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魂の行方、国の行末 無動来西

分分夜話 第8話

無動 来西

  環境問題への視座、子孫たちのための

  (2)石油文明も植民地主義

 かつて中学校の英語教科書に植民地主義とは何かを端的に教えてくれる一文がありました。

In 1532 the Inca was conquered by only 180 Spanish people.

 西暦1532年(天文元年)、インカ帝国はたった180人のスペイン人によって征服された、と和訳されます。15世紀のルネッサンス期に西欧の三大発明と称される火薬、羅針盤、活版印刷技術が侵略の道具でした。支那で使われていた”三大発明”は武器、侵略の手段にはなりませんでしたが、ヨーロッパへ移入されるとそれらは有色人種を征服するために活用されました。火薬は大砲や鉄砲などの兵器を発達せしめ、羅針盤(compass)は遠洋航海を可能にし、軍隊を送り込む艦船の進路測定を確実なものにし、わずかな兵力でアジア、アフリカ、アメリカ諸大陸の有色人民族、有色人国家を征服する手段となりました。印刷技術によって聖書を大量に作成し、キリスト教を布教し、現地の農産物を始めとするあらゆる富を奪われた者を改宗させることに成功しました。精神的にも支配することによって、白人の植民地主義者、つまり大英帝国を始めとする西欧は三大大陸を支配下に置きました。
 16世紀から20世紀まで続いたフランス植民地帝国(Empire colonial français)は本国の政体が、王政、帝政、共和政と関わりなく”帝国”であり続け、アジア、アフリカ、北アメリカ等の植民地から奴隷を含めてあらゆる富を奪い、ヴェルサイユ宮殿やブルボン王朝に象徴される豪奢の文明を謳歌しました。
 イギリスではヴィクトリア朝時代と呼ばれる19世紀から20世紀にかけてヴィクトリアン様式を誇り、ウェストミンスター宮殿など豪華な建築が競うように建てられました。それらを支え続けていたのは、フランスと同様に三大陸の植民地からの奴隷と富でした。ヴィクトリア女王(1819~1901)はイギリス女王であると同時にインド女帝でもありました。イギリス東インド会社による征服の始まりから数えると300年以上もの長期間を経てインドは独立を果たしました。
 スペインを始め西欧各国もまた植民地主義による近代の繁栄を謳歌した結果、20世紀初頭には関税自主権を有し、治外法権を認めない独立国家が、アジア、アフリカに日本を除いていくつあったでしょうか。明治37年(1904)2月にロシアと開戦し、翌年9月、ポーツマス条約によって講和に至った日露戦争は、有色人種が初めて白人に勝利した戦争でした。
 しかし、アジアは西欧に蚕食されたままで、インドを始め独立を求める国々も白人の強いる桎梏に喘ぎつづけており、わが国の独立とていつ西欧列強に脅かされるか分からないのが20世紀前半の世界情勢でした。わが国が昭和16年(1941)12月8日から昭和20年(1945)8月15日までアメリカ、イギリス等連合国と戦った大東亜戦争は、アメリカ側の呼称 Pacific War(太平洋戦争)に変更され、今日に至っています。それはGHQ(連合国最高司令官総司令部)の指示によることでした。大東亜の東亜はアジア州の東部という意味ですから、大東亜は恐らく大アジアというほどの考えで、大洋州の一部を含んでいたと思われます。同大戦の目標に掲げられた大東亜共栄圏建設の構想は、アジアから白人支配を一掃し、独立を果たし得た国家が提携して、互恵的経済発展を目指そうとしたものですが、戦後、これもGHQの指導に便乗したマスコミ、教育関係者、政財界人等々、昭和20年8月15日以前の全ての国内の思想、言論を否定する人々の手で、”国民は騙されていた”ことが常識化されてきました。つまり、白人からアジアを解放する聖戦であると私の両親たちは信じて外地へ出征し、国内で銃後の守りに着いていたのは、国家が戦争を遂行するために国民を騙していたと教わってきたのです、学校でも社会でも。私は10代の頃から”騙されていて良かったのではないか”と内心思いつづけていました。たといアジア解放が虚言であったとしても、一身を捨ててでもアジア解放のために戦ったのであれば、私はそれを誇りとすると50年以上も言いつづけ、考えつづけてきました。むしろ、領土的野心に駆られて、あるいは他国の富を奪うために戦ったと父母から告げられたとすれば、これほど身の置き所のない、恥しいことはないと思うのです。戦前であれ、戦後であれ、戦争を否定する姿勢は正しいことですが、戦争をするしか国際間の紛争を解決する方法がなかったとすれば、その時自分自身はどのように身を処するでしょうか。
 ともあれ、いまだ大東亜戦争の歴史的評価は定まっていません。『国史大辞典』(全14巻、昭和62年、吉川弘文館刊)の「大東亜共栄圏」の項の末尾を引用して、私の考えの一端を示したいと思います。

 日本の「大アジア主義」的な呼びかけに聞く耳を持たなかったフィリピンはもとより、はじめは日本軍を解放軍として迎えたビルマやインドネシアにも戦争末期には、もう1つの植民地国たる日本への反乱が起った。しかしそのフィリピンでも日本軍政下で奨励されたタガログ語は、民族意識の覚醒に力を与えたし、植民地の回復を戦争目的として戦った英・仏・蘭も、戦後に、その目的を達成することはできなかった。
 戦時中に、ビルマの国家元首となったバモーは、戦後「日本のしたことは、悲劇としか言いようがない」といい、「白人の支配からアジアを解放するために、これほどのことをした民族」が他にあったろうかと問い、しかし「こんなにも誤解された国民も少ない」と記した。「大東亜戦争」の本質に鋭く触れる言葉といえるだろう。

 昭和20年8月15日、終戦となり、外地から多くの人々が引き上げてくることになりました。叔父は南方戦線から帰国の途に着きましたが、昭和21年2月22日、カロリン湾上で病没(戦病死)し、水葬されました。遺骨も遺髪も、そして遺品すらも遺族には届きませんでした。遺児となった従兄は道端に足を投げ出して、空き缶を前に置いている傷痍軍人を見かけると必ず、なけなしの小遣いをその缶に入れました。すべての遺族は悲惨な酷い事態を受け入れてきた上に、分分夜話第4話に記しました広島、長崎への原爆投下、そして東京を始めとする空襲といった、アメリカの無差別殺戮(ホロコースト)を思うとき、誰しも戦争反対、非戦への誓いを新たにすることでしょう。しかし、西欧の格言に「風呂の湯と一緒に赤子を捨てるな」とあるように、大東亜戦争や戦前戦中といった言葉を聞いただけで当時のあらゆる価値観まで否定してしまう態度を取りつづけていてよいものでしょうか。国家の独立、国民の安寧、そしてアジアの独立と平和を願って戦った300万人とも言われる殉国殉難者に敬意を表することまで否定してよいものでしょうか。

 終戦後の私どもの父母は、焼跡闇市の貧困から少しでも豊かな生活を実現しようと、文字通り必死で働き、戦前には想像できなかった工業社会の繁栄を築いてきました。私なりにごく簡略に戦後史を記します。

 [昭和21年(1946)]5月、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷(~昭和23年11月閉廷、本稿末の補注参考)。11月3日、日本国憲法公布(翌年5月3日施行)。
 [昭和25年(1950)]6月、朝鮮戦争勃発(昭和28年7月、休戦)。国連軍の兵站地となり、その特需が好景気をもたらした。
 [昭和26年(1951)]9月、サンフランシスコ平和条約に調印、日米安全保障条約締結。NHK・民間テレビ放送開始。
 [昭和29年(1954)]3月、第5福竜丸、ビキニ被曝事件。
 [昭和31年(1956)]8月、経済白書は「もはや戦後ではない」と述べ、世間はこの好況を神武景気と称し、マスコミは洗濯機・冷蔵庫・掃除機を3種の神器ともてはやした。
 [昭和33年(1958)]、洗濯機・冷蔵庫・テレビが新しい3種の神器ともてはやされ、クレジット販売が盛んになる。
 [昭和34年(1959)]、岩戸景気と呼ばれる好況のうちに技術革新と消費革命が進む。4月、皇太子殿下(現上皇陛下)御成婚パレードのテレビ中継。マイカー元年。三池争議が始まる。

 アメリカによる原子爆弾投下と東京を始めとする空襲は、一般市民を大量に無差別に殺戮する(ホロコースト)ものでした。この兵士以外の一般国民を殺戮することによって、大東亜戦争は終結し、5年間の占領期間を経て、経済最優先の政策が次々と実施され、昭和35年には、池田勇人内閣が国民所得倍増計画を決定し、翌年には石油コンビナート設立認可をも決定しました。
 戦後が終ったのは、昭和34年だと私は考えています。その理由は明治維新後のわが国の近代化を支えてきた所謂エネルギー資源が石炭から石油に切り換わって行く年だからです。石炭はわが国では自給でき、多くの労働者が生産に携わる資源でしたが、石油はオイルメジャーに支配される資源ですから、わが国のように極端に短時間で石炭から石油へと切り換えを行うためには、豊かさの実現、例えば所得倍増のようなスローガンが必要でした。戦前から食うや食わずの暮らしを送ってきた多くの国民は、後にエコノミックアニマルと揶揄されるように、高度工業社会実現こそが豊かさを獲得する道だと信じました。しかし、この方向性には2つの負の面がありました。
 石油を大量に投入しつづけることによって、産業は拡大され、昭和43年(1968)には、GNPで自由世界第2位となりました。と同時に、環境破壊が日一日と深刻化してきました。昭和39年には産業事故が多発し、東京砂漠の語も生まれ、昭和41年には交通戦争の語が使われ、カラーテレビ、カー、クーラーの3C時代と喧伝されました。昭和43年には、富山県のイタイイタイ病、熊本県の水俣病、新潟県の阿賀野川水銀中毒が、公害病と認定され、ようやく”公害”の語が一般化しました。仮に戦後の工業社会を営むことを前提とする文化を石油文明と呼ぶならば、石油文明の豊かさを享受する反面には、環境破壊と環境汚染が必ず出現しています。人にとって負の価値と見なされる公害だけを石油文明から取り除くことはできません。と同時に、人にとって有用とされるものだけを消費しつづけることはできないと資源物理学やエントロピー論が教えてくれます。
 今ひとつの負の面は、刹那主義、刹那的な快楽主義を戦後肯定しつづけてきた結果、近代以前の精神文化といよいよ疎遠になってきました。一例を挙げれば、他人(ひと)の不幸や死に対してほとんど無関心になってきたことです。
 昭和60年(1985)8月12日、羽田空港発・日本航空123便が群馬県の御巣鷹山の尾根に墜落するという悲惨な事故が起こりました。死者520人、生存者4人と報道され、その後、毎年”日航ジャンボ機墜落事故”を痛み、慰霊の行事が続けられています。故人を偲び、故人を忘れることはしないとの思いが伝えられます。しかし、わが国では、500人乗りのジャンボ機が毎年6機以上墜落しています。交通事故後24時間以内に亡くなると事故死と認定され、統計のある昭和23年以来平成30年までの交通事故死は60万人をはるかに越え、広島・長崎で原爆死された約20万人の3倍以上の死者を見てきています。昭和55年(1980)、自動車の生産台数は1104万余台となり、米国を抜き、世界第1位となり、わが国の高度工業社会の経済成長を自動車産業が牽引するかに思われました。同年の交通事故死者数は8760人でしたが、誰もジャンボ機が17機墜落したとは考えませんでした。目の前の豊かさを失いたくないと考えるあまり、多くの人々にとって事故死は他人事(ひとごと)でありつづけてきました。交通事故死に象徴されるような、自分自身に拘りがないと自然に考えてしまう無関心の精神状態が工業社会の繁栄の裏側です。
 多くの不幸な人の死に対して無関心であることは、環境破壊や環境汚染に鈍感な人を作ります。現代のいくつかの豊かさへの断念を恐れるあまり、ヒトも種(しゅ)であり、そのかたわらには無数の生物種の存在があることを忘れます、これを刹那主義と言います。
 痛みや悲しみをわがことのように感じ、なることなら、代ってあげたいと思うような純情をこの70年間、「風呂の湯」(大東亜戦争)と一緒に「赤子」(道義)を捨ててきたと思います。このような精神傾向の最たるものが、拉致被害者とその家族への連帯感喪失です。誘拐事件が発生するとマスコミは解決されるまで連日報道しつづけるでしょうが、40年経っても、拉致の大罪は思い出したようにしか報道されません。国民からの視聴料徴収で経営されているNHKは、マスコミ各社に率先して日々、拉致問題の未解決を報道すべきです。わが国が拉致の大罪を許さないという姿勢を毎日訴えることが、膠着した現状を打ち破るための絶対的優先事項です。しかし、NHKは国際問題を取り上げる番組を毎週放映しますが、拉致被害の残酷を訴えることには全く消極的です。ただ、この消極的態度を許してきたのも多くの国民です。便利で豊かな日々の暮らしが維持されればよいとする刹那主義が、悲惨な現実から目を逸らすことになり、無関心を常識の如く錯覚してしまいます。
 環境問題を考えるのは、それが50年先か100年先かの子孫に思いを馳せることが前提です。公害や環境汚染、また環境破壊を可能な限り残さず、少しでも自然との共生を実感できる文明を築くために今こそ何をなすべきなのでしょうか。
 文化的な成熟を達成していた時代、例えば、E・S・モースが『日本その日その日』で称賛した自然との共生を果たしていた江戸時代から学ぶことはいくつもあります。ただ、江戸時代へ回帰することはできませんから、江戸時代の士農工商といった身分制など現代から見て負の要素を取り除いたところに現われる江戸時代の環境と精神文化を再評価することは将来のために役立つと思われます。
 今ひとつは、現代を相似形に縮小することが多分できないとすれば、電化製品などがすでに登場していた昭和初期の生活様式に学ぶことはあるだろうと考えられます。その頃の東京は真夏でも30℃を越える日は2日か3日でした。夕涼みが当り前の風景でした。いずれにしても、現在の豊かさをそのまま享受し続けることは、環境上きわめて危険な日を遠からず迎えることになると『西暦2000年の地球』、つまり”21世紀の予測”は警告しています。
 環境問題は個別の手法では根本的な改善を見ることはできませんが、いかに基本的な思考をすべきかということは、次の宮脇昭先生の言葉から学ぶべきだと思われます。

 1971年、植生と環境破壊についての、国際シンポジウムが、ドイツのリンテルンであった。3日3晩にわたって、世界22ヵ国の学者が、さまざまな新しい研究成果を発表した。最後に、戦争中に一時日本にも住んでいたことのある前述のマックス・プランク研究所のG・シュワーベ博士が次のような発言でしめくくった。
 「今までの多くの新しい研究発表は、確かに部分的、刹那的には、自然破壊、公害に対応できるが、それだけでは不充分である。われわれ人類がこの地球の上でさらに生きのびるためには、東洋のある島国が知ってか知らずか、2000年このかた、ふるさとの森をつくり、残し、守り、本物の自然と共存して、絶えず着実に国有の文化を発展させてきた。あの島国のあの民族の英知に学ぶべきである」と。一瞬国際会議場は、しんと静まり、期せずして参会者の視線が出席していた私に集中した。私は赤面せざるを得なかった。
 その島国の民族たるわれわれは、いつの時代から、ふるさとの自然の緑を見る目を失い、自然の許容限界を越えたような画一化、貧化に、あるいは砂漠に行きつかねないような、いわゆる新しい産業立地や都市づくりに、かくも狂奔しはじめたのであろうか。(『生きものの条件』宮脇昭著、昭和51年柏樹社刊)

 ふるさとの森は、鎮守(ちんじゅ)の森のことで、そこにはその地域特有の植物生態が残されていること、そしてそれは日本人の神社に対する信仰と郷土文化に育まれてきた謙虚な考えに守られてきたものであることを宮脇先生は教えてくださいました。平成8年(1996)3月、「神道とエコロジー」のシンポジウムに、ハーバード大学が、宮脇昭先生や富山和子先生たちとともに私をも招聘してくださり、私は「弥生文化の遺伝子(伊勢神宮の存在理由)」と題して講演させて頂きました。

 参考
1).『ビルマの夜明け』、バー・モウ著、横堀洋一訳、昭和48年、太陽出版刊。
2).『アジアに生きる大東亜戦争』、田中正明、難波江通泰等共著、昭和63年、展転社刊。
3).「戦争犯罪人」(国史大辞典、吉川弘文館刊、全14巻から一部抄出)
 A級戦犯が、東京市谷の極東国際軍事法廷で裁かれたのに対し、BC級戦犯は、東京・横浜のほか、上海・マニラ・シンガポールなど、第二次世界大戦の戦場となった各地の軍事法廷で裁かれ、日本側の記録によれば、米・英・仏・中国(国民政府)・オランダ・オーストラリア・フィリピンの計7ヵ国により、5千数百名が有罪を宣告され、うち937名が死刑に処された(これらの数字は、ソ連および中共軍による日本人戦犯裁判を含まず、その詳細は現在も不明な部分がある)。

4).講談社学術文庫には、東京裁判を含め戦犯とする国際法上の違法性について、次の書が刊行されている。
 ①共同研究・パル判決書(上)(下)
 ②『東京裁判を問う』、細谷千博他共著
 ③『東京裁判・日本の弁明』、小堀桂一郎編

(令和2年5月18日記)

funpun・yawa
mudou raisei
vol.8

 



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