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魂の行方、国の行末 無動来西

分分夜話 第9話 第5部 12-14

無動 来西

 21世紀を国は越えられるか
 ——終末植民地主義を克服する道——

 目次
  はじめに
  第1部〔8月18日公開〕

 1.譲位と個人と法律と

 2.山本七平著『現人神の創作者たち』
 3.前期水戸学の鋭鋒
  第2部〔8月25日公開〕
 4.崎門学と国学

 5.文部省作成『国体の本義』
 6.忘れられた植民地主義
  第3部〔9月1日公開〕

 7.日本の神(かみ)の諸相
 8.天主教の”でうす”は神か
 9.日本の神を蚕食した基督新教
  第4部〔9月8日公開〕

10.植民地主義から終末植民地主義へ
11.渡辺京二著『逝きし世の面影』・I
  第5部〔9月15日公開〕

12.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅱ
13.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅲ
14.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅳ
  第6部〔11月2日公開〕
15.招魂社の背後に欧米列強の植民地主義者の魔手が

16.勅裁を経て合祀される公務死、法務死の人々
17.A級被告の合祀と行幸批難
18.北白川宮能久親王と同永久王の合祀
19.神威の盛衰―御代の平安は翳(かげ)らないか
20.御名代と御由緒物
    付篇:斎王の御本質と大御手代奉仕について
21.終章  神前にて
   参考文献

 

  12.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅱ

 「第4章 親和と礼節」と「第5章 雑多と充溢」から

 モースは、日本に数ヵ月以上いた外国人はおどろきと残念さをもって、「自分の国で人道の名において道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人が生まれながらに持っている」ことに気づくと述べ、それが「恵まれた階級の人々ばかりではなく、最も貧しい人々も持っている特質である」ことを強調する。

 「われわれは多少のとまどいを覚えないわけにはいかない。」と渡辺氏は述べ、「千鳥足の酔漢」や酒に酔った郎党たちが「悪鬼のように」刀を振りまわすなど、およそ「礼節」とはかけ離れた事例もあるにはあるが、むしろモースの記述を正しいとする他の多くの観察者の証言を紹介しています。

 明治7年に来日したディアス・コバルビアスは言う。「日本人に関して一番興味深いことは、彼らが慎み深く、本質的に従順で秩序正しい民族であるということである」。(中略)グラント将軍の訪日(明治12年)に随行したJ・R・ヤング(John Rusell Young 1840~99)は、上野公園での歓迎会当日の群衆についてこう書いている。「人だかりの中で目につくものといえば、一般大衆の快活さとはしゃぎぶり、にこにこしている顔、娯楽好きな眼である。さらに気づいた点は、よく行き届いた完璧なまでの秩序と親切とやさしい感情である。」(以下略)

 他にも、パーマー、メーチニコフ、ブスケ、さらには「辛口のスミス主教」等も類似の見解を持っていたことが示されています。全14章中、この第4章の注が138項と最も多いのは、恐らく渡辺氏の慎重さ、あるいは「多少のとまどい」を払拭しようとの気配りからでしょう。
 しかし、モースの感心した「善徳や品性」を疑わせる記録も紹介しています。

 昭和初期に東京で暮したキャサリン・サンソム(Katharine Sansom 1883~1981 有名な日本史家ジョージ・サンソムの夫人)は「日本人は必要があろうがなかろうが、他人を押し除けて我れ先に電車に乗り込もうとします」と言い、「押してくるのは誰でしょうか。最も質が悪いのは、優しそうな顔をした年配の女性で、楽に抱えられそうなほど小柄な人たちです」と書いている。モースの観察がひいきの引き倒しなのか、それとも、この間に日本人の徳性において重大な変化があったのか。

 「重大な変化」は多分市民社会のもつ道徳性の低下だと思われます。人力車の時代から50年ほど経て電車の時代になり、「この国では、どんなに貧しく疲れきった人足でも、礼儀作法のきまりからはずれることがけっしてない。」(メーチニコフ)と評されたところから見れば、ここに近代化とは人徳や礼節の劣化をうながすものと言えます。このことは日露戦争時の将兵たちが多く「村・故郷」を背負って従軍していた結果、外国の記者たちが称賛した規律と勇敢さを示し得ましたが、大東亜戦争時にはどうであったでしょうか。徳義を育んできた農村も近代市民社会に組みこまれて行き、都会でのむき出しの利己主義、人が見ていなければ恥知らずなことを行う人性の低下によって、戦争中の犯罪など戦後さまざまな批判を受けてきたことに思い到ります。しかし、多くの兵士は国の未来への礎となることを覚悟し、戦死、戦病死して行きました。自らも副電測士として戦艦「大和」に乗り組み、沖縄特攻作戦に参加し、生還された吉田満著『戦艦大和と戦後』(ちくま学芸文庫)は敗戦後、徳義をはじめ何を捨て、戦後の復興をなしとげてしまったのかを知る必読書です。

 この第4章にもいくつも紹介して、後世の者たちに読んでほしいと思う外国人観察者たちの文章がありますが、エドウィン・アーノルドの洞察には感動します。

 「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、『やかましい』人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりに何か要求するような人物は、男でも女でもきらわれる。」(中略)
 「この国以外世界のどこに、気持ちよく過すためのこんな共同謀議、人生のつらいことどもを環境の許すかぎり、受け入れやすく品のよいものたらしめようとするこんなにも広汎な合意、洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるこんなにもみごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動のかくのごとき普遍的な抑制、毎日の生活のこんな絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然へのかくも生き生きとした愛、美しい工芸品へのこのような心からのよろこび、楽しいことを楽しむ上でのかくのごとき率直さ、子供へのこんなやさしさ、両親と老人に対するこのような尊重、洗練された趣味と習慣のかくのごとき普及、異邦人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上でのこのような熱心―この国以外のどこにこのようなものが存在するというのか」。
 「生きていることをあらゆる者にとってできるだけ快よいものたらしめようとする社会的合意、社会全体にゆきわたる暗黙の合意は、心に悲嘆を抱いているのをけっして見せまいとする習慣、とりわけ自分の悲しみによって人を悲しませることをすまいとする習慣をも合意している」。

 第一章で渡辺氏が「民族の特性は新たな文明の装いをつけて性懲りもなく再現するが、いったん死に絶えた心性はふたたび戻っては来ない。たとえば昔の日本人の表情を飾ったあのほほえみは、それを生んだ古い心性とともに、永久に消え去ったのである。」と断定されていることに異論をはさむ余地はありませんが、近年頻繁に起きる災害の折に、家屋は倒壊し、身内の者に不幸もあった人が、テレビインタビューを受けているときに、なぜかほほえみを忘れていないことを見かけるのは私だけではないでしょう。「古い心性とともに、永久に消え去った」あのほほえみが、現代日本人の「特性」によって被災の不幸に遭遇したとき、思い出したように生きていると思われるのですが、いかがでしょうか。

 高度工業社会に住む私たちの身の回りには、多くの工業的製品があふれ、石油に支えられた電化生活の豊かさを失いたくないと誰もが考えています。しかし、このような肥満的豊かさがこののち100年、200年と続くという根拠はどこにもなく、むしろ、未来の子孫が受くべき富を食いつぶしている現状――国債の償還、放射能の半永久的管理に必要な石油の確保、等々――を考慮すれば、どこかで国家が破綻する日を迎えるだけだろうと推測するのは自然な考えでしょう。そのような情況が目前に迫ったとき、戦争という国際紛争解決の一手段に飛びつく人々は、まちがいなく現在の豊かさを失いたくないとする思いが、平和より優先することだと考えるでしょう。ただし、戦争をするのは自国民の兵士に限ったことではないでしょうが。
 これに対して、今私たちが手に取っている『逝きし世の面影』には、手工業の時代が生き生きと描かれています。石炭・石油を使わない、私の言う穀物経済(弥生時代以来明治まで)の時代を通じて(注1)、長い手仕事の伝統の進化と発達により、おそらく極点にまで完成された江戸文明の豊かさを思い起こすことが、終末植民地主義の日々に耐えて生き行くための勇気と希望の源泉となるだろうことを私は信じています。

 

 第5章のタイトル「雑多と充溢」は江戸文明と呼ばれる時代の魅力あふれる祖先たちの営みが描かれています。

 1889(明治22)年、新任英国公使の妻として来日したメアリ・クレイザーは、毎日馬車で市内遊覧を楽しまずには居れなかった。(中略)
 「私は路上の生活を観察するのが好きなのです。その雑多さと充溢、その当惑させる率直さ、そして、曰く言いがたい控え目。帰宅するたびに心残りに思うのです。」(中略)
 シッドモアは前述のように「日本人の日常生活は芝居じみていて、舞台用の美術・装飾的小道具にあふれ、とてもまじめな現実のものとは思えない」と書いている。彼女のこの感想は生活のあらゆる局面に関わるものだろうけれども、たとえば家具らしいものがほとんど置いてない部屋は、なるほどひとつの舞台なのだろうし、そこに登場する火鉢や茶道具はたしかに小道具なのであろう。

 渡辺氏は「生活が芝居化されているというのは、現実の苦難を軽減する生活の美化・趣味化が、社会全体の共通感覚となっていたことを意味する。」と指摘し、モース一行の感想として、「“風流”という点では日本人のほうがはるかにまさる」との証言を紹介しています。
 「第5章 雑多と充溢」は次の文で閉じられます。

 彼らが見たのは、まさにひとつの文明の姿だったというべきだろう。すなわちそれは、よき趣味という点で生活を楽しきものとする装置を、ふんだんに備えた文明だったのである。「この国の魅力は下層階級の市井の生活にある。・・・日常生活の隅々までありふれた品物を美しく飾る技術」にあるとチェンバレンが言うのは、まさにこのことを指摘したものにほかならなかった。

注1)穀物経済。
 近世封建制が石高で示される経済基盤の上に発達したのは、少なくとも、古代律令制国家の経済基盤が「税」にあったことを淵源とします。租はその年に収穫され、役所に収納された単年度予算の穀物であるのに対し、税は経年度予算として穀倉にストックされる穀物です。税には正税(国庫)と神税(神社用)の2種があり、伊勢の20年に一度の式年遷宮を古代において支えていたのは、神税であり、それが不足すると正税から補うというもので、詳しくは『伊勢神宮のこころ、式年遷宮の意味』(淡交社刊)を参照願います。
 税には養老倉庫令(大宝令も同内容)で穀倉に貯蔵する年限が、穀物によって2年、9年、20年と定められており、式年遷宮の経済的根拠は、糒(ほしい)の20年間ストックにあります。糒は玄米を蒸して寒風にさらした、フリーズドライ製法のアルファ米に似たもので、私の手元には宮崎県産のものがすでに30年を経過していますが、湯に浸しておけば食べられます。
 山本七平氏が「天皇の失徳、非徳」を厳しく指摘する前期水戸学の分析をしましたが、その最大の原因は、朝廷の富(租税)を武家が奪ったからに他なりません。延喜天暦の治が古代国家の理想の如く伝えられてきたのは、まだ租税が武家に徹底的に奪われる前段であったからです。
 穀物経済はしたがって、弥生時代に始まり、明治の石炭資源の時代を経、昭和の石油資源の時代をもって、終焉しました。

 

  13.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅲ

 「第6章 労働と肉体」、「第7章 自由と身分」、「第8章 裸体と性」、「第9章 女の位相」、「第10章 子どもの楽園」は都合160ページに及び、同書全体の3分の1に相当します。まず、「第6章」に江戸文明にあって労働とはどのようなものであったかを示されます。

 モースは、明治10年にはまだそのまま残存していた徳川期日本人の労働の特質を目撃したのである。むろん、何もせずに歌っている時間を省いて、体力の許すかぎり連続的に労働すれば、仕事の効率は計算上では数倍向上するに違いない。しかしそれはたんなる労役である。ここで例にあげられている地搗きや材木の巻き揚げや重量物の運搬といった集団労働において、動作の長い合間に唄がうたわれるのは、むろん作業のリズムをつくり出す意味もあろうが、より本質的には、何のよろこびもない労役に転化しかねないものを、集団的な嬉戯を含みうる労働として労働する者の側に確保するためであった。つまり、唄とともに在る、近代的観念からすれば非能率極まりないこの労働の形態は、労働を賃金とひきかえに計量化された時間単位の労役たらしめることを拒み、それを精神的肉体的な生命の自己活動たらしめるために習慣化されたのだった。イヴァン・イリイチふうにいえば、労働はまだ“ワーク”になっていなかった。

 労働とは何か、といった設問に対して、近代科学主義の経済学であれ、物理学であれ、正解を示したものがあるのでしょうか。少なくとも江戸文明に見受けられた労働には、労働する者が本来、遊びと同様に本質的に持っている働き甲斐をもたらす工夫によって、苦役とならなかったと知らされます。

 「すべての職人的技術において、問題なしに非常な優秀さに達している」とオールコックから賞讃された職人たちにとって、労働がよろこびと自負の源泉だったことはいうまでもなかろう。モースは、一見簡素な日本家屋の部分部分に「指物師の工夫と芸術心(アート・ティスト)が働いていること」に驚嘆した。

 

 「第6章 労働と身体」は次のように結ばれます。

 身体がある社会の特質とそれによって構造化された精神の表現であるとすれば、欧米人の眼に当時の別当や人力車夫や船頭や召使の身体が美しく生き生きとしたものに映ったという事実は、彼らがまさしく古き日本の社会の中で、ある意味で自由で自主的な特質をもった労働に従事していたのだという、従来の日本史学からすれば許すべからざる異端的仮説を成立ならしめるものであるのかも知れない。注意しておきたいのは、日本労働大衆についてのこういう意外な記述がみられるのは、幕末から明治初期の記録に限られることだ。だとすると、江戸時代の労働大衆は自由な身体の持ち主だったのである。なぜ彼らの身体は自由で生き生きとありえたのだろうか。われわれの考察はおのずと当時の身分社会の構造へ導かれる。

 

 「第7章 自由と身分」は、明治以後現代まで常識として理解されている江戸幕府の支配体制の特徴に、外国人観察者たちが記録した実態をあててみるとき、身分制によって身動きがかなわないほど自由を失っていた、“縛られた民衆”というイメージではないことを明示する内容です。明治の近代化推進を絶対的に正しいと考えてきた多くの知識人にとって、封建的近世は批判されこそすれ、評価に値するものでもありませんでした。軍事的に領主に支配された貧しい民衆が近代化の潮流の中で、四民平等の明るい未来を生きて行く、といった扇動的言論は江戸時代を暗く、貧困に満ちた時代とするイメージを作りあげてきました。

 「日本人の間にはっきりと認められる、表情が生き生きしていることと、容貌がいろいろと違っているのとは、他のアジアの諸民族よりもずっと自発的で、独創的で、自由な知的発達の結果であるように思われる」というアンベール、「卑屈でもなく我を張ってもいない態度からわかるように、日本のあらゆる階層が個人的な独立と自由を享受していること」が東京の街頭の魅力だというバード、「日本人は男にふさわしく物おじせず背筋をのばした振舞いを見せ、相手の顔を直視し、自分を誰にも劣らぬものとみなす。もちろん役人は大いにそうだし、下層の者だって多少はそうだ」というジェフソン=エルマースト、「下層の人びとでさえ、他の東洋諸国では見たことのない自恃の念をもっている」というホームズ、「日本の駕籠かきは態度においていくらか独立不羈で、外国人をたかりのえじきとみなすという不愉快な習慣を身につけつつある」というスミス主教――幕末から明治初期の日本人の独立心に富んだ態度・相貌についての、このような多彩な証言を黙殺したり無視したりするのは、およそ史家のよくなしうるところではあるまい。

 つまり欧米人たちは江戸期の日本に、思いもかけぬ平等な社会と自立的な人びとを見出したのだった。(中略)彼らが見たのは、武装した支配者と非武装の被支配者とに区分されながら、その実、支配の形態はきわめて穏和で、被支配者の生活領域が彼らの自由にゆだねられているような社会、富める者と貧しき者との社会的懸隔が小さく、身分的差異は画然としていても、それが階級的な差別として不満の源泉となることのないような、親和感に貫かれた文明だったのである。

 江戸文明の多様性の中でも、学術面のそれは百花繚乱の様相を呈していますが、私の学習した人々の中で、おそらく最も鋭気に満ちた思想家は安藤昌益ではないかと思います。彼の主張の根本は、「平和」をいかに実現するか、にあります。生年は不詳で宝暦12年(1762)に秋田県大館市内の仁井田で没したことは分かっていますが、伝記は不明のところが多い人です。渡辺氏の言う「富める者と貧しき者との社会的懸隔が小さく」、「親和感に貫かれた文明」の中で、昌益は徹底した平等主義を主張し、理想の社会を「自然世」と名付け、それが成立する絶対条件はすべての人が「直耕」(造語、自給自足)することにあり、現実社会の「不耕貪食(造語、労働せずに他人の労働の成果を盗み取ること)」の者がいなくなることによって平和が実現すると主張しますから、身分制をも否定します。『統道真伝』から。

 自然の人は直耕・直織にして、原野・田畑の人は穀を出し、山里の人は材、薪材(まき)を出し、海浜の人は諸魚を出し、薪材、魚塩、米穀互ひに易へ得て、浜・山・平(の)・里の人倫与(とも)に皆、薪、飯・菜の用、不自由なく安食・安衣す。

 直織は自ら織ることを意味し、安食・安衣の安は、平安にいつまでもと言った意味のともに昌益の造語です。社会を構成する人々が全員、自ら耕作するならば世の中の乱れは起きないと昌益は主張します。したがって、その批判の矛先は、自ら耕作しない者へ向かいます。『統道真伝』から。

 聖人は(中略)己れの手よりして一粒一銭を出すこと無く、我物と云ふ。持たざる者は聖人なり。然るに何を施してか、民を仁(めぐ)むべけんや。(中略)聖人は衆人の直耕を貪り取り、税斂(ぜいれん)を得ざるとき兵乱を起して責め取る。背く則(とき)は罪無くして衆人を殺す。之れを仁徳の政と謂ふべけんや。

 聖人を支那の聖賢から釈阿までを想定するばかりではなく、聖人にならう者を「賢人」と呼び、おそらく武士をも想定しています。天恵生産に従う人々が、他者を支配しようとする意欲や魅力につかれない暮しをすることが、平和を実現する根拠であると昌益は見定めました。しかし、鋭悍な論理と耕すことをしない者への厳しい批判は大いに肯定されるところが多いと思いますが、昌益には人の世に対する情愛が全く感じられないのです。詩心や詩情と無縁でありつづけた町医者(もとは武士)の生涯に物足りなさを覚えるのは私だけではないと思います。

 「第8章 裸体と性」の裸体に対する禁忌が日本になかったことを外国人観察者たちは、キリスト者の道徳観から批難することも多かったようですが、ほとんどは「裸体が無作法であるとは全然考えない」と言うモースの意見に同調したもののようです。渡辺氏は指摘します。

 徳川期の日本人は、肉体という人間の自然に何ら罪を見出していなかった。それはキリスト教文化との決定的な違いである。もちろん、人間の肉体ことに女性のそれは強力な性的表象でありうる。久米の仙人が川で洗濯している女のふくらはぎを見て天から墜落したという説話をもつ日本人は、もとよりそのことを知っていた。だがそれは一種の笑話であった。そこで強調されているのは罪ではなく、女というものの魅力だった。徳川期の文化は女のからだの魅力を抑圧することはせず、むしろそれを開放した。だからそれは、性的表象としてはかえって威力を失った。混浴と人前での裸体という習俗は、当時の日本人の淫猥さを示す徴しではなく、徳川期の社会がいかに開放的であり親和的であったかということの徴しとして読まれればならない。

 「裸体と性」が江戸文明における「開放的」習俗のもとで、明るく語り合われることでしたから、それは「売春」についても「陰微さ陰惨さ」を見出すことがむつかしかったと外国人観察者たちは言います。

 イザベラ・バードは伊勢山田を訪ねて、外宮と内宮を結ぶ道が3マイルにわたって女郎屋を連ねていることに苦痛すら覚えた。彼女が「この国では悪徳と宗教が同盟を結んでいるようにみえる」こと、「巡礼地の神社がほとんどつねに女郎屋で囲まれている」ことについて、突きこんだ考察を試みた形跡はない。巡礼地が女郎屋で囲まれているのは、むろん精進落としが慣習になっているからである。買春はうしろ暗くも薄汚いものでもなかった。それと連動して売春もまた明るかったのである。性は生命のよみがえりと豊饒の儀式であった。まさしく売春はこの国では宗教と深い関連をもっていた。その関連をたどってゆけば、われわれは古代の幽暗に達するだろう。外国人観察者が見たのは近代的売春の概念によってけっして捉えられることのない、性の古層の遺存だったというべきである。

 遊女(あそびめ、うかれめ)は、近世では遊女屋や女郎屋にいて、酒や歌舞を供して“疑似変愛”を経て春をひさぎますが、そこには渡辺氏の指摘通り、暗さはないので、遊寺(あそびでら)、浮世寺、世間寺(せけんでら)と場所がらも気にしなかったようです。
 万葉集には「遊行女婦(うかれめ、あそび)」の歌が3首、遊行女婦を対象にした長歌1首と短歌3首が見えます。1首のみ紹介します。

大和道は 雲隠りたり 然れども
我(あ)が振る袖を なめしと思(も)ふな
(万.966)

 大宰帥大伴卿が大納言を兼任するため京に向って帰途につき、馬を水城(みずき)に止めて大宰府の館を振り返って見ると、児島という名の遊行女婦が、再び会えぬことを嘆き、袖を振りながら、「貴賤を、上下の差をわきまえないと思うな(なめしと思ふな)」と歌をうたいました。「古代の幽暗」のひとつの景色でした。

 「第八章 裸体と性」に続き、「第九章 女の位相」へと向かいます。江戸文明の女性は、妻となると、「財布を握り一家を牛耳る」し、庶民の場合、「男言葉と女言葉の差がほとんどなかった」ばかりか、飲酒喫煙も自由であったことに、外国人観察者たちは「のびやかで潑溂とした」女の一生を見届けていました。私の育った漁村は近代化が100年ほど遅れていたようで、女性が「おれ」と言い、その他のこともすべて私が子供のころ見聞きしたことと同じです。

 「どうやら『惚れた腫れた』という万人共通の楽しみは、結婚生活の義務を優しく心をこめて遂行することとまったく無縁であるように思われます。そしてひとりの人間がもうひとりの人間を全人格を傾けて崇拝する栄誉を授かるのに、なにも結婚前に準備として恋の病にかかる必要などないのかもしれません」と、フレイザーはやや冑を脱ぎ気味である。つまり彼女は日本人の友が、なぜそれは愛ではないと否定したのか、その理由がわかっていたのだ。“日本人の友”は愛を恋愛と受けとり、主人公が夫のために自己犠牲を払ったのは恋愛感情からではないと言いたかったのである。もはや惚れた腫れたなどという恋の病とは無縁の義務、それこそより深い意味の愛でなくして何だろうか。愛は恋と無縁に、義務という束縛の形をとって育つ。これはフレイザーにとって発見だった。しかしなおかつ彼女には、トゥルバドゥール以来の西欧の伝統であるロマン主義的な恋、トリスタンとイズ一風な運命的恋愛への夢を棄て去ることは不可能であったに違いない。彼女も言及しているように、日本の古き文明はそれを実生活とは関わりない舞台上の心中に閉じこめたのである。

 近松門左衛門(1653―1724)作『曽根崎心中』は元禄16年(1703)竹本座初演の人形浄瑠璃・文楽で、数ある“心中物”の代表と言ってよく、お初と徳兵衛の道行(みちゆき)を義太夫が七五調の調べも激しく語ります。「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まり、「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と結ばれます。
 渡辺京二著『日本詩歌思出草』(2017年、平凡社刊)には、「情死ということは西洋にもあり、ロマンティクに讃美されても来たが、心中の場処へ到る道程を『道行』としてうたう伝統は、やはりわが国固有のものだろう。」と述べ、次の印象深い結語が、この「第九章 女の位相」の引用部と響き合って心うたれます。

 このようなリズムが長い間われわれの身について来たことを、あだおろそかには思いたくない。心中は封建時代のしがらみが生んだ悲劇だなどと言うなかれ。形は変っても、しがらみ抜きの社会などあるものか。しがらみを前に死にたいと思いつつ、生きねばならぬのが人間である。この唱句のリズムは死への誘惑ではなく、むしろ生への誘惑ではなかったか。

 「労働と肉体」、「自由と身分」、「裸体と性」、「女の位相」に続くのが「第十章 子供の楽園」です。

 日本について「子供の楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである。(中略)この表現はこののち欧米人訪日者の愛用するところとなった。

 モースは言う。「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。」いちいち引用は控えるが、彼は『日本その日その日』において、この見解を文字通り随所で「くりかえし」ている。

  「朝から晩まで幸福であるらしい」と見られる風景の第一は、子守りでしょう。子守の習慣がいつ消えたのか知りませんが、神社の境内を遊び場としていた4、5歳の集団の中に、赤子を背負った少女がゴム跳びに興じていたのを記憶しています。昭和30年(1955)ごろのことでした。

 アーノルドによれば、日本の赤ん坊はおんぶされながら、「あらゆる事柄を目にし、ともにし、農作業、凧あげ、買物、料理、井戸端会議、洗濯など、まわりで起るあらゆることに参加する。彼らが4つか5つまで成長するや否や、歓びと混りあった格別の重々しさと世間智を身につけるのは、たぶんそのせいなのだ」。

 ベーコンが「年上の子どもたちのやっている遊びを、おんぶしている者の背中から、遊んでいるものとおなじくらい楽しむのである。」と記したように、「日本では子育てがいちじるしく寛容な方法で行われ、(中略)社会全体に子どもを愛護し尊重する気風がある」と渡辺氏は外国人観察者たちの見解を総括されました。

 

  14.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅳ

 「第十一章 風景とコスモス」、「第十二章 生類とコスモス」この二章の「コスモス」をまず、理解したい。

 人間は自然=世界をかならずひとつの意味あるコスモスとして、人間化して生きるのである。そして、混沌たる世界にひとつの意味ある枠組みを与える作用をこそ、われわれは文明と呼ぶ。それ自体無意味な世界を意味あるコスモスとして再構成するのは人間の宿命なのだ。問題はその再構成された世界が、人間に生きるに値する一生を保証するかどうかにあるだろう。徳川後期の文明は世界を四季の景物の循環として編成し、その循環に富貴貧賤を問わず人びとの生を組み入れ、その循環の年々の繰り返しのうちに、生のよろこびと断念を自覚させ、生の完結へと導くものだった。そしてまた、人びとは花や雪や鳥虫や月によって心を結び通わせあった。このような文明を批判するのはやさしい。だがそのうちに生きる人々は、いみじくも井関隆子が大いなる徳川の御代に感謝したので知れるように、けっして不幸ではなかった。

 「意味あるコスモスとして、人間化して生きる」、また「意味あるコスモスとして再構成する」、とあるコスモスを「宇宙」と渡辺氏が言わないのは、秩序や調和ある自然=世界に人の集団が「意味」を見出さなければ、それは無機質の宇宙と断ずるほかないからではないでしょうか。
 「その循環の年々の繰り返しのうちに、生のよろこびと断念を自覚させ、生の完結へと導く」契機をきわめて穏やかに教えてくれるのが、季節ごとに見る雪月花であり、身近にやってくる鳥虫や生類でした。「その循環の年々の繰り返し」と言う「年々」は、過去から未来へと一方的に流れ行くので、誰もが「断念」と「生の完結」を意識することなく理解していました、江戸文明の時代にあっては。
 『井関隆子(1785―1844)日記』には、

あめつちと 相さかえむと みちたらふ
月おしてれり 武蔵国原(むさしくにはら)

 の一首が、月の押し照る空を見上げて、満ち足りた幸福感にひたっている彼女の上品な姿を想像させてくれます。

 「四季の景物、つまり循環する生命のコスモスのうちにおのれが組みこまれることによって完結する生――それをこの時代の人はよしとしたのである。松葉蘭も万年青(おもと)も、そういうコスモスの一部だった。この「日本文化の一時期」の心性に、われわれは反発してもっともである。だがそれを不幸と呼ぶことはできない。

 次章の「生類とコスモス」に進むために本第十一章の末尾は魅力ある誘いです。

 欧米人が賛美したいわゆる日本的景観は、深山幽谷のそれを除いて、日本人の自然との交互作用、つまりはその暮しのありかたが形成したものだ。まして景観の一部としての屋根舟や帆掛け舟、船頭の鉢巻、清らかな川原、そして萱葺屋根やその上に咲くいちはつに至ってはいうまでもない。つまり日本的な自然美というものは、地形的な景観としてもひとつの文明の産物であるのみならず、自然が四季の景物として意識のなかで馴致(じゅんち)されたという意味でも、文明が構築したコスモスだったのである。そして徳川後期の日本人は、そのコスモスのなかで生の充溢を味わい、宇宙的な時の循環を個人の生のうちに内部化した。そして、自然に対して意識を開き、万物との照応を自覚することによって生れた生の充溢は、社会の次元においても、人びとのあいだにつよい親和と共感の感情を育てたのである。そしてその親和と共感は、たんに人間どうしの間にとどまるものではなかった。それは生きとし生けるものに対して拡張されたのである。

 「第十二章 生類とコスモス」には、「徳川期の日本人にとって、馬、牛、鶏といった家畜は、たしかに人間のために役立つからこそ飼うに値したのだが、彼らが野性を捨てて人間と苦楽をともにしてくれることを思えば、あだおろそかに扱ってはならぬ大事な人間の仲間だったのだ。」という感性が、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)という言葉があらわすように、人間は鳥や獣とおなじく生きとし生けるものの仲間」であるという広がりのある親和感を育んできたと語り、次の挿話にうなずくのは私だけではないでしょう。

 宣教師ブラウンは1863(文久3)年、彼を訪ねて来た日本人とともに漢訳の『創生記』を読んだが、その日本人は、人間は神の最高の目的たる被造物であるというくだりに来ると、「何としたことだ、人間が地上の木や動物、その他あらゆるものよりすぐれたものであるとは」と叫んだとのことである。

 漢訳の『創世紀』の「神」はシンと読みますが、それを「かみ」と日本人が読むことが、やがて日本の神の諸相に“でうす”が侵出してくることになります。ただ、ここの日本人の驚きは仏教的教化による心性と言うよりは、田畑を作り暮す中で自と身に備わった千年昔の祖先たちにとって一般的な考えであったと思います。

 しかし、そのゴールとしての近代が、すくなくとも“先進国”レベルにおいては踏破されつくした今日、過去の「野蛮」はまったく異なる意味の文脈でよみがえらずにはいない。なるほど狐が人を化かし猫がものを言うというのはそれ自体としては蒙昧を意味する。しかしそのように生類がひとと交流・交歓する心的世界は野蛮でもなければ蒙昧でもない。それはひとつの、生きるに値する世界だった。ベルツはことにふれて日本人について「幸福な国民だ、幸福な気質」だと感じないではいられなかった。これは日本人論ではない。日本人をそうあらしめていた、おしよせる「文化革命」(ベルツの表現)の波にもかかわらずまだそうあらしめていた、ひとつの文明の残照について言われた言葉である。

 欧米の植民地主義国家に対峙して、独立国家を軍事的に支えなけれればならなかった日本の急激な近代化が滅ぼしたものの「残照」を見つめつづけた渡辺氏が、しかし次のように語ることは、彼の身に何か起きたのかと思われてなりません。

 序章ですでに明らかにしえたと思うが、私の関心は日本論や日本人論にはない。ましてや日本人のアイデンティティなどに、私は興味はない。・・・A
 私の関心は近代が滅ぼしたある文明の様態にあり、その個性にある。この視覚の差異は私にとって重要だ。そしてその個性的な様態を示すひとつの文明が、私自身の属する近代の前提であるゆえに、それは私の想起の対象となるのだ。・・・B
 それにしても、狸が将軍の真似をしたり、猫が鯛や帯をくわえて来たりする文明が、いったい想起に値する文明といえるだろうか。それは理性の光輝く西洋近代に照らすとき、ひとつの羞ずべき未開の文明ではないか。その問いに対しては、そうだ、明治以降の日本人はことごとくそう考えたのだといまは答えておこう。・・・C

 Aの部分は序章の再掲であり、Bの部分は『逝きし世の面影』を執筆する動機、理由と見られます。Cの部分に「羞ずべき未開の文明」だと「明治以降の日本人はことごとく」考えたのだと「いまは答えておこう」と何かを見放したように断定しています。日本論、日本人論、日本人のアイデンティティ論などに渡辺氏は興味関心はないと言い(A)、関心があるのは、近代が滅ぼした江戸文明の「様態」と「個性」ついてである(B)と断言し、少なくとも第一章から第十二章までに引いて来られた数多の「様態」や「個性」を示す外国人観察者たちの資料を分類、分析して提示されました以上は、「いまは答えておこう」はあまりに不審の言です。
 滅び去った江戸文明の面影を尋ねるのは、そこに詩心を目覚めさせる何ものかがあるからこそ、膨大な資料の深海へ入って行くゆるぎない決心ができたのではないでしょうか。

 「第十三章 信仰と祭」は、外国人観察者にとっては、バードの「私の知る限り、日本人は最も非宗教的な国民だ。巡礼はピクニックだし、宗教的祭礼は市(いち)である」との指摘に代表されるように、「キリスト教文明を最高の文明と考えていた」人々には、まことに奇異なものと目に映ったことでしょう。
 植民地主義者と宣教師を国内に入れないために、鎖国政策を完成し、寺請制度によって仏教は被護され、仏主神従の神仏混交状態にあった江戸時代にあって、何が古い日本の宗教形態であったかを外国人観察者たちが見抜くことはできなかったでしょう。幕政の中枢にも新政府の重鎮にも果たして、外国人に日本人の宗教について説明できた人は多分いなかったと思われます。

 当時の欧米人観察者の大多数は、神との霊的な交わりによって、個人の生活と社会のいとなみにより高い精神的水準がもたらされるものとして、宗教を理解していたのである。すなわちそれは人間性の完成と道徳的進歩という19世紀的理念に浸透された宗教観だった。そんなとほうもない基準を適用されたとき、幕末・明治初期の日本人が非宗教的で信仰なき民とみえたのは致しかたないことだった。

 外国人観察者にとって、日本の当時の宗教行事を覆っている世俗的なものを剥ぎ取って、深層にあるものを探求するといったことは機会としても少なかったと思われます。江戸文明は江戸という大都市と住民のほとんどが竪穴式住居に起居していた田舎とは、やはり大きな落差がありました。観察者の多くは、京都や新潟といった中都市または小都市を訪れることが多かったようです。江戸文明の都市に流入し、その宗教心意の発達をうながしたものは、衣類や食器以外は弥生時代以来とあまり差のない暮しの中で、もち携えてきた仏教とも神道とも確定する必要のない古い文明、都市のヒンターランドたる田舎の文明に他ならないと思われます。

 杉本鉞子が回想する長岡藩元家老稲垣家の盆行事を見ると、武士の「無神論」なるものが事実の一面しか伝えていないことがよく理解される。彼女の回想は、古き日本人にとって盆がいかに厳粛かつ生命にみちた行事であったか実感するための最高の手引きといってよかろう。それは彼女の数え齢7、8歳頃、つまり明治12、3年の経験であった。

 杉本鉞子(えつこ)は明治6年(1873)生れで、明治31年に渡米して結婚し、夫の会社倒産で帰国したが、再渡米し、1925(大正14)年にニューヨークで『A Daughter of the Samurai(武家の娘)』を英文で執筆し、日本人初のベストセラー作家と称され、コロンビア大学の日本人講師もつとめました。明治初年の杉本鉞子の思い出は大正末年に公刊された書籍によるものですから、外国人観察者たちの好奇心には影響していません。(注1)なお、盂蘭盆(うらぼん)の行事に見る日本人の霊魂観、宗教観については『分分夜話・第5話』、「タマとタマシヒ」に述べておきました。

 「第十四章 心の垣根」が『逝きし世の面影』の最終章です。

 (長崎の金毘羅様の祭礼の日)、金比羅山の頂上に至る1.6キロの参道は、「ぎっしりと数珠つなぎになった人で一筋の線のようになっていた」。2時間半のしんどい登りのあと頂上につくと、そこは円形の台地になっていて、「すでに何千という凧が30メートル上空で入り乱れ、うなり声を上げていた。・・・少なくとも1万人が群れ集っていた。・・・台地は豊かな緑におおわれ、そこに家族連れが休息場所をつくり、持参した弁当をひろげていた」。ヴェルナーたちは「行く先々で手をひかれ草の上に坐らされた。」日本人たちは酒、茶、食事、煙草などでもてなし、何とか彼らに楽しんでもらおうとやっきになっていた。ヴェルナーは感動した。「ここには詩がある。ここでは叙情詩も牧歌もロマンも、人が望むありとあらゆるものが渾然一体となって調和していた。平和、底抜けの歓喜、さわやかな安らぎの光景が展開されていた」。(中略)
 ダークサイドのない文明はない。また、それがあればこそ文明はゆたかなのであろう。だが、私は、幕末、日本の地に存在した文明が、たとえその一側面にすぎぬとしても、このような幸福と安息の相貌を示すものであったことを忘れたくない。なぜなら、それはもはや滅び去った文明なのだから。

 京都の嵐山で花見の酒宴の座がいくつも開かれていました。50年ほどの昔の思い出ですが、チマ・チョゴリというのでしょうか、民族衣装の女性4、5人に男子が数人混った車座からお酒をどうか、と声を掛けられ、まだ酒の修業をしていなかったので、笑ってお礼を言い、桜吹雪の河川敷を散策しました。日本人はその頃(昭和50年ごろ)宴席に見知らぬ人に声かけて招き入れることはなくなっていました。朝鮮民族の方がひと昔前の明るくたのしい花見をしていたようです。

 人びとを隔てる心の垣根は低かった。彼らは陽気で人なつこくわだかまりがなかった。モースが言っている。「下層民が過度に機嫌がいいのは驚く程である。一例として、人力車夫が、支払われた賃銀を足りぬと信じる理由をもって、若干の銭を更に要求する時、彼はほがらかに微笑し哄笑する。荒々しく拒絶した所で何等の変りはない、彼は依然として微笑しつつ、親切そうにニタリとして引きさがる」。その事実にはすでに1810年代に、ゴローヴニンが蝦夷の獄舎で気づいていた。「日本人は至って快活な気風を持っている。私は親しい日本人たちが暗い顔をしているのを見たことは一度もない。彼らは面白い話がすきで、よく冗談をいう。労働者は何かする時には必ず歌を歌う。またたとえば櫓をこぐとか、重い荷をあげるとか云ったような歌の調子に乗る仕事なら、皆が歌うのである」
 幕末に異邦人たちが目撃した徳川後期文明は、ひとつの完成の域に達した文明だった。それはその成員の神話と幸福感、あたえられた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念、自然環境と日月の運行を年中行事として生活化する仕組みにおいて、異邦人を讃嘆へと誘わずにはいない文明であった。しかしそれは滅びなければならぬ文明であった。徳川後期社会は、いわゆる幕藩制の制度的矛盾によって、いずれは政治・経済の領域から崩壊すべく運命づけられていたといわれる。そして何よりも、世界資本主義システムが、最後に残った空白として日本をその一環に組みこもうとしている以上、古い文明がその命数を終えるのは必然だったと説かれる。
 リンダウが言っている。「文明とは、憐れみも情もなく行動する抗し得ない力なのである。それは暴力的に押しつけられる力であり、その歴史の中に、いかに多くのページが、血と火の文字で書かれてきたかを数え上げなければならぬかは、ひとつの知るところである」。
 むろんリンダウのいう文明とは、近代産業文明を意味する。オールコックはさながらマルクスのごとく告げる。「西洋から東洋に向う通商は、たとえ商人がそれを望まずにしても、また政府がそれを阻止したいと望むにしても、革命的な性格を持った力なのである。」

 リンダウが「憐れみも情もなく行動する」、「暴力的に押しつけられる力である」ものが文明であると言い、それは「革命的な性格をもった力」であるとオールコックは断定します。西郷隆盛はこのような考え方を批判し、「西洋は野蛮ぢや」と言ったのですが、欧米の植民地主義者と戦う前に、内戦で倒れてしまいました。大アジア主義へ向かう思考の根源を誰に託したのでしょうか。

 「おのれという存在にたしかな個を感じるというのは、心の垣根が高くなるということで」あり、「それが高いということは、個であることによって、感情と思考と表現を、人間の能力に許される限度まで深め拡大して飛躍させうるということだった」と渡辺氏は言い、オールコックやブスケが、「そういう個の世界が可能ならしめる精神的展開がこの国には欠けていると感じたのである。」と指摘することの正誤は問わないのです。

 モースは言う。「日本人の顔面には強烈な表情というものがない」。強烈な表情を獲得することがしあわせだったか、確乎たる個の自覚を抱くことがそれほどよいことであったか、現代のわれわれはそのように問うこともできる。

注1)
 『武士の娘』(原書名、“A Daughter of the Samurai”)、書者は杉本鉞子(えつこ)、訳者は大岩美代。原書は1925年ダブルデー・ドーラン社から単行本として発行され、ドイツ、フランス、デンマーク、スエーデン等7か国語に翻訳されました。杉本鉞子は明治6年(1873)新潟・長岡藩の家老家に生まれ、渡米して貿易商杉本氏と結婚しましたが、夫の病没に遭遇しましたのちも、ニューヨークに住み、雑誌『アジア』に「武士の娘」を連載し、7か国語に翻訳され好評を博しました。コロンビア大学で日本文化史を講義。昭和3年(1928)帰国、昭和25年(1950)死去。
 ちくま文庫(1994年第1冊発行、2009年第12刷発行)

(令和2年8月28日記)

funpun・yawa
mudou raisei
vol.9-5



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