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魂の行方、国の行末 無動来西

分分夜話 第9話 第4話 10-11

無動 来西

 21世紀を国は越えられるか
 ——終末植民地主義を克服する道——

 目次
  はじめに
  第1部〔8月18日公開〕

 1.譲位と個人と法律と

 2.山本七平著『現人神の創作者たち』
 3.前期水戸学の鋭鋒
  第2部〔8月25日公開〕
 4.崎門学と国学

 5.文部省作成『国体の本義』
 6.忘れられた植民地主義
  第3部〔9月1日公開〕

 7.日本の神(かみ)の諸相
 8.天主教の”でうす”は神か
 9.日本の神を蚕食した基督新教
  第4部〔9月8日公開〕

10.植民地主義から終末植民地主義へ
11.渡辺京二著『逝きし世の面影』・I
  第5部〔9月15日公開〕

12.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅱ
13.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅲ
14.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅳ
  第6部〔11月2日公開〕
15.招魂社の背後に欧米列強の植民地主義者の魔手が

16.勅裁を経て合祀される公務死、法務死の人々
17.A級被告の合祀と行幸批難
18.北白川宮能久親王と同永久王の合祀
19.神威の盛衰―御代の平安は翳(かげ)らないか
20.御名代と御由緒物
    付篇:斎王の御本質と大御手代奉仕について
21.終章  神前にて
   参考文献

 

  10.植民地主義から終末植民地主義へ

 植民地主義は、いわゆる西欧の三大発明によって進展し、帝国主義に至ってきわめて暴戻の限りを尽くし始めます。1492年、コロンブスが新大陸を発見、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマがカリカット到着、といった大航海時代の到来は、アジア、アフリカ、南北両アメリカの大陸が侵略の洗礼を受け始める世紀でもあります。三大発明の火薬は、大砲・鉄砲に始まり、今やミサイルや核兵器がそれに相当しますように、羅針盤はレーダーや通信衛星に進化し、印刷技術はインターネット、コンピューターへと変貌を遂げました。火薬・羅針盤の時代の植民地主義に対して、核兵器・レーダーの時代の植民地主義は、未来の子孫たちの富をも奪うことを指向するゆえに、終末植民地主義と私は呼んでいます。
 ポルトガル人は1510年にゴア(インド)を征服し、1511年にマラッカを占領し、1515年にホルムズ島を征服し、また、1571年にはスペインがフィリピン統治を開始するなど、アジアは植民地主義者によって、侵略され続ける歴史を味わうことになりました。1601年にはイギリス東インド会社が創立され、1602年にはオランダ東インド会社の設立を見ました。それは紅茶や香料の貿易を支えるための植民地経営を実施するためのものでした。
 織田信長(1534—1582)は耶蘇教に対しては好意的な態度を示したと言われます。永禄12年(1569)、宣教師ルイス=フロイスの要請を容れて布教許可の朱印状を与え、天正3年(1575)から始まった京都の教会堂の建立には、土地と資材を寄付して援助しました。いわゆる南蛮寺ですが、さらに天正8年(1580)には安土の城下町に土地を与えて教会堂を建立させ、その翌年には神学校の設立を認めて、その建設費を寄付しました。信長がこのように耶蘇教に好意を示したのは、仏教排撃のためにその信仰を援助したという理由以外に、宣教師たちを通じて知らされた道の世界と西洋文化に対して大きな興味と関心を抱いたためと言われます。一向一揆は信長を最も苦しめたものでした。顕如の指令で近江、伊勢、越前、加賀の各地で一向宗徒が蜂起し、伊勢の長島一揆では、信長の弟、信興が小木江城で攻め殺されましたように一向宗は、「天下布武」の前に立ちはだかる武装勢力でした。
 天正15年(1587)6月19日、豊臣秀吉は、「日本は”神国”であり、キリシタンは日本の伝統的宗教権威の破壊を行う”邪法”である」とした伴天連(バテレン)追放令5か条を出しました。これによって、大名の自由な入信を禁じ、大名による領民へのキリスト教入信への強制を禁じ、日本人を支那、南蛮、朝鮮へ売る人身売買を禁じました。明の衰退とヨーロッパ勢力の進出という東アジアの新しい情勢のもとで、近世的な国家意識をキリシタンの統制をもって、秀吉は表明しました。なお、宣教師(バテレン)は国外退去を命ぜられましたが、キリシタン国からの商人の渡航を許可し、貿易は維持されました。
 江戸幕府は慶長17年(1612)8月6日にその直轄領に対して、「伴天連門徒御制禁也、若有違背之族者、忽不可遁其罪科事」というキリシタンの信仰を禁止する法令を発布しました。さらに慶長18年12月22日には、黒衣の宰相と言われた金地院崇伝(以心崇伝)の筆になる長文の禁教令が発布され、それは、国内外にその政策を宣言する文章内容でした。「それ日本は元これ神国なり」で始まる『伴天連追放之文』によって、禁教政策は幕末に至るまで踏襲され、崇伝の立案能力の高さによって、本寺末寺制を確立し、宗教統制を図ると同時に、檀家寺請制度で民衆統制を図ることになりました。寺院が幕府の末端行政を担うことによって、キリシタン禁制の実があがり、植民地主義者の魔手からのがれる平和を招来することができました。しかし、それは寛永14年(1637)の島原の乱によって大きな衝撃を受けた幕府が、外に対して鎖国を徹底させることによって実現されました。
 三代将軍家光は、寛永10年(1633)に海外在留5年以上の日本人の帰国を禁止し、同12年に日本船の海外渡航も禁止し、同16年にポルトガル船来日を禁止するとともに、同18年にオランダ商館の長崎出島移築を実行して鎖国体制を完成しました。島原の乱は寛永14年から15年にかけてのことでした。
 寛永17年(1640)6月に長崎渡来のポルトガル船を焼き、乗員61人を斬るという事件の翌年、出島に移ったオランダ商館によって、禁教と貿易統制の実効が上がり、鎖国が始動して、ペリー来航の嘉永6年(1853)までわが国は、およそ200年間の泰平の時を送ることになりました。
 しかし、その間、インド、清、ビルマ、マレーシア、ベトナム、フィリピン等アジアは西欧植民地主義者によって、侵略されつづけていました。津田元一郎著『インドの心』(昭和55年、日本評論社刊)に印象深い一節があります。

 西洋の進歩史観は、人類が奴隷社会から民主主義社会へと限りない前進を続けてきたと説く。しかし、もし、われわれがインドの貧困に注目し、まさに現代社会のただ中に奴隷以下の社会が存在しつづけていることを知ったならば、奴隷社会は克服されたのではなく、西欧社会からただ、アジアへ輸出され、吐き出されただけであることを悟るにちがいない。人類が奴隷社会から民主主義社会へと進歩したのではなく、西欧がアジアに奴隷社会を創出することによって、自己のみの繁栄と民主主義をつくりあげただけである。そのとき、われわれは進歩主義史観はひとりよがりの詭弁にすぎず、インドがその史観を拒否している理由を充分に理解するにちがいない。西欧キリスト者は植民地支配機構のメカニズムによって、貧しき非キリスト者たるインド大衆を徹底的に収奪し、徹底的な貧しさに陥れながら、空虚な愛の説教を反復してきたにすぎない。キリスト者西欧は、『ルカ伝』16・19—13の富める者とラザロとの譬を完全に忘却し、富める西欧の繁栄のためにひたすら英語教育の普及と拝欧主義のための洗脳と偽善的愛の布教に献身してきた。バートランド・ラッセルは、「なぜ私はキリスト者ではないか」の中で、何よりも、キリスト者がキリストの教えを守らない偽善をその理由のひとつにあげている。

 また、同書では、「西欧のためにゴムやココナツ油を産し、宗主国民(イギリス国民)の嗜好するお茶や香辛料を産」することを強制するプランテーションは、ケーララ州の住民の食糧自給を許さず、インド全州の中で最も貧しい地域に陥れたという「植民地経済の典型的帰結」が、独立後も西欧資本家の手からインド資本家の手によって、現在に持ち越されていると、植民地主義の冷酷苛烈なしくみが語られています。同氏には、『日本的発想の限界、イラン・アフガニスタン・東南アジアの真相』(昭和56年、弘文堂刊)などの著作もあります。
 16世紀以来20世紀のアジア・アフリカの独立の時代を経て、植民地の多くは宗主国から独立を果たしたものの、長い期間にわたってその地域の本来の生業を奪われてきたため、独立後に自国植民地主義者を創出し、国民・民族の貧困を根本的に救えずに21世紀を迎えているのが、アジア・アフリカの現状です。しかし、三井三池争議が始まった昭和34年(1959)以来いわゆるエネルギー資源が石炭から石油へ急速に切り換えることを強引になしとげ、高度工業社会の実現に成功した日本が昭和43年(1968)にGNPで自由世界第2位となりましたように、中国、インド、朝鮮、台湾等々、工業社会を建設することが経済的繁栄を実現する道だと誰もが信じ込んできました。植民地主義者によるプランテーションによって、その地域固有の生産様式や前近代の共同体的生活様式が根底から破壊、変更されてしまった結果、とりもどすことのできない精神的疾病と貧困の格差が創出されてしまいました。また、今ひとつ深刻な問題は、植民地主義者たちが行った奴隷貿易です。カトリック中央協議会が『協会と人種主義』(1990年日本カトリック司教協議会認可)の中で、「黒人奴隷売買」に触れ、「奴隷貿易は、1562年に始められたのですが、奴隷制は、結果としてほぼ3世紀も続くことになったのです。」と述べ、300年以上続いた奴隷制の原因について、次のように記しています。

 宣教師たちが政治権力により強く依存していればいるほど、植民地主義者の支配の全てを抑えることは、宣教師たちにとってより困難なことでした。ときには、聖書の誤った解釈に基づいて、その支配を奨励したことさえあります。

 奴隷として植民地主義者によって売買されていたのは、アフリカ大陸の住民たちだけではなく、日本人、支那人等アジアの人々もその対象となっていましたが、人種主義(Racism)の議論では忘れられています。
 「新世界発見」とは、西欧が植民地を奪い取ることを意味し、「とかく混同されやすい福音宣教の仕事と植民地的帝国主義とを注意深く区別しなければならないと主張してきました」(『協会と人種主義』)と教皇庁は語りながら、黒人奴隷売買についてはその始まりから300年以上も経って、1888年5月5日付の回勅「奴隷制度廃止について」でようやく公的に批難をしました。それは新世界の場合、「新世界の司祭たちがあまりにも強くパトロン制度に依存していたため、協会が司牧上必要な決定を下すことがいつも可能だったわけではありません。」(前揚書)とインディオ(インディアン)に対する人種主義的行動について語っています。
 植民地主義者が奪うのは、その土地と生活・生産様式だけではなく、武力的弱者であるその地の住民の人権であり、その人数をいまだ概数ですら推定できないほどの歴史の闇が横たわっています。
 この植民地主義者に侵略されることなく、キリスト教の禁制を軸に対外政策として実施した鎖国によって、少なくとも200年以上の泰平の世に完熟した文明がどのようなものであったかを、詩人の文章で描写している渡辺京二著『逝きし世の面影』は、明治以後の近代化が失ったものを明確に伝えてくれます。

 環境問題を考えるとき、わが師宇治田一也はもとより、豊前の松下竜一氏、入浜権運動の高崎裕士氏、そして『苦海浄土』の石牟礼道子氏たちのことを思います。

祈るべき 天と思えど 天の病む

 石牟礼道子氏の句です。この句の「天」は、西郷隆盛の「敬天愛人」の天であり、福沢諭吉のアメリカ独立宣言の邦訳、「天は人の上に人を造らず」の天とも同じなのでしょうか。深刻な環境問題に直面されつづけられた同氏のやるせない思いに感想を語ることは愚かです。「天」が病んでいない文明のありさまを『逝きし世の面影』に教わりますが、亡び去ったものへの憧憬なくして”亡びの時刻表”『西暦2000年の地球』の予測を生きることもできかねると私には思われます。
 石炭から石油へとエネルギー資源の転換を遂げた結果、植民地主義の発想はより狡猾になりました。かつての植民地主義が収奪してきたのは、土地、人、生産物といった三次元の世界でのものでしたが、今はそこに未来を植民地とする発想が加わり、四次元的植民地主義の時代に入りました。植民地主義との戦いはこれが最終のものとなりますし、国の存亡もこの終末植民地主義をいかに克服して行くかにかかっています。儲かる経済とは、大量に石油を投入できる企てがあるか、否かにかかっています。大規模な設備投資とは、大規模な石油投入を意味します。その実施が大規模なものであればあるほど、そこからはね返ってくる利潤も大きくなります。それが経済の活性化や好循環というのであれば、あまりに刹那的な発想です。大規模な設備はやがて劣化し、すべて石油に頼って、処理または管理されることになります。何年かかるか分からない処理や管理に要するトータルの石油量を論ずることなく、クリーンだ、再生可能だと言うのは、百年先は知りませんと断言するのと同様、あまりに利己主義、刹那主義です。
 国際紛争に巻込まれることなく、大災害に襲われることなく、終末植民地主義をあと何年続行できるでしょうか。21世紀の予測の報告書『西暦2000年の地球』には、もし、このトレンドが続くならば、異常気象が常態となると指摘されていますが、オイルメジャーやウランメジャーに魂を売った者のほとんどは鬼籍に入り、安穏と死後の平安を手に入れているのでしょうか。
 現在最も優れたエネルギー資源は石油です。再生可能なエネルギーという嘘は、どこかで石油の手助けを得ています。太陽電池を製造するのも石油、風力発電を可能にするのも石油、そして太陽電池や風力発電装置を処分するにも石油、どこまでも石油です。原子力発電はウランの生成から発電所の建設、稼働終了後の高レベル・低レベルの放射能の管理等にすべて石油が投入されます。石油は使用されたら最後、廃物(COx等の排気ガスや粉塵等)と廃熱に移行し、それらは、一方的に大気を汚染して行きます。問題は地球がどこまで、この廃物・廃熱を処理できるか、あるいは生態系が死絶しない限界点はどこか、等々解答を見たことがありません。少なくとも、子孫が享受できる富を守りたいと願うのであれば、あらゆる工業的事業や製品について個別に石油投入量を明示し、さらにその廃物(工場、ビル、廃車等々)を処理し、安全に管理するためにどれほどの石油を投入しなければならないかを算出すれば、何がどれほど子孫の富を奪うか、何がどれほど子孫の負担となるか、といった予測が明らかになります。
 終末植民地主義を克服するためには、現代人のあらゆる営みについて、石油がどれだけ投入(燃焼)されているかを丹念に調査し、その結果を明示して、何をどれだけ断念するかを話し合わなければなりませんが、その時、ではそこにどのような生活様式や風景が育まれるべきかと思い到るならば、私はまず『逝きし世の面影』を参考にして、無理なく実践できる道を尋ねるべきだと思います。補完されるべきわが国の歴史的成果は、民俗学や文学(古代から現代まで)、さらに古事記、日本書紀、風土記といった1300年昔の伝えもあります。

 

  11.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅰ

 上皇陛下が特例法によって譲位され、今上陛下が令和元年5月1日に即位されましたとき、故山本七平氏とともに現代における即位の意味を教えていただきたいと願ったのが渡辺京二氏です。保田與重郎先生の著書をおそらくほとんど読破されていたと思われる故宇治田一也先生(分分夜話第7話参看)のもとで、日本浪漫派の総帥と称されました保田先生の思想を学ぶことが青春の日の日課のひとつでした。和歌山市の公害問題、環境破壊の苛烈さが、保田與重郎先生の反近代の思想の下で、未来の「絶対平和」を構想することへと向かわせ、宇治田先生から、学ぶべきことの重要点を折にふれては教わりました。学習塾で板書しながら、気が付くと立ったまま眠っておられたのは、住民運動の会議出席や行政への陳情書作成など文字通り寝る暇もない毎日を過ごされていたからです。日本浪漫派の総帥としての保田先生の文芸上の大きな足跡については、故谷崎昭男著『保田與重郎―吾ガ民族ノ永遠ヲ信ズル故ニ―』(注1)がおそらく最も精緻で誠実な考証を示されています。しかし、私たちが宇治田先生から学びつづけていましたことは、文芸評論家としての保田先生の膨大な業績を考究するというより、この時代の破滅的な状況をいかに思想的にまた、文学的にも救って行くことができるのか、ということにありました。
 和魂洋才といった相対的な愛国主義は認められてよいと思いますが、脱亜入欧の語に象徴される、拝欧主義に走りかねない大久保利通や福沢諭吉の考え方に対して、「西洋は野蛮ぢや」と断じた西郷隆盛(1827—1877)を源流とする、植民地アジアへの共感を堅持しようとする大アジア主義(汎アジア主義)の考え方こそ重視されるべきだとする、2つの潮流が日本の近代史を貫ぬくものであることを保田先生の『明治維新とアジアの革命』、『絶対平和論』などから学びました。『西郷南洲遺訓』(注2)より。

 文明とは道の普(あまね)く行はるるを賛称せる言にして、宮室の壮厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。(中略)予嘗(かつ)て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと争ふ。否な野蛮ぢやと畳みかけしに、何とて夫(そ)れ程に申すにやと推せしゆゑ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢやと申せしかば、其(その)人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑はれける。

 16世紀以来の植民地主義者の侵略とアジアの呻吟苦闘については、まだ歴史学的に未調査、未考証の現実が多々あり、近代日本に現れた、アジアは文化的、政治的に一つであるとする心情や理念を「大アジア主義」と呼ぶ思想については、疑似論理の思想であり、制度に高められることがない点で、民主主義や社会主義の普遍概念ではないと批判されます。大東亜戦争との関連を含めて、『国史大辞典』第1巻・「アジア主義」の項目を今日の常識的見解として長くなりますが引用します。

 19世紀に入って一層激化したヨーロッパのアジア進出である。(略)この資本主義化の波は、一方では産業と科学、つまり文明力の波及という様相を呈し、他方、政治的、軍事的には帝国主義、植民地主義的膨張の姿をとった。アジア各国は近代化と独立の要請に直面したのである。ここに、日本により一層特殊的な状況を構成する第3の因子が現われる。それは、アジアをどのように広く定義しても、その中で日本だけがヨーロッパの侵略に抗して独立を獲得し、急速な近代化を遂行することができたという特殊事項である。いいかえれば、当時のアジアの一般的な運命と日本の特殊事情の関連をある傾向性をもって解釈し、解決しようとしたのがアジア主義であり、その関連をいかに把握したかによって、アジア主義の態様と政治的機能がさまざまに現われたのである。幕末の日本にヨーロッパ東漸の報が伝わると、アジアの一般的な運命が日本をも襲うことを予感して危機意識をもつ人々が現われた。『西域物語』を著わした本多利明、『宇内混同秘策』を著わした佐藤信淵や、橋本左内・吉田松陰・平野国臣などである。すでに彼らの主張には、単に外圧を防ぐばかりではなく、積極的に海外へ発展、膨張することによって独立を保持すべきであるという考えが見られた。明治維新によって統一と独立の保持に一応成功した明治政府は、文明開化の方針により近代化を優先させた。これに対して自由民権論が隆盛となるが、その中から、アジア諸民族が平等に連帯すべきことを説く植木枝盛や、『大東合邦論』(1885年)を著わして日本と韓国が対等に合邦すべきことを提唱する樽井藤吉が現われた。1880年代後半、天皇制確立とともに自由民権運動は退潮し、ヨーロッパのアジア進出がさらに激烈になると、アジア連帯論も弱まった。しかしその後も、自伝『三十三年之夢』(1902年)にみられるような無私の態度で終始中国国民革命を援助した宮崎滔天(とうてん)があり、アジア連帯論はかすかにアジア主義の心情のなかにのこった。同じころ、福沢諭吉は中国・朝鮮の惨状に絶望、脱亜こそ日本の独立を維持する方途であるとした(「脱亜論」1885年)が、文明=西洋文明という文明観に立って日本の近代化を推進させようとする福沢に対して、文明には西洋の物質文明と東洋の精神文明があるという文明観を提出したのが岡倉である(『東洋の理想』1903年)。被圧迫アジアは文明の同質性において一体となり得る、そして、現状の変革が成し遂げられると彼は主張した。しかし、このころ、アジアが文化的に単一であるとする岡倉の説をも援用しつつ、民権論から国権論の立場に移ってアジア主義を唱える勢力が出現していた。その代表は玄洋社―黒竜会の系譜(頭山満・内田良平ら)である。アジア唯一の独立国であり、富国強兵を成就した唯一の国家である日本がアジア連帯の盟主となるべきであるという、彼らの当初の主張は、次第に、そのような日本の存続強化のためという名目のもとに、他のアジアを侵略、圧迫する対外硬の思想へと機能転化した。その経過が朝鮮合併、日清・日露戦争とその後の満蒙進出である。それはやがて満州国建国から大東亜共栄圏へと具体化の度を進めながら、アジア連帯への契機を欠落させて行った。民権論者と国権論者のアジア主義の源流が、ともに征韓論者西郷隆盛の西南戦争の挙に求められることは重要である。つまり、アジア主義は民権論と国権論、西欧化と国粋化の対立の中から発生し、その対立の過程で体制からはじき出された不満分子を主要な担い手としたのであるが、根本的にいって、そのような対立は近代日本がアジアの中、およびアジアとヨーロッパの間に占めた特異な位置に胚胎するのであるから、上述のようなアジア主義は近代日本に特殊的な、宿命的ともいえる現象である。事実、たとえば孫文の「大亜細亜主義」(1924年)は日本の侵略と圧迫を被るアジアからの日本批判、日本的アジア主義批判であった。戦後再びアジア連帯が叫ばれるが、アジア人から非難されるアジア主義の傾向が再生する素地はまだ残っているのである。アジア主義の論議がアジアの多様性の認識を日本人の常識に遺したとは断定できないし、日本がアジアの中の唯一の先進国という状況が現在存在しているからである。(平野健一郎)

 長い引用をしましたが、明治維新後の2つの潮流を概観するには適切な解説かと思われます。ただし、孫文(逸仙、1866—1925)の日本批判は正当であると思われますが、ソビエトを欧米同様の覇道国家とは見なさず、東洋の王道国家として、アジアの被圧迫民族を解放するために、中ソ両国が提携して進むことを遺書にしてソビエトに希望しましたことには異議があります。ソビエト共産主義も欧米帝国主義(植民地主義)もともに近代の双生児であり、真の意味で、東洋平和をもたらすものではないと指弾されたのが保田與重郎先生でした。18歳の日に保田先生にお会いしたのは、和歌山県による和歌山市二里ヶ浜の海面埋立許可に抵抗して無期限ハンストに踏み切られ、断食も20日間をすぎたころ、宇治田一也先生の容態の報告に伺ったことが最初でした。公害、環境破壊のない社会とは何か、ひいては日本の近代とは何であったのか、保田先生の著作の中で考える日々を送り始めました。京都での大学生活も終わるころ、現代を推進しない仕事はないだろうか、と考えつづけていました。そのころに出会ったのが、渡辺京二著『評伝・宮崎滔天』(昭和51年、大和書房刊)、『神風連とその時代』(昭和52年、葦書房刊)の二著でした。世の中にこのような精緻な考証を詩人の心を失わずになし遂げる人がいるのか、と驚きをもって読みました。『国史大辞典』の引用文中の『三十三年之夢』は宮崎滔天の自伝です。脱亜入欧が近代国家として植民地主義国家に抵抗する思潮であり、アジアを見捨ててでも(脱亜)、「入欧」するためには石炭を資源とする工業社会建設が最優先事項であり、軍備を頂点とする機械文明が弥生時代以来の農山漁村の暮しを破壊し、第1次産業従事者(明治初年人口の70%弱)の多くを都市へ吸収することとなりました。自給自足を当然としていた農業従事者が営む農村を文明のヒンターランド(後背地)とする市民社会の出現が、140年を経て今日の核家族、単独世帯の営む刹那主義の都市文明に至るのですが、その間に忘れられてきもの、捨てられてきたもの、とり返しのつかなくなったもの、おそらく日本人であれば、今一度その暮らしの風景の中に身を置きたいと願うものが何かを『逝きし世の面影』が描き出してくださっています。ちなみに、明治7年(1874)のわが国の石炭生産量は21万tで、輸出に12万tを宛てていましたが、明治21年には、石炭産出量は200万tに達しました。
 また、引用文中の岡倉天心(1862—1913)の『東洋の理想―とくに日本美術について』は英文で日露戦争勃発の前年、明治36年(1903)にロンドンで刊行され、大正11年(1922)の日本美術院蔵版『天心全集』の抄訳を邦文の最初とするようですが、「アジアは一つ(Asia is one.)」の有名な書き出しを序文執筆者、ニヴェディタ女史は「大いなる母は永遠に一つであるということを、決定的に証明したのでなかったならば、彼の語ったところはすべて無駄であったのです。」とまるで大東亜戦争の敗戦を予告するような言い方でした。彼女の本名は、マーガレット・E・ノーブルです。

 『逝きし世の面影』の膨大な考証資料については、各章末尾の参考文献を見れば、どれほどの時間と刻苦を要するものかが推察されます。私が全文を読了しましたのは、邦語文献のうち、わずかにゴローヴニンの『日本幽囚記』とモースの『日本その日その日』だけですから、「第一章 ある文明の幻影」から「第十四章 心の垣根」まで、「あとがき」を含めてどれほど感謝してもし足りない内容の豊富さと、そのそれぞれの事物が目に浮かぶほど具体的に描き出されていることに感嘆するばかりです。しかし、渡辺氏は「第一章(序文などはない)、ある文明の幻影」の開巻冒頭「私はいま、日本近代を主人公とする長い物語の発端に立っている。物語はまず、ひとつの文明の滅亡から始まる。」と甘い、ノスタルジックな予想に釘を刺した上で、本書の眼目について記します。

 実は、1回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだった。それは江戸文明とか徳川文明とか俗称されるもので、18世紀初頭に確立し、19世紀を通じて存続した古い日本の生活様式である。明治期の高名なジャパノロジスト、チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 1850~1935)に「あのころ―1750年から1850年ごろ―の社会は何と風変りな、絵のような社会であったことか」と嘆声を発せしめた特異な文明である。文化は滅びないし、ある民族の特性も滅びはしない。それはただ変容するだけだ。滅びるのは文明である。つまり歴史的個性としての生活総体のありようである。ある特定のコスモロジーと価値観によって支えられ、独自の社会構造と習慣と生活様式を具現化し、それらのありかたが自然や生きものとの関係にも及ぶような、そして食器から装身具・玩具にいたる特有の器具類に反映されるような、そういう生活総体を文明と呼ぶならば、18世紀初頭から19世紀にかけて存続したわれわれの祖先の生活は、たしかに文明の名に値した。
 それはいつ死滅したのか。むろんそれは年代を確定できるような問題ではないし、またする必要もない。しかし、その余映は昭和前期においてさえまだかすかに認められたにせよ、明治末期にその滅亡がほぼ確認されていたことは事実である。そして、それを教えてくれるのは実は異邦人観察者の著述なのである。(中略)
 日本近代が前代の文明の滅亡の上にうち立てられたのだという事実を鋭く自覚していたのは、むしろ同時代の異邦人たちである。チェンバレンは1873(明治6)年に来日し、1911(明治44)年に最終的に日本を去った人だが、1905年に書いた『日本事物誌』第5版のための「序論」の中で、次のように述べている。「著者は繰り返し言いたい。古い日本は死んで去ってしまった、そしてその代りに若い日本の世の中になったと」。これはたんに、時代は移ったとか、日本は変ったとかいう意味ではない。彼はひとつの文明が死んだと言っているのだ。だからこそ彼は自著『日本事物誌』のことを、古き日本の「墓碑銘」と呼んだのである。

 長い引用となりましたが、ここには、渡辺氏が全14章とあとがきを通して終始揺らぐことのない思想姿勢をすでに示されています。もし、ここに、引用した結論を虚心に理解することができれば、渡辺氏が発掘された数々の異邦人観察者の記述を読み進めることができ、植民地主義と対峙した日本の近代化が次々と自らの手で亡ぼして行った、私たちの祖先の生活と文明の哀しみを正しく認識するでしょう。このように言ってしまえば、あとは原文をお読みいただくに越したことはないのですが、私の拝読した葦書房の同著が絶版となって5年ほどのちに平凡社ライブラリーとして文庫本が刊行され、すでに初版第39刷を重ねていますから、できればそれを手に取って通読していただくことを期待して、各章の私にとって印象深い内容に限って紹介したいと思います。

 

「第一章 ある文明の幻影」から。

 オールコックにとって、近代西欧文明がアジアの諸文明より「高度ですぐれたもの」であるのは、自明の事柄であった。だが、アジアに対して恩恵をもたらすべき高度な文明に対して、「コーチシナから日本にいたる極東において敵対的な力が作用している」のはなぜであろうか。そう問うて彼は「アジアがしばしば天上のものに霊感を求めたのに対して、われわれが現世の物質的な目的のなかに這いつくばってきた」ことに、その原因を見出す。つまり、その敵対的な力は、「すべてのヨーロッパ民族の物質的な傾向にたいするアジアの根強い無言の抗議」なのである。

 これに対して、『支那のユーモア』の著者、林語堂(Lin Yutang 1895~1976)の言明を引いて渡辺氏は次のようにオールコックの不明を解明します。

 「あなた方は価値を精神的と物質的に分ける。ところが吾々はそれをば一つのものとして混同しているのである。あなた方は同時に精神的であり、また物質的であることはできない。しかし吾々にはそれができるし、何らそこに衝突しなければならないものを感じない。あなた方の精神の故郷は天上にあるが、吾々のは地上にある」。林は何とオールコックの盲点をついていることだろう。まさに精神と物質、天上と地上を分裂させたものこそ西洋近代文明というものだった。オールコックはアジアに天上と魂の平安を、ヨーロッパに地上と物質的進歩を振り分ける。そして、それが彼の自文化すなわち近代西欧文明への反省なのであった。しかし実は、日本を含むアジアの諸文明は、むろん相互の差異を保ちながら、物質的安楽と魂の平安とがまだ分離しない文明的段階にまどろんでいたのである。オールコックたちが遭遇した19世紀中葉の江戸文明はまさにそのような文明だった。

 近代登山の開拓者ウェストン(1861―1940)の『知られざる日本を旅して』(1925年出版)の中で、美しい景観の喪失について語るところを渡辺氏は次のように結論します。

 「素朴で絵のように美しかった」のは何よりもまず、風景のうちに織りなされる生活の意匠であった。その意匠は永遠に亡んだのである。

 1521年コンキスタドール(征服者)エルナン・コルテスはアステカ王国を侵略し、1533年コンキスタドール・フランシスコ・ピサロはインカ帝国を侵略し、やがて滅ぼしました。世界遺産として紹介されるマチュ・ピチュ遺跡を始めコンキスタドールが殺戮の限りを尽くし、文字を持たなかったインカは遺跡として、その文明を今に伝えるのみで、そこに生きて存在した文明は絶滅されました。私は植民地主義の残忍さを19世紀の日本の文明の裏に想像します。

 

「第二章 陽気な人びと」と「第三章 簡素とゆたかさ」から。

 「第二章 陽気な人びと」にも、その56ある注に登場しているオールコックからモースまで25人の著書を丁寧に根気よく読み込まれて、私たちに新鮮な視野を提供してくれています。

 オールコックは封建的日本の忌憚ない批判者であって、日本があたかも楽園であるかのようなイメージが普及していることにつねに苦々しい思いを抱いていた」が、「伊豆地方を訪れたときのことだが、村々のゆたかさと美しさに感動するあまり、”エデンの園”なる形容をうっかり用いてしまっているのだ。」

 といかにも渡辺氏の精緻な考証に思わず笑みがこぼれます。

 私にとって第一義的に意味のある問題は、なぜ彼らの眼に日本が楽園と映ってしまったのかということだ。その理由がひとつには彼らの眼の構造に求められねばならぬのは当然のことだ。だが、それよりも重要なのは、当時の日本がある異形のもの、「楽園」と呼ぶのが妥当であるかどうかは別として、そんなふうにでも呼ばずにはいられない文化的ショックとして、欧米人の眼に現像したという事実のほうなのだ。なぜなら、そのような異質感をもたらした彼我の落差のうちに、彼ら欧米人がすでに突入し、われわれ日本人がやがて参入せねばならなかった近代、つまり工業化社会の人類史に対してはらむ独特な意味が、ゆくりなくも露出し浮上してくるからである。

 しかし、当時の祖先たちはきわめて「陽気な人びと」(第二章)であったことを渡辺氏は指摘しています。

 オズボーンは江戸上陸当日「不機嫌でむっつりした顔にはひとつとて」出会わなかったというが、これはほとんどの欧米人観察者の眼にとまった当時の人びとの特徴だった。ボーヴォワルはいう。「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」。「日本人ほど愉快になり易い人種は殆どあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように、笑い始めたとなると、理由もなく笑い続けるのである」というのはリンダウ(Rudolph Lindou 1830~1910)だ。

 「素朴で絵のように美しかった」(ウェストン)日本に暮らしていた祖先たちは、「笑い上戸で心の底まで陽気である」(ボーヴォワル)と見られ(第二章)、その楽園の実態については、第三章で次のように語られます。

 われわれはいまこそ、なぜチェンバレンが日本には「貧乏人は存在するが、貧困なものは存在しない」と言ったのか、その理由を理解することができる。衆目が認めた日本人の表情に浮ぶ幸福感は、当時の日本が自然環境との交わり、人びとの相互の交わりという点で自由と自立を保証する社会だったことに由来する。浜辺は彼ら自身の浜辺であり、海のもたらす恵みは寡婦も老人も含めて彼ら共同のものであった。イヴァン・イリイチのいう社会的な「共有地」(コモンズ)、すなわち人びとが自立した生を共に生きるための交わりの空間は、貧しいものも含めて、地域のすべての人びとに開かれていたのである。

 その残影は昭和30年(1955)頃の瀬戸内海の東の端の村での地曳網(じびきあみ)で見られました。宇治田一也先生が無期限ハンストを宣言し、33日間の和歌山県への海面埋立て中止の抗議をなした心の底には、このふるさとの海(二里ヶ浜海水浴場)の保全のために人柱となる覚悟をされてのことでした。老若男女の村人たちに混って、曳綱のごく端っこに触れていただけの小児にも、美しい青いはさみのガザミを二匹、三匹とバケツに入れてくれました。
 昭和36年(1961)に石油コンビナート設立認可が決定され、高度成長経済政策によって海岸が埋立てられて工場が建設されて行くことに抵抗して、兵庫県高砂市の高崎裕士氏たちが主張した「入浜権(いりはまけん)宣言」(昭和50年2月21日)は次のような内容です。

 古来、海は万民のものであり、海浜に出て散策し、景観を楽しみ、魚を釣り、泳ぎ、あるいは汐を汲み、流木を集め、貝を掘り、のりを摘むなど生活の糧を得ることは、地域住民の保有する法以前の権利であった。また海岸の防風林には入会権も存在していたと思われる。われわれは、これらを含め「入浜権」と名づけよう。(中略)われわれは、公害を絶滅し、自然環境を破壊から守り、あるいは自然を回復させる運動の一環として、「入浜権」を保有することをここに宣言する。

 瀬戸内工業地域と呼ばれるコンビナート群は、やがてすべて廃墟となり、その処分に子孫たちは、苦慮するばかりではなく、その間に破壊された瀬戸内海の生物環境が回復することはないでしょう。終末植民地主義の成果は、このように未来を植民地として子孫が享受すべき富を奪うところにあります。なお、イヴァン・イリイチ著『コンヴィヴィアリティのための道具』が渡辺京二・渡辺梨佐共訳で平成元年(1989)に日本エディタースクール出版部から刊行されています。
 また、植民地主義者が全く侵略に対して罪悪感を覚えていないことが紹介されています。

 オールコックが「あらゆる物が朽ちつつある中国」と言うのも、彼が中国で各地の領事を歴任したのが、阿片戦争直後から太平天国の乱のさなかにかけてでのことであることを考慮すれば、何の不思議もないことになる。ボーヴォワルは「石ころを投げ、熊手を振るってわれわれを殴り殺そうとした」中国人民衆を、「この地球上で最も温和で礼儀正しい住民」である日本人と比較するが、そういう中国民衆の反応は彼ら自身の侵入が招いたのだということにいささかも気づこうとしない。

 植民地主義者の脳裏には、侵略・略奪といった罪の意識は捜しても見つからないということです。インカ帝国等を次々と征服していったコンキスタドールにも同様の残忍さがありますが、彼らに殺戮や略奪を犯しても悔いないという信念を与えていたのは、旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の宣教師や伝道師ではなかったでしょうか。『協会と人種主義』(1990年、カトリック中央協議会発行)の「福音宣教活動と区別すべき植民地的帝国主義」の項で、

 原住民への尊敬を深めることにいつも関心をはらっていた教皇庁は、再三にわたり、とかく混同されやすい福音宣教の仕事と植民地的帝国主義とを注意深く区別しなければならないと主張してきました。

 と述べ、16世紀には、布教聖省(現在、福音宣教省)を設置したり、「教会の態度を明確にする指針を発表し」たりして、宣教が植民地主義と混同されないよう努めてきたと言うのでしょうが、大虐殺(ホロコースト)と指弾されかねないコンキスタドールの所業や北米のインディオ(インディアン)殺戮が非キリスト者によって行われたとでも言い縫うのでしょうか。カトリックに限らず教会には日誌が綴られていると側聞しますから、16世紀から20世紀までの「植民地的帝国主義」が原住民に対してなした記録を人種主義(Racism)に限らず調査して公刊してほしいと願っています。

(令和2年8月2日記)

funpun・yawa
mudou raisei
vol.9-4



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