遺族の遺言 その13
本間 尚代
気球隊 その3
5月28日、産経新聞千葉総局の女性記者の方から連絡をいただきました。「市立郷土博物館に於いて、初めての“気球隊”展が5月26日から7月11日まで開催されます。初日26日に行って来ましたので資料を送ります」と博物館の案内地図を添えて送って下さいました。昨年気球格納庫の解体の記事が載っていたと千葉市在住の知人から聞いて、コピーをいただきに行き、その女性とは一度お目にかかっただけですが、覚えていて下さってのお心遣いにとても嬉しく感謝をしています。すぐにでも飛んで行きたかったのですが、予定が入っていて6月11日に行きました。
千葉県人でありながら東京住いが長いと恥かしいことに、市立郷土博物館を知りませんでした。案内の地図に従い、千葉駅から7番のバスに乗り、15分位で博物館前で下車、標識を頼りに横道を入ると目の前に小さなお城が建っていました。博物館の看板が見えないので、どの建物かとキョロ、キョロしていると1人の男性が通りかかり、尋ねますとお城を指差し、そこですと教えてくれたのです。思いがけない博物館で驚きました。上を見上げると天守閣らしい所から数人の顔が表を眺めています。
受付で気球隊の企画室をと言うと、どうぞと入れてくれました。廻りには各地の美術館や博物館のポスターが貼られていました。いくつか小室があり、入口の案内標示通りに入って行くと数人の男女が年輩の男性の説明に耳を傾けています。私もその人たちの後に立って暫らく話の途切れるのを待ちました。説明していた男性に格納庫横に立つ父の写真を見せました。気球隊関係者からは何の連絡もありませんでしたと言われました。誰かが館長さんに知らせたのでしょう。間違いなく解体された格納庫の写真ですと写真を手にとり、企画された男性と2人で話をされながら驚いたり喜んだりして下さいました。館長さんが父の写真を手にコピーをさせていただけませんかと言われるので、どうぞと答えますと早速一廻り大きくコピーしたものをここに飾らせて下さいと言って、入口から良く見える所に飾って下さいました。
その前のケースには、格納庫の模型と、解体された一部分が納められてありました。そして先ほど説明されていたのは企画展の主催者であり、一級建築士でもある郷土の歴史研究家の方でした。格納庫の解体にも立ち合われ、その一部分を貰い、現物がケースに納められていたのです。そして模型も作られた方でした。後日父の立つ位置は、格納庫の横ではなく、側に建っていた兵舎の横であると多くの資料の中から分析され、写真を送って下さいました。展示場には絵ハガキを始め写真、写真集、新聞、雑誌など、私も初めて目にする品も多く展示され、これを集めていたのが女性と聞いて驚きました。私は勝手に当時を知る女性を想像したのですが、若い方と聞いて二度びっくり、その女性は気球が好きだから収集したとのことでした。
6月27日、小原悦子さんに写真に撮っておいていただくために御一緒しました。父の軍歴は県の援護課にもないことを話しますと、館長さんも企画者の方も、三度も召集を受けているのに軍歴がないとは、と驚かれ、そういう人がいるのですか、年金にもかかわるのでしょうにと同情して下さいました。他にも何人もいたのです。曙光会の仲間の千倉町出身の男性と君津出身の女性が私と同じく何度も県庁に通いましたが、残念ながら2人は病で早くに亡くなりました。私はマニラ航空廠の父を知る戦友たちが軍歴も調べて書き、署名を集めて、厚労省にも、千葉県庁にも何度も足を運んで訂正を願って下さいました。横浜に住んでいた母ともどれほど通ったことでしょう。亡くなった2人も、私も、父の名誉を守りたかったのです。千葉県は軍都市なので、空襲の被害の大きさも承知しています。空襲で焼けて一部の資料がどうしても揃わない、とでもはっきりと理由を聞きたかったのです。
ある時、岡山県の県会議員、市会議員の方々と話をする機会があり、父の軍歴の話を致しますと、我々の所は、市も、県も、英霊のこと、遺族のことは何を措いても一番先に知事は責任をもって片付けるよと聞かされ、大変羨ましく思いました。皆さんが当時の千葉県知事、森田健作を買い被って、森田さんなら分ってくれるはずだからもう一度訴えて御覧なさいと親切に教えて下さいました。既に何度もやって来たことですが、駄目元で手紙を書き、訪ねましたが、やはり葉書1枚の返事さえありませんでした。
ある時友人が一緒に行ってくれて県庁を訪ねると、始めて2人の秘書が出て来て話を聞いてメモをとっていましたが、知事に伝えましたとか調べていますと言った音沙汰もありません。知事の判断で決済出来ると聞いていますので、責任感が無いのか気が小さいのか後で良く分りました。千葉県を襲った令和元年の15号台風の後、『映画俺は男だ』の森田健作と実際の森田健作との大違いの人物を県民も知ることになったのです。父の軍歴は私が探すと随分時間も費やしましたが、故郷の郷土博物館に写真を保存し、戦友の調べてくれた軍歴も、温かい館長さんの心遣いのお陰で保管して下さることになり、心から感謝しています。あっちにぶつかったり、こっちで道を塞がれたりしながらも諦らめずにきたことで、父が1番喜んでいてくれるのではと信じています。帰りに館長さんのお奨めで、小原さんと天守閣に登り、千葉県内を一望しました。父の生まれた佐久間村奥山方向は、鹿野山と鋸山に遮られ、山は山でも望むことは出来ませんでした。
7月11日は気球展の最終日、親友の一周忌法要があるので、前日の10日に行って来ました。父の写真の下に軍歴も貼られて、若い男女が前に立って見ています。思わず後姿に有難うと手を合わせておりました。企画展の展示品は、9月には小冊子が出来上りますのでお送り下さると館長さんに言っていただき楽しみに待っています。
帰りに千葉県の護國神社に参拝して、父に報告を済ませました。私も自分から言い出したことの区切りがついてホッとしています。最初格納庫のことを調べて下さった千葉市在住の、國藤勇治様を始め、多勢の方にお世話になったお陰と皆様に心より御礼申上げます。本当に有難うございました。
注。
1.鹿野山。
千葉県で1番高い山と覚えています。高さ379メートル。山頂の三角点は日本の方位を定める基準点の1つ。
2.鋸山。
高さ329メートル。戦時中は要塞地帯ということで、金谷駅から山の下のトンネルを抜けて保田駅に着くまで、汽車の窓は厚地の黒いカーテンを締めさせられました。
付記。
何度も護國神社にはお参りもし、社務所に入れていただきながら目に留らなかった伊勢の大麻(神札)の大きなポスターに気が付きました。そこには地元の神社や、氏神様のお札と一緒にお飾り下さいと書かれてありました。私は地方に行くとなるべく護國神社にお参りをするのですが、伊勢の大麻(神札)をお授けしますとありましたのは初めてでした。今後も靖國神社にも参拝は致しますが、『英霊の行方、国の行末』に書いた方々との約束を守り、名前を誤記されている英霊を始め全御祭神のために参拝するので、父のことは千葉県護國神社に参拝し、語り合うこととし、同神社で伊勢の大麻をお授けいただくことに致しました。
(令和3年7月23日記)
izokunoyuigon
honma takayo
vol.13
