分分夜話 第5話
無動 来西
タマとタマシイ[ヒ]
もの思へば沢の蛍もわが身より
あくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る (後拾遺集)
千年の昔、平安時代中期を代表する歌人、和泉式部(いずみしきぶ)の和歌(短歌)です。洛北鞍馬(くらま)村の貴船社に詣でた式部の前には、「みたらし河」の沢に無数の蛍の乱舞がくり広げられていました。苦しく切ない恋に悩みつづける式部には、その蛍の光の点滅が自身の体内から浮かび上がってくる(あくがるる)魂(たま)の如くに感じられました。体内からタマが出て行ってしまうと、人は死ぬと信じられていましたから、その恋は死ぬほどの遣(や)る瀬無いものでした。すると、貴船明神が男の声で式部に歌を返してくださったのです。
奥山にたぎりて落つる瀧つ瀬の
たまちるばかりものな思ひそ
奥山の激しく落ちる瀧に飛び散る水玉のように、心を千々に乱してもの思い(恋)をしてはいけませんよ、と貴船明神が式部を慰めてくださったというのです。これほどなつかしく勇気を与えてくれる歌の力がわが国の文学史には流れています。つぎに、和泉式部より数十年は昔の万葉集の恋の歌。
魂[たましひ]は朝夕[あしたゆふへ]に賜(たま)ふれど
我(あ)が胸痛し恋の繁(しげ)きに
中臣宅守(なかとみのやかもり)が越前(えちぜん)の国に配流となり、その妻狭野弟上娘子(さののおとがみおとめ)は京都に残ることとなり、夫婦は別離の悲しみをこもごも63首の歌に詠みました。この妻の歌の意味は、お気持は朝夕いつも身に感じていますが、私の胸は痛くてなりません、恋の思いがつのってくるので、ということでしょう。
式部の歌のタマとここのタマシイ[ヒ]はどこが違うのでしょうか。おそらく10世紀にはすでにその意味の違いはほとんど分からなくなっていたと思われます。現代の人々がタマシイは不滅だ、などと言うのは千年にわたる誤解のひとつかもしれません。タマシイ[ヒ]のシイ[ヒ]が問題で、漢字を当てれば「癈う[ふ]」という動詞があり、その連用形が「しい[ひ]」です。目が見えなくなることを「目しい[ひ]」、耳が聞こえなくなることを「耳しい」、鼻がきかなくなることを「鼻しい」と古代では言っていました。つまり、タマが弱々しくなり、生命を支えるタマの力を失ってしまう状態がタマシイ[ヒ]でした。また、びっくり仰天することを魂消るというのは、大切なタマが体内から飛び出てしまうほどの衝撃を意味します。
タマとタマシイが混同される契機になったのは、おそらく6世紀以来の仏教の霊魂観がわが国固有の文化に大きな影響を与えつづけてきた結果のひとつと思われます。そのころ神(かみ)の意味も少し変化してきました。例えば、大国魂(玉、タマ)の神という神名は、今では何の不自然さも感じられないでしょうが、実はタマ(魂・玉)自体が神(かみ)と同様、畏怖される対象を意味することばでした。つまり、大国魂の神は、単に大国魂と呼ばれることで十分に尊崇される神格でした。「の神」はのちに加えられた尊称です。このように奈良時代までの言語の原義を探ることが、わが国の文化の基層となってきた意義を知ることにつながります。
タマとタマシイの区別が分からなくなって5百年以上も経った室町時代には、「一寸の虫にも五分の魂(タマシイ)」のことわざが登場していますが、それはこの世の命あるものすべてに魂(たましい)はあると誰もが信じていたことをも物語っています。人には人魂(ひとだま)が納まっていると考えることと他の生物すべてに魂(たましい)が備わっていると信じることは、仏教等外来の文化の影響を受ける以前の国民の常識でした。この古代日本人の祖先観や霊魂観がやがて、最澄や空海のもたらした仏教をも日本型仏教へと変化発達させて行くことになります。
その端的な実例が、盂蘭盆(うらぼん)、お盆の行事に見られます。梵語(ぼんご)ullambanaの音写が“うらぼん”です。漢訳では倒懸と書かれ、倒(さか)さに吊るされるような非常な苦しみを死者が受けていることを救うために供養すると説かれます。仏教では迷いと悟りの世界を10種に分け、地獄界・餓飢界・畜生界・阿修羅界・人間界・天上界の6界が凡夫の迷いの世界、つまり死後に趣くところとされます。凡夫はこの六道(迷界)を輪廻転生(りんねてんしょう)すると説かれます。あとの4界は聖者の行く悟りの世界で、六道の世界から凡夫が救済されるためには死者自身の解脱(げだつ)が必要とも言われます。
私たちの祖先はほとんどが凡夫の生涯を送った人々です。お盆になって、子孫が魂迎えに来たからと言って、六道を去って子孫の家にやって来ることは本来の仏教の考えではあり得ないことです。また、お盆が終るとき、魂送りの行事を行いますが、送られた祖先の御霊(みたま、御魂)は六道の迷界へもどるのではなく、おそらく草葉の陰のごとく子孫たちを見守ることのできる近くの山などに帰って行ったと考えられます。お盆はわが国固有の霊魂観の上に仏教が荘厳な儀式を加えて続けられてきた結果、仏教自体が伝来当初の教義を日本型に変質させてきたと見られます。
わが国の霊魂観を考えるときには、仏教を代表とする外来の文化的影響を受けていないと見なされる国語にたよって調べることが重要です。この半世紀ほどの間に人文系で目を見張る研究成果を示してきたことのひとつは、上代語に関するものです。一般的に推古朝から奈良時代の終わるころまでの国語を上代語とします。日本書紀、古事記、万葉集、風土記などに記される上代語がほぼ同じ発音で今もその意味を私たちに伝えてくれます。
タマとタマシイの意味を考えるためには、臨終をめぐる上代のことばをいくつか見てみることが有効かと思います。
タマが弱り、タマシイの状態に陥り、体からタマが出て行ってしまうと死がやって来たと考えました。カラダのカラは抜け殻のカラと同じくタマの容器、タマの入れ物と信じられていました。死体のことを亡骸(なきがら)と言うのは、タマが出て行ってしまって、“タマ無き殻”になってしまったと考えたからです。この臨終に際して上代の人々は、魂呼(たまよび)を行いました。臨終もしくは死の直後、その人の名を大声で呼んで蘇らそうとしました。今でも儀礼的に行っているところがあるかもしれません。魂呼びをするのは、タマがもとのカラにもどってくれると生き返ると考えたからです。土地によっては通夜の夜に親族友人が集まって、にぎやかに棺(ひつぎ)の前で飲食する習慣があるのは、おそらく上代の魂呼の名残りかと思います。
魂呼はタマヨバイ[ヒ]とも言う上代語です。タマヨバイは漢字をあてると、喚魂、魂呼、そして招魂と書き、死者の魂を呼びもどすこととそのお祭りを意味します。タマヨバイの語の説明の前にお祭りの語の説明を簡略にします。江戸時代の旅行案内の書には、お祭りのことを如在之礼と書いている点が注目されます。如在(にょざい)の礼とは『論語』の八佾篇(はついつへん)に見える語です。
祭如在、祭神如神在
幸田露伴の注釈を引用します。「祭ることは在(います)が如くすとは、祖先を祭るに当って、祖先ここに在すが如くにする也(なり)、誠敬恭粛(せいけいきょうしゅく)を極むるをいう。神を祭ることを神在すが如くすとは、名山大川社稷(しゃしょく)を祭るに当って、其(そ)の神明ここに在すが如くにするをいう」と説かれます。目の前に祖先が、あるいは神がましますように心得て、誠実に慎しみ深くお祭りをすることを孔子は教えました。お祭りの祭式や作法を学ぶときの基本的考えとしてわが国でも取り入れられてきました。ただし、国語の祭るという意味の原義は、「たてまつる(奉る)」ことにあります。海川山野の幸(さち)を横山のごとくお供えすることだけではなく、たのしく舞や楽を奏でて祖先や神を慰め申し上げることなど、具体的に何かを奉る行為こそがわが国のお祭りの原点です。
つぎに、タマヨバイ[ヒ]について考えたいと思います。このことばを最も精確に漢字表記しているのは、招魂です。呼べばやって来てくれるタマはほとんどの場合、祖先のミタマ(御霊)ですが、幕末から明治維新にかけて、「憂国殉難の志士の忠節を嘉尚あらせられ」(神道大辞典)、つまり明治天皇の思召をたまわり、戦死の各藩士を各地の招魂場でお祭りすることが始まりました。招魂場はやがて整備され招魂社という神社へ向かうことになります。この間の歴史的変遷等については、神社本庁編『靖国神社』を始め多くの著作がなされていますので、今は、小学館の『日本国語大辞典』の「招魂社」の項を参考にしたいと思います。
靖国神社および護国神社の旧称。江戸末期から明治維新前後にかけて、国事に殉難した人士の霊魂をまつった各地の招魂場を改称したもの。明治元年(1868)に京都の東山に殉難の諸士を合祀したのを、翌年6月、東京九段坂上に仮神殿を造建して東京招魂社と改称し、同12年になって靖国神社と改称。また、地方のものは、昭和14年(1939)3月、護国神社と改められた。
人の体内には必ず魂(たま)が納まっており、病気や怪我などで健全な血流でなくなってくるとタマシイ[ヒ]の状態に陥り、時に臨終に至ります。その時、魂呼(たまよび)や招魂(たまよばい[ひ])の儀礼が行われてきました。そして死に直面したあとも招魂をつづけますが、やがて死を認めることになります。タマは尊いものとしてミタマ(御魂・御霊)となり、お祭りを受けることになります。体(からだ)は仏教渡来以前には土葬されるか、風葬・水葬されるのが一般で、火葬はありませんでした。どのような葬法をとりましても、亡骸(なきがら)は顧られることはありませんでした。今でも火葬条例の制約を受けない地方では、遺骨の入っていない詣り墓の習慣が残っています。詣り墓ではお祭り(供養)が行われますが、亡骸を葬ったイケバカ(埋け墓)、埋め墓、捨て墓などは第一次墓地とも称せられるように、埋葬後には誰も近付かない習慣でした。
ミタマは丁重に家々で久しくお祭りされてきましたが、明治2年6月29日丑の刻に戊辰の役戦死者3588人の招魂の式が、祭主・仁和寺宮嘉彰親王(小松宮彰仁親王)によって東京招魂社(九段坂上)で行われたことにより、歴史上初めて、国家が天皇陛下の御裁可を経て戦没者の御霊(みたま、御魂)をお祭りすることになりました。この御霊を慎しみ深くお招きして、神社でお祭り申し上げる儀式は、極めて特殊な神事でもありますから、のちに勅令をもとに施行された祭祀令(官国幣社以下神社祭祀令)に合祀祭(ごうしさい)として定められました。神道大辞典の合祀祭の項を参照します。
戦死殉国者の霊を新祭神として、合祀せられる時に行う特殊の祭祀。この祭儀は三段に区別し、合祀祭の前1日に本殿に合祀奉告祭を行い、同夜招魂斎庭にて招魂式を行い、続いて霊璽(れいじ)を本殿に奉遷する。翌日は合祀奉幣祭(ごうしほうべいさい)があって、特に勅使を差遣せられ、頗る重儀とされている。
霊璽は祭神となる方々の氏名を浄書したもので、薄冊となっているため霊璽簿とも称しています。御神体は御鏡ですから、霊璽はそれに次いで丁重に扱われるものです。『遺族の遺言・その1』で本間尚代さんが祭神名の訂正を求められていましたのが、この霊璽の記載内容についてです。霊璽のもとになるのが、神社が清書して陛下に御覧いただく上奏簿ですから、誤記は上奏の段階ですでにあったと思われます。どのように訂正すればよいのかは、稿を改めて記したいと考えています。最も重要な点は、昭和天皇までは祭神となられる方々の氏名を上奏簿で御覧いただき、その御承認をたまわって霊璽を浄書してきたことです。毎年のように上奏薄は神社から陛下のもとへ届けられます。つまり大東亜戦争の殉難者(男女を問わず)が平成の御代はもとより令和元年まで追加され、合祀祭が行われてきましたが、政教分離を求める日本国憲法のもとで即位された上皇陛下と今上陛下が果して上奏薄を御覧になっておられるかどうか、確認するすべを知りません。明治天皇から昭和天皇までお認めになられた御祭神の概要は昭和7年(1932)刊行の『靖國神社祭神祭日暦略』に見るしかすべはありません。祭日は命日と考えてよいかと思いますが、大東亜戦争の戦没者で祭神となられた方々は未だに公表されていません。神社が祭神名を公表するのは、公益法人たる者の責務ですから、調査中あるいは不明の方々は別にリストを設けて、速やかに祭日暦を公刊公表すべきでしょう、すでに70年にわたってお祭りではそれらの神名を唱えられずに来ているのですから。
246万余の祭神名のうち、未公開分はその94,3%に相当します。パソコンに入力されたデータをいつまでも秘匿していることは、全ての遺族に対して不誠実であるばかりか、その祭神をお認めになられた歴代陛下に対して極めて不忠の行為であると言わざるを得ません。祭神となられた方々、150年を越える間の殉国の人々、246万人余の人柱の声に耳を傾けることがなければ、わが国の悪戦苦闘の近代史を足蹴にする、恥ずべき行為にほかならず、それはわが国の道義を貶(おとし)めるばかりか、国民の勇気の源泉を失うことにもつながります。
10世紀の初めに完成した『古今和歌集』の、よみ人しらずの歌が、日本人の霊魂観を端的に伝えています。
うつせみのからはきごとにとどむれど
魂(たま)の行方を見ぬぞ悲しき
現身(うつせみ)の、骸(から)の方はそれぞれ棺(き)に留まっているけれど、魂の方はその行方の見られないのが、とりわけ悲しい、という意味でしょう。
*参考 タマ・カミ・ヒトについては『伊勢神宮のこころ、式年遷宮の意味』(淡交社)
(令和2年2月16日記)
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mudou raisei
vol.5
