分分夜話 第6話
無動 来西
上代の祈りは“神を祈る”
(1)呪い[ひ]=宣(の)ろい[ひ]
草木も眠る丑三(うしみ)つ時(どき)、とある神社の参道を素足で歩く嫁御(よめご)は三十路半(みそじなか)ばか、目尻がつり上がり、思い詰めた顔色は青白く(?)、左手に藁人形(わらにんぎょう)の祈首(いのりくび)と五寸の祈釘(いのりくぎ)、右手に玄能(げんのう)を握りしめ、といった光景はモノクロ映画を100円の入場料で見た50年以上も昔の思い出です。このように恨みある相手に災難が起こるように神仏に祈願する行為を「呪(のろ)う[ふ]」といいますが、この語は「宣(の)る」に反復・継続の助動詞「う[ふ]」が付いて転じたものです。宣るは今は全く使われなくなった語で、わずかに「名告る」の形でしか残っていないとするのが通説ですが、神社では日常的に使っている「祝詞(のりと)」の語の「宣(の)り」も宣るの連用形ですから少し説明をします。
『延喜式』(古代の法律体系)などに見える祝詞の語は、最も丁重な表現をとるとき、「天(あま)つ祝詞(のりと)の太祝詞言(ふとのりとごと)」と神々に奏上されましたが、今も神社では使われる語です。この表現について明確な見解を示したのは折口信夫(おりくちしのぶ)で、「天つ祝詞」は“神聖な宣(の)り処(と)”の意味であり、その場所(と)で唱えることばが“宣(の)り処言(とごと)”であると言うのです。「宣る」の原義は“神や天皇がその神聖な意向を表明すること”にありますから“宣り処”説は正しいと思われます。おそらくその座(ざ)は一段高くしつらえたもので、臣下たちによく聞こえるように配置されたことと考えられます。ノリトゴトがつづまってノリト(祝詞)と一般に使われるようになりました。ちなみに「詔(しょう)」は「御言宣(みことの)り」の意味で天皇の命令を伝える文書の一形式ですが、漢文体のものを詔書(しょうしょ)、和文体のものを宣命(せんみょう)と言います。
境内の木に藁人形を五寸釘で打ちつける呪いの行為は効果があったのでしょうか。民俗学の柳田國男はどの村にもいた長老的存在、老農の役割を指摘しています。思い悩んだ末に嫁御が五寸釘を打つのは、恐らくその村内に嫁姑の不和などのうわさが立っていることが背景にありましたから、温厚篤実な老農がそれとなく、身内の人たちを傷つけることなく治めようとしたのだろうと言うのです。村は神社を核とする共同体ですから、呪う場も救済する契機も神社にあったと考えられます。
(2)祈り=斎(い)宣(の)り
伊勢の神宮の古い職掌に物忌(ものいみ)という童子の役割があり、今も神田下種祭(しんでんげしゅさい)や式年遷宮の山口祭、鎮地祭(ちんちさい)などにその奉仕が見られます。物忌(ものいみ)の子は十歳前後の童女が本来の姿ですが、童男の奉仕も近世には見られます。その職名は“ものを忌む”ところから発生したもので、世俗的なことから身を遠ざけて潔斎(けっさい)しながらお祭りにのぞみ、神霊(かみ)に最も近づいて奉仕しますから、大層重要な職です。この忌(い)むという行為の“い”は神聖であること、清らかであることを原義とし、“む”は恨(うら)む、嫉(そね)むの“む”と同様、心情を表す活用語尾と考えられます。また、忌(い)むは斎(い)むとも表記しますから、上代語からいくつか拾ってみます。
①忌籬(いかき、斎垣とも)
②斎串(いくし)
③斎杭(いくい[ひ])
④斎槻(いつき)
①は神宮の瑞垣(みづかき)と同様、神聖なものを祭りこめたまわりの垣です。②は神霊を招来するためにサカキなどの常緑樹に木綿垂(ゆうしで、コウゾなどの白い繊維の糸)を付けたもので、式年遷宮の遷御(せんぎょ)の儀などでは太玉串(ふとたまくし)と呼ばれ、神霊を囲うように地面に刺し立てるものです。③は神霊を招来するために地中や川中に打ちこむ神聖な杭のことです。④は神霊が宿るほどに枝葉の繁茂した槻(つき)の木のことです。
イ・ノリのイには神聖かつ清浄であることの原義に加えて、今見たように神霊がそこにましますとの意味もあるようです。ノリの宣(の)るが大きな声で告げることを考慮すると祈る行為は、大声で神の名を告げることにほかならならないようです。
(3)神を祈る
神の名を告げることは神の出現を意味することでしたから、よほどのことでない限り祈る行為はつつしまなければなりませんでした。それは国民の誰一人として神を奉じて生きていない者はいないという、二千年か数千年かかけてひさしく培われてきた精神伝統の中での行為であるからです。願うところが成就するように常には口に出さないことを神の前に祈る歌を『万葉集』からいくつか拾ってみます。
㋑海神(わたつみ)の いづれの神を 祈(いの)らばか
行(ゆ)くさも来(く)さも 船の早けむ(1784)
㋺天地(あめつち)の 神を祈りて 我(あ)が恋ふる
君い必ず 逢(あ)はざらめやも(3287)
㋩霰(あられ)降り 鹿島(かしま)の神を 祈りつつ
皇御軍士(すめらみくさ)に我(われ)は来(き)にしを
(4370)
㋥天地の 神を祈りて さつ矢(や)貫(ぬ)き
筑紫(つくし)の島を さして行く 我(われ)は(4374)
㋭天地(あめつし)の いづれの神を 祈らばか
愛(うつく)し母(はは)にまた言問(ことと)はむ(4392)
㋺の恋に悩んだはての歌はともかく、㋑の遣唐使に贈った歌、㋩㋥㋭の防人の歌はその切迫感が『万葉集』を支えているひとつの基調でしょう。なお、㋑の原文には「斎祈者歟(いのらばか)」とあるのは斎宣(いの)りの意義そのものです。二度と神の名を告げることはしないというほどの決心をして祈った人々は、“神を祈る”のであって、“神に祈る”のではありませんでした。月光(つきかげ)のすずしさに、草木のさやぎに神霊(かみ)を感じていた人々は、神の名を声高く唱えて自分自身の生きゆく道を歩いて行ったのでしょう。“神仏に祈る”ことが一般となってきた平安時代以後、いつの間にか私たちは“神を祈る”精神軸を失いかけているのかもしれません。神霊(かみ)のはたらきを心澄ませて信じていた上代の人々の祈りを今一度、考えてみるべきときではないでしょうか。信じるというのは、一点の疑いもないということです。
(令和2年2月25日記)
funpun・yawa
mudou raisei
vol.6
