は天照大神の「顕祭(うつしいわい)」、即ち大神の神言を伝えられる所謂憑代(よりしろ)、あるいは憑座(よりまし)になられるものである。これが皇大神宮の儀式帳や、延喜式の斎王を遣わされるときの祝詞に、「斎王を以て天照大神の御杖代(みつえしろ)」とされた所以である。同時に天皇の御側から見れば、天皇の御依頼をうけて、この御位置につかれるのであるから、斎王は「天皇の大御手代(おおみてしろ)として奉仕する」ということになる。
古くから斎王が、「天照大神の御杖代」とされていることは、斎王の神宮奉仕の御本質というものが、ただこれに奉仕するということだけでなく、天照大神の「顕祭(うつしいわい)」をなし、一つは大神の御神意を伝言し、一つは天皇の御願意を伝奏することが根本になっていることを示すものである。これが先の神宮司庁官制第2条の皇族祭主の職掌を言って、祭主は「大御手代として奉斎」とある所以である。現在の祭主が皇族をもって親任される所以のものは、後に説くが如く、古来の斎王の精神を継いだものであることは言うまでもない。この文言中、「大御手代」であると同時に特に「奉斎し」という特殊の文字の使われていることは、ただに仕え奉るだけでなく、大御手代は「天照大神の御杖代」たるべき本質を具備すべきであることに鑑み、かかる表現が採られたものを思われる。
4、
さて、斎王の御本質というのが、大神と天皇との仲執持(なかとりもち)であらせられるためには、斎王の御職掌は潔斎の祭祀奉仕だけに専念せらるべきことが要請される。ここに斎王の卜定、野宮、初斎院および最後には斎宮ににおける終生御潔斎の御奉仕が現実の問題として、現われるのである。かくの如きためには全く神意に叶った方が選定されねばならぬ。ここに「卜定」という儀の行われる所以がある。また清浄という所から未婚の皇女、王女の中から卜定されるという理由も自らに生まれてくる。かつ、また新帝が新たに御自身のために大御手代として差遣あそばされるのであるから、斎王はその天皇御一代毎に交替されるという制度になっていることも自然のことと言わねばならぬ。また、その一面、大神の御杖代たるべきものとしての奉仕にも当られるのであるから、大神に常住近侍せられるということもその要件の一つであることは言うまでもない。
5、
斎王の制度はかくの如く重大なる意味を持つため、崇神天皇の皇大神宮別殿奉斎と同時に直ちにこのことが行われている。しかるに南北朝の対立抗争時代に至って、このことの絶えたのは、争乱のための路次不通のこともその理由の一つであったろうが、何れの方の皇女を差遣さるべきかということもむつかしい問題となり、そのまま中絶し、遂にその後の復興されることなく、明治維新に及んだものと思われる。このことは南北時代の奉幣および祢宜補任のことさえ、両朝それぞれにおいて、これに混乱のあった一事からも推測することができる。
また、始めは中央官であった神宮祭主や大宮司でさえも、この戦乱後、室町、戦国時代以降においては、神宮の地に在住する世襲職に化するというように、他の祭祀職者においても、帝都との連絡の中絶したことも、この間の消息を窺わしめるに足るものである。かくて、天皇による神宮御奉斎の本義というものは、斎王中絶後、明治維新までは一時その光が覆われていたと言わざるを得ない。
6、
幕末、維新百般復古の時代となるに及んで、斎王の復興を考えられたことは、天皇による神宮御奉斎の本質から見て当然のことである。
斎王復活の議の文献に見えた初めは、文久2年9月のことで、当時山陵修復の議と並んでこの議が起り、11月には右大臣一條忠香から順を経て、孝明天皇に奏上された。天皇は近衛関白に議り、先例等を調査すべき御内意を下したもうたことが、璞記抄に見えている。同じ頃、津藩主藤堂高猷も宇治山田の山田大路親彦の議を容れ、同日建白書を近衛関白に致し、その再興を請うた。天皇にはその議を容れられ、古例、潔斎、群行、祭祀常用等の用途等のことを調査すべき由を命ぜられた。右両者は全く同時のことで、その間に連絡があってのことかどうか不明であるが、実力のある藤堂高猷は同月用途の点としては斎宮領の復活までは毎年正米五百俵を献上すべきことを奏し御内許を得た。翌3年、高猷は斎宮再興準備のため、斎宮敷地・古器等の調書を作り、斎宮寮を開発する等の準備を整えたが、幕末動乱がこの頃ようやく高まったためか、遂に実現を見るに至らなかった。
次いで、維新の大業なり、明治4年7月、神社御改革のことが行われたとき、高猷の子藤堂高泰が神宮少宮司に補されているのであるから、このとき当然斎王復興の議は問題となってよかりそうなものであるが、現存の記録ではこの議が問題となったかどうかはわからない。恐らくは、その御杖代奉仕の本質に鑑み、また適任者を得ることのむつかしさにおいて、議には上がったであろうが、実現せずして止んだものと考えられる。
7、
しかし、高泰少宮司の後を受けて神宮少宮司の職をついだ浦田長民は、明治5年11月、「神宮御改革の議」の建白書(浦田文書所収)において、斎内親王の復興はむつかしいとしても、同精神に連なるものとして、斎親王の置かるべきことを宍戸教部大輔に献言している。すなわちその趣旨は神宮が教部省に属するため祭主・大少宮司以下は教導職として東奔西走せざるべからず、したがって神宮祭祀に奉祀することがおろそかになる。よって、
神宮は宮中御神殿と御同様、これを式部に属し、しかして斎親王御一員を置かれ聖上に代らせられ、朝夕御奉仕あそばされ
たいと献言したのである。またこの時の別の献白書の中には、
新たに神宮斎親王兼大教親王の職を置かれ、皇族の内、御人選をもってこれに任ぜられ、聖上の御手代として、神宮に御奉仕あそばされ、兼ねて神教を統轄せられ、海内外へ敬神の御主意を御示しこれありたき事、ただし斎親王は等外別官たるべし
とあって、先の献白書とは別に、当時の祭政一致に教化運動から見て、式部職に置くという先の見解を停め、新たなる構想をもって、これが建議を行っているのである。なお、この建白書によれば「斎親王」を置かれるならば、
祭主の号不都合と相考へ候ふ間、これを廃し大宮司の官を即今、祭主の等級に御据ゑこれあり、
とあって、「斎新王」を置くときは、祭主の職は廃せらるべしというのである。そして、その中には「斎親王以下人物見込は別紙に書き上げ候ふ事」とあるので、浦田少宮司には、その候補の皇族さえ見込みがあったのであるが、別紙が不明のため今これを明らかにすることはできない。
なお、長民には同じ年、別の「神宮御改革議案」(浦田文書所収)というものがある。それには、
五ケ年目には必ず右17日(神嘗祭)、聖上親ら御参拝あそばされ、その間年には御名代として、親王御方を遣わし候ふ様、仕まつりたく、左候はば、敬神追孝の聖慮貫徹仕まつるべく候ふ。
とあって、聖上には五年に一度、神嘗祭御参拝、その間の年は毎年御名代として親王の御差遣を請う案のあったことが分る。
次いで翌6年10月20日の長民の建白書(同右)には、
古斎内親王の例を追い、祭主には皇族の内、しかるべき御方を御撰任、恐れながら聖上に代らせられ、御親しく御仕へあそばさるべし
という献議がある。いずれも皇族をもって、天皇の大御手代としての御奉仕を請願することのあったことが窺われるのである。
8、
さらに右の意見は、独り浦田少宮司だけでなく、時の大宮司田中頼庸も同意見であった。5年の長民の建白書と同じ精神のものが、田中頼庸の同年の建白書(同上)の中にも見られる。それには次のように言われている。
歴朝斎内親王を置かれし聖蹤を追せられて、皇族御方の内を神宮祭主に 任ぜられ、御親祭の御手代として朝夕御奉仕あそばされ候はば、神宮皇居遠隔すといへども、敬神の聖旨言はずして海内に貫徹し、惟神の教化導かずして闊閭に普及せん事、鏡をもって物を照らすよりも明らかなり、これ頼庸の私言にあらず、天下の公論に候ふ。敬神の思召深く、今月御手代を任ぜらるべき御方は、この宮を除くの外他あるべかずと存じ奉り候ふ。右は重大の廟議、殊に事、皇族に関し、頼庸等の敢て懇願すべきに非ず候へども、区区の芹曝の微志自ら止む能はず、この段、恐を顧みず、上言仕り候ふ条、しかるべく御執奏下されたく候ふ。
(上欄墨書)願はくは、特別の廟議を以て鄙言を御採用あり、速にこの宮を以て神宮祭主に任用あらんことを。
右によれば、浦田少宮司が別紙に認めたという皇族祭主の候補者は、有栖川宮熾仁親王であらせられたことが知られるのである。
9、
ここに田中、浦田両宮司の言った神宮祭主という職掌は、明治4年神祇省達の神宮規則によれば、「祭主は祭祀を統領して宮事を総判する」とあるものである。近衛忠房が初めてその職に補せられたが、有名無実だったので、これを本来の本質に鑑み、少しでもこれに近いものたらしめようという考え方が「斎親王」または「皇族祭主」設置の見解であったと言える。しかし、この献議は教部省から直ちに採用せられるに至らなかった。すなわち、献白後の明治7年1月には、近衛祭主に替って、三条西季知が祭主に任ぜられているからである。しかし、翌8年7月に至って、久邇宮朝彦親王が皇族祭主に補せられたことは、この献白の一部、すなわち皇族が奉仕されるということが、まず実現されたものであると言える。しかし、その名称を「斎親王」と称する事および「天皇の大御手代」として奉仕するという二条件は、両宮司が在職した15年までは、まだ実現を見ていない。
しかし、その翌々17年に新たな神宮職制が定められたとき、「祭主は大御手代」とした点はここに実現を見た。さらに、29年の勅令によって、「祭主は皇族又は公爵を以て親任せらる」とあるに至って、大体、大御手代は皇族たるべしという制度の復活がなり、一応の趣旨は立つに至ったのである。
10、
昭和2年の神宮司庁官制においては、その第2条に「祭主は親任とし、皇族を以て之に任ず、大御手代として奉斎し、祭事を管理す」とある。ここに至って祭主は、
1. 皇族を親任せらること。
2. 天皇の大御手代として奉仕するものであること。
3. 「奉斎し」の文字によって、それは「天照大神の御杖代」たるべき
性質を兼ね備えていること。
4. 祭事にのみ奉仕すること。
の4条が備わるに至った。
ただし、その中でまだ実現されていないことは、
1. その称号たる「斎王」または「斎親王」の名称のこと。
2. 親任せられるだけで、伊勢神宮に近侍せられるという原則が
立っておらないこと。
の2点である。
11、
まず第1の名称の点から言えば、神宮祭主というのは、元来は、朝廷から御差遣の勅使のことであって、御杖代あるいは大御手代たるべき性質のものでない。よって、以上の実を備えた名称としては、内親王の場合は斎親王、王の場合は斎王の名称に改めらるべきものである。これ考慮せらるべき第1の点である。
次に近侍せられないことは、御杖代あるいは大御手代としての御奉仕の実に添わないものである。これ考慮せらるべき第2の点である。
また、大御手代であらせられると同時に、御本質としては、御杖代奉仕の御本質をも常に具備せらるべきものなるをもって、常住御近侍の内容は、伊勢に「斎宮(いつきのみや)」を設けられ、常時「御潔斎の御奉仕」であることが望ましい。これ考慮せらるべき第3の点である。
12、
最後に残る問題は、斎王は必ず古儀の通り、未婚の皇女あるいは女王の中からのみ選ばるべきであるか、という問題である。思うに、御杖代たるべき斎王は、古例は未婚の皇女あるいは女王の中から選ばれたものである。
しかし、御杖代あるいは大御手代というものだけの本義から考えるならば、必ずしも未婚の女性と限るの要はない。その人さえ得られ、かつ右に述べた御奉仕ができる御方ならば、しいて男女の区別は立てなくてもよいように拝察される。
13、
最後に、現在の皇族祭主と勅使の関係であるが、今後大御手代として御奉仕の皇族が、伊勢に常住御近侍あらせられるならば、勅使は伝達者の位置にあるものとして差遣せらるべきである。
それでなく、皇族祭主が現在のように東京都在住であり、東京から伊勢に参向せられるのであるならば、勅使の必要なく、勅命も共に仰いで参向せられたらよいということになる。今のままで行くとするならば、現在の皇族祭主というものは、真の大御手代あるいは御杖代ということは名のみで、その実際は古来の人臣「祭主」たる「祭使」の一変形であり、かつ勅使が立つにおいては、さらにその陰のものたるに過ぎないといえるのである。皇族祭主を大御手代として奉斎せしめられると同時に、勅使をも発遣せられるとあるからには、その御本質および条章に従い、分の立つようにせられることが望ましい。これ考慮せらるべき第4の点である。
ただし、第4の点は、皇族祭主について、いまだ実現されない先の第3点が、名実共に具現されるならば、両者の関係は自らなる姿に復帰し得るものである。
(昭和27年3月3日 岡田米夫謹稿)
(補注)
現在の神宮規則では次のように定める。
第30条。神宮に祭主を奉戴する。祭主は大御心を体して神宮をいつき奉る。祭主は皇族又は皇族であった者とし、勅旨を奉じて定める。
(令和2年10月29日記)
21.終章
神前にて
物音もなく静かな朝、初夏の風がわずかに梢を揺らして、陽光はまばゆく降り注いでいます。「回りには誰もいませんから、何をお話ししましょうか。ここでは私が多分、最年長です。誰一人、天寿を全うすることが叶わなかった皆さんに、今日は何をお話ししましょうか」。
目に見えないほどの淡い、薄紫の靄(もや)が、大きな靄が私の身の回りに漂ってきます。日によっては、それは沢山の涙が蒸発してできたかのような、しっとりとした霧が流れてきたりします。また、日によっては、富士の嶺に集まる雲のように、いつでもそこにくるまれていたいと思うこともあります。
しかし、多くの場合、時間が経つとそれは深い、広がり行く悲しみ、純化された悲しみを湛えはじめ、やがて薄紫の閉じられた空間が出現します。
永久(とわ)のしじまが訪れてしまったかと思い、日を改めて額ずくと、何かがうごめいているような、叫びをうながすものの発動、目に触れぬことのない、ふうわりとした波動を覚えるときがあります。おそらく何かを求めて動きはじめて来られたことは分かりますが、それが何に向かうものなのか、私には思いあたりません。
神霊(かみ)となられた方々は、今も個別の御霊(みたま)として鎮まっておられるのでしょう。明治38年5月2日の招魂祭に際しての御製。
国のため いのちをすてし もののふの
魂(たま)や鏡に いまうつるらむ
語り合うことすら捨ててしまった、悲しみの深い御霊、静かな幼いまなざしを向けている御霊、激しい憤りに満ちた御霊、えらえらと楽しく笑いたいと願っている御霊、今は246万余柱を数える御霊が、様々な彩りを見せて私を透過して行きます。
神前にひととき端座していると、いつしか透過膜となった私を御霊が通り過ぎて行きます。カロリン湾に水葬された叔父の御霊がまれに近寄って来られるとき、私は顔を覆って嗚咽します、申訳ありませんと。
藤田東湖は、「英霊未だかつて泯(ほろ)びず、長(とこしえ)に天地の間に在り」とうたっていますが、御親拝はなくなり、お祭りもどこかおかしいとしたら、御霊(みたま)の影が薄くなって行くのではありませんか。
もうこの国を支えては行けぬと思われてはいませんか。生存している遺族の数も減り、お届けする祈りの声も細く細くなってきましたが、ここにどうか鎮まっていてください。子孫たちがこののち、100年、200年と味わいつづける艱難辛苦の日々に、そっと手助けをしてやってください。
御霊たちが植民地主義と闘い、わが国は75年前には滅ぼされました。御霊たちが片時も忘れなかった道義はどこにも見あたりません。アジア、アフリカ、アメリカ、三大陸の独立国家は、いつしか植民地主義者の洗礼を受けてしまいました。
そして今は、終末植民地主義の時代を子孫たちは生きています。未来の富を奪う方法を知ったのです。戦後、オイルメジャーやウランメジャーに魂を売った者のせいで、子孫たちは放射能管理のために5千年、1万年と苦しむことになりました。
私たちが去った100年後、子孫たちは国債という名の借金や工業社会の廃物と環境汚染を前に、茫然自失して希望を失うでしょう。
この絶望の時代に、真の勇気をやさしく教え諭してやっていただきたいのです。その闘いはあまりにも長いものとなりますから、御霊たちの見守りなくして、生き行くことはできないでしょう。
御霊たちの悲しみといさおしを、私は死灰(しかい)となっても忘れることはありません。246万余の御霊たちの前に、また何か良いお知らせをする日が来ることを願って、今しばらくこの世の光の中に生きています。
(令和2年10月17日記)
funpun・yawa
mudou raisei
vol.9-6-2
参考文献
(Mは明治,Sは昭和,Hは平成の略)
①近世と植民地主義
東方見聞録 マルコ・ポーロ著 青木 富太郎訳 S44(1969).4.3 社会思想社
東インド会社とアジアの海(興亡の世界史 第15巻) 羽田 正著 2007.12.17 講談社
大英帝国という経験(興亡の世界史 第16巻) 井野瀬 久美恵著 2007.4.17 講談社
豊臣秀吉と南蛮人 松田 毅一著 1992.5.17 朝文社
南蛮史料の発見――よみがえる信長時代 松田 毅一著 1964.9.5 中央公論社
侵略の世界史――この500年、白人は世界で何をしてきたか 清水 馨八郎 祥伝社
明治文化全集第11巻・『宗教篇』神道の部、天主教の部、基督新教の部、仏教の部、他。
吉野 作造 編集代表 S3.9.15 日本評論社
新約聖書 共同訳聖書実行委員会 1983.7 日本聖書協会
切支丹鮮血遺書(きりしたん・ちしおのかきおき)
松崎 實著 T.15.2.10 ヴィリオン神父原著 改造社
現代語訳・切支丹鮮血遺書(きりしたん・ちしおのかきおき)
松崎 實著 入江 浩訳 1996.12.8 燦葉出版社
教会と人種主義 教皇庁・正義と平和評議会著 1990.5.20 カトリック中央協議会
さらばモンゴロイド――「人種」に物言いをつける 神部 武宣著 2007.2.27 生活書院
人種の表象と社会的リアリティ 竹沢 泰子編 2009.5.19 岩波書店
黄禍論――百年の系譜 廣部 泉著 2020.9.10 講談社
インドの心 津田 元一郎著 S55(1980).8.20 日本評論社
アーリアン学説の再検討――西欧史学へのインドからの反証――
津田 元一郎著 S62.3.31 名古屋大学医療技術短期大学部
日本的発想の限界――イラン・アフガニスタン・東南アジアの真相
津田 元一郎著 S56.6.20 弘文堂
武士の娘 杉本 鉞子著 大岩 美代訳 1994.1.24 筑摩書房
②大アジア主義と脱亜入欧思考
明治維新とアジアの革命 保田 與重郎著 S30.7. 新論社
明治維新と東洋の解放 葦津 珍彦著 S39.7. 新勢力社
大アジア主義と頭山満 葦津 珍彦著 S40.4.25 日本教文社
大アジア(千夜千冊エディション) 松岡 正剛 執筆構成 R2.4.25 KADOKAWA
明治維新と国学者 阪本 是丸 H5.3.30 大明堂
神風連とその時代 渡辺 京二著 S52.7.30 葦書房
北 一輝 渡辺 京二著 2007.2.10 筑摩書房
評伝・宮崎滔天 渡辺 京二著 1976.1.1 大和書房
評伝・宮崎滔天 渡辺 京二著 2006.3.30 書肆心水
日本の国士 西郷 隆盛 渡辺 京二著 頭山 満 橋川 文三著 他に三篇収録
1982.10.5 有斐閣
雲に立つ――頭山 満の「場所」 松本 健一著 1996.10.15 文芸春秋
三国干渉以後 満川 亀太郎著 S10.9.23 平凡社刊 1977.6.25 伝統と現代社復刻
かたくなにみやびたるひと・乃木希典 乃木神社総代会編 著 H30.11.3 展転社
③大東亜戦争と新植民地主義
ビルマの夜明け バー・モウ著 横堀 洋一訳 S48(1973).6.10 太陽出版
大東亜共栄圏――ビルマ・インドへの道 森山 康平 栗崎 ゆたか共著
S51.4.15 新人物往来社
雷帝、当方より来たる 田中 正明 1979.11.1 自由国民社
藤原(F)機関――インド独立の母―― 藤原 岩市著 S41.11.15 原書房
インド国民軍――もう一つの太平洋戦争―― 丸山 静雄著 1985.9.20 岩波書店
アジアに生きる大東亜戦争 ASEANセンター編 S63.10.13 展転社
世界が愛した日本――戦場に舞い降りた奇跡の感動秘話――
四條 たか子著 井沢 元彦監修 2013.7.18 竹書房
白の墓碑銘――従軍看護婦の記録 医療文芸集団編 S43.6.30 東方出版社
英国人記者が見た一連合国戦勝史観の虚妄 ヘンリー・S・ストークス著 2013.12.10 祥伝社
「南京大虐殺」のまぼろし 鈴木 明著 S48.3.10 文芸春秋
新「南京大虐殺」のまぼろし 鈴木 明著 1999.6.3 飛鳥新社
「南京事件」の総括 田中 正明著 2007.7.11 小学館
通州事件(目撃者の証言) 藤岡 信勝編著 2016.7.29 自由社ブックレット
大東亜戦争の実相 瀬島 龍三著 2000(H12).7.17 PHP研究所
東京裁判とは何か 田中正明著 S58.5.20 日本工業新聞社
「BC級裁判」を読む 半藤 一利著 奏 郁彦著 保阪 正康著 井上 亮著
2015.7.1 日本経済新聞出版社
東京裁判・日本の弁明(「却下未提出弁護側資料」抜粋) 小堀 桂一郎編 1995(H7).8.10 講談社
東京裁判を問う(国際シンポジウム)
細谷 千博・安藤 仁介・大沼 保昭編 1989(H1).8.10 講談社
共同研究・パル判決書(上)・(下) 東京裁判研究会 1984(S59).2.10 講談社
現人神の創作者たち 山本 七平著 S58.8.20 文芸春秋
静かなる細き声(山本七平ライブラリー⑯) 山本 七平著 1997.11.20 文芸春秋
昭和天皇――畏るべき「無私」 松本 健一著 2013.8.1 ビジネス社
和辻哲郎と昭和の悲劇――伝統精神の破壊に立ちはだかった知の巨人
小堀 桂一郎著 2017.10.27
「戦艦大和」と戦後 吉田 満文集 保阪 正康編 2005.7.10 筑摩書房
震洋発進 島尾 敏雄著 S62.7.10 潮出版社
自決と玉砕――皇国に殉じた人々 安田 武・福島 鑄郎編 S49.9.10 新人物往来社
日系アメリカ人のエスニシティ――強制収容と補償運動による変遷
竹沢 泰子著 1994.6.10 東京大学出版会
新戦争論“平和主義者”が戦争を起こす 小室 直樹著 S56.5.30 光文社
中国が世界をメチャクチャにする ジェームズ・キング著 2006.10.4 草思社
異形の大国・中国――彼らに心を許してはならない―― 櫻井 よしこ著 2008.4.20 新潮社
中国はなぜ「軍拡」「膨張」「恫喝」をやめないのか(その侵略的構造を解明する)
櫻井 よしこ・北村 稔・国家機関問題研究所編 2012.6.10 文芸春秋
愛国 鈴木 明著 1982.8.20 文芸春秋
島根県竹島の新研究 田村 清三郎著 S40.10. H8.3 復刻・私家版
抹殺された日本人の現代史 小日本社編 H7.6.1 全貌社
④環境問題と21世紀の混迷
アメリカ合衆国政府特別調査報告・西暦2000年の地球 1.人口・資源・食料編
アメリカ合衆国政府編 逸見 謙三・立花 一雄監訳 S55.11.25 家の光協会
アメリカ合衆国政府特別調査報告・西暦2000年の地球 2.環境編
アメリカ合衆国政府編 逸見 謙三・立花 一雄監訳 S56.2.1 家の光協会
西暦2000年の地球 アメリカ環境問題諮問委員会・国務省著 田中 務監訳
S55.12.6 日本生産性本部
海があちらへ死んで行く=早すぎた「自然」を守る」闘い=
ハンスト33日間の記録 松本 英昭 S45.10月 (私家版)
和歌山の公害―海岸線の埋立て開発をめぐって 梶川 哲司 2017.12.25 ウィング出版部
恐るべき酸性雨・水と緑を破壊する複合汚染 谷山 鉄郎著 H1.4.15 合同出版
恐るべきゴルフ場汚染・生態系を破壊するリゾート開発と農薬禍
谷山 鉄郎著 H2.4.10 合同出版
日本ゴルフ列島――失われる森、汚される水―― 谷山 鉄郎著 H3.6.20 講談社現代新書
遺伝子汚染・環境汚染の次ぎに来るものは何か 中原 英臣・佐川 峻共著 S62.8.31 徳間書店
マイカー亡国論 湯川 利和著 S43.1.23 三一新書
自動車よ驕るなかれ 富山 和子著 S45.10.25 サイマル出版
環境権って何だ・発電所はもういらない 松下 竜一・環境権訴訟をすすめる会編
S50.8.21 ダイアモンド社
渚と日本人・入浜権の背景 高崎 裕士・高桑 守史著 S51.7.1 日本放送出版協会
農業の破壊と抵抗 薄井 清著 S52.11.15 三一書房
熱汚染 西沢 利栄著 S52.3.20 三省堂
原発ジプシー 堀江 邦夫著 S54.10.26 現代書籍
東京に原発を 広瀬 隆著 S61.8.25 集英社
『現代農業』9月増刊号「反核反原発・ふるさと便り」――土と潮の声を聞け
福島・浪江 舛倉 隆以下27名執筆 S63.9.5 農山漁村文化協会
最後の話・死の灰と世紀末 広瀬 隆著 S3.4.26 八月書館
原発被爆列島 樋口 健二著 S62.12.15 三一書房
⑤終末植民地主義克服への道
絶対平和論 保田 與重郎著 S25.11.25 祖国社
にひなめととしごひ――『日本に祈る』所載 保田 與重郎 S25.11.25 祖国社
本居全集(本居宣長全集、本居春庭全集、本居大平全集、本居内遠全集)
本居 清造編 S3.3.20 吉川弘文館
延喜式祝詞講義 巻1~巻15 鈴木 重胤著
(嘉永元年10月20日~同4年7月晦日)明治43年2.28 国学院大学出版部
統道真伝(上)・(下) 安藤 昌益著 S42(1967).4.16 岩波文庫
安藤昌益と自然真営道 渡辺 大濤著 S47(1972).9.25 勁草書房
安藤 昌益 安永 寿延著 S51(1976).7.9 平凡社
橋本自然真営道 安藤 昌益著 S56(1981).10.9 平凡社(東洋文庫)
宮本常一著作集第15巻・日本を思う 宮本 常一著 S48(1973).9.30 未来社
反暴力の手法 ランザ・デル・ヴァスト著 西尾 昇訳 S55.4.1 新泉社
植物と人間・生物社会のバランス 宮脇 昭著 S45.3.20 日本放送出版協会
生きものの条件――植物生態学の立場から 宮脇 昭著 S51.1.20 柏樹社
照葉樹林文化の道――ブータン・雲南から日本へ――
佐々木 高明著 S57.9.22 日本放送出版協会
水と緑と土――伝統を捨てた社会の行方 富山 和子著 S49.1.25 中公新書 H22.7.25改版
水の文化史 富山 和子著 S55.7.25 文芸春秋
道は生きている 富山 和子著 S55.10.20 講談社
日本再発見・水の旅 富山 和子著 S62.7.15 文芸春秋
日本の米・環境と文化はかく作られた 富山 和子著 H5.9.25 中公新書
海は生きている 富山 和子著 H21.10.13 講談社
文明の農業的基礎 栗原 藤七郎著 S51.4.3 家の光協会
進化とはなにか 今西 錦司著 S51.6.30 講談社学術文庫
土は呼吸する 薄井 清著 S51.8.30 社会思想社
石油と原子力に未来はあるか・資源物理学の考え方(増補) 槌田 敦著 S53.2.10 亜紀書房
工業社会の崩壊 槌田 敦著 S54.5.20 四季書房
エネルギー未来への透視図 槌田 敦著 S55.2.10 日本書籍
共生の時代・使い捨て時代を超えて 槌田 劭著 S56.7.25 樹心社
資源物理学入門 槌田 敦著 S57.9.24 NHKブックス
エントロピーとエコロジー再考――生態系の循環回路――
柴田 篤弘・槌田 敦著 H4.6.30 創樹社
エコロジー神話の功罪・サルとして感じ、人として歩め 槌田 敦著 H10.1.16 ほたる出版
エネルギーとエントロピーの経済学・石油文明からの飛躍
室田 武著 S54.11.8 東洋経済新報社
原子力の経済学・くらしと水土を考える 室田 武著 S56.8.10 日本評論社
新版 原子力の経済学 室田 武著 S61.12.20 日本評論社
マイナス成長の経済学 室田 武著 S62.11.20 農山漁村文化協会
地球環境の経済学 室田 武著 H7.4.15 実務教育出版
「鎖国」の経済学――オルタナティブ・エコノミクスを求めて――
大崎 正治著 S56.10.1 JICC出版局
水と人間の共生 大崎 正治著 S61.4.15 農山漁村文化協会ー
フィリピン国ボントク村――村は「クニ」である――
大崎 正治著 S62.2.15 農山漁村文化協会
石油文明の次は何か 槌田 敦 S56.5.5 農山漁村文化協会
第三の道・インドと日本とエントロピー 糸川 英夫著 S57.9.10 CBS・ソニー出版
エントロピーの法則――21世紀文明観の基礎――
ジェレミー・リフキン著 竹内 均訳 S57.11.10 祥伝社
エントロピーの法則――21世紀文明の生存原理――
ジェレミー・リフキン著 竹内 均訳 S58.11.5 祥伝社
君はエントロピーを見たか――地球生命の経済学 室田 武著 S58.11.10 創拓社
北海道の稲作にかける・環境と食料の21世紀に向けて 明日の北海道農業農村整備を考える会編
H8.11.1 明日の北海道農業農村整備を考える会
未来への指標――神宮とお祭り――(工業社会の本質を考えるために) 小堀 邦夫
H26.10.31 神宮司庁『瑞垣』229号
モースの見た日本(モースコレクション=民具編)
小西 四郎構成 田辺 悟構 1988.5.20 小学館
百年前の日本(モースコレクション=写真編)
小西 四郎構成 岡 秀行構成 1983.11.25 小学館
コンヴィヴィアリティのための道具 イヴァン・イリイチ著 渡辺 京二訳 渡辺 梨佐訳
1989.3.10 日本エディタースクール出版部
逝きし世の面影(日本近代素描Ⅰ) 渡辺 京二著 1998.9.20 葦書房
逝きし世の面影(平凡社ライブラリー552) 渡辺 京二著 2005.9.9 平凡社
近代の呪い 渡辺 京二著 2013.10.15 平凡社
⑥世の平安を守る靖國神社祭神
靖国神社とはなにか――資料研究の視座からの序論――
春山 明哲 レファレンス H18年7月号
靖國の精神史――日本人の国家意識と守護神思想―― 小堀 桂一郎 2018.10.29 PHP研究所
靖國神社考――「戦犯」合祀についての弁明 小堀 桂一郎 Voice April,1986
靖國信仰に見る日本人の霊魂観 小堀 桂一郎 H19.11月 明治聖徳記念学会紀要(復刻第44号)
“靖国神社”の要件と合祀の来歴 所 功 H18.10月 芸林・第55巻第2号
靖國神社の歴史と祭神をめぐる覚書 阪本 是丸 H27.7.3 東京都神社庁研修所・教養研修会
靖国神社 大江 志乃夫 1984.3.21 岩波書店
靖国 坪内 祐三著 H13.8.1 新潮社
御親拝への障礙は除去できてゐる 小堀 桂一郎著 「英霊と天皇御親拝」(別冊正論33)
H30.12.13 産経新聞社
戦争責任と靖国問題――誰が何をいつ決断したのか 山本 七平著 2014.11.13 さくら舎
靖国神社が消える日 宮澤 佳廣著 2017.8.1 小学館
民族小事典・死と葬送 新谷 尚紀編 関沢 まゆみ編 吉川弘文館
日本人の死のかたち――伝統儀礼から靖国まで 波平 恵美子 2004.7.25 朝日新聞社
近代日本における「怨親平等」観の系譜 藤田 大誠 H19.11月
明治聖徳記念学会紀要(復刊第44号)
よくわかる「皇室制度」 藤本 頼生 H29.11.3 神社新報社
日本神道史 岡田 莊司編 H22(2010)7.10 吉川弘文館
伊勢神宮のこころ、式年遷宮の意味 小堀 邦夫 H23.2.13 淡交社
以上
