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魂の行方、国の行末 無動来西
遺族の遺言

遺族の遺言 その10

太田 繁子

  父の足跡をたどり

 私は今76才で令和2年の2月から浜松市にある有料老人ホーム、ゆうゆうの里に入居しています。ホームには各階にサロンがあって、書籍が沢山置かれています。そこで『ルソン戦記』『陸軍特別攻撃隊』を読むことが出来ました。こうしてこれらの本に出会えたこと、読む時間を与えられたことに感謝しています。
 私は昭和19年5月、満州のハルピンで生まれました。父、村松玉次は、私が生まれて、28日目にフィリピンのルソン島に配属となりました。その頃の父は、飛行機の整備士として勤めながら時には、操縦も教えていたということです。母は生まれて間もない私をつれて、静岡県の父の実家、榛原へ帰って来ました。
 昭和20年6月に父の戦死を知らせる公報を受けた母は、私を連れて母の実家に帰りました。母はその後、実家で働いていた人と再婚することになり、私はその人の養女として育ててもらいました。中学を卒業するとすぐに、浜松の理容所に住み込みで8年間の修行をし、そこで知り合った主人と結婚し、2人の息子に恵まれました。
 平成20年、医師である長男が浜松医大病院から榛原病院に転勤になり、家族で榛原に転居しました。その折息子は家族で、私の父の実家の佛様にお参りに行ってくれたのです。その後、長男の嫁が戦死した父のことをインターネットで調べてくれました。そして「曙光会」と愛知県三ヶ根山にある「比島観音」を知ることが出来ました。
 曙光会の方々の手助けにより、父のマニラ上陸から戦没地、カワヤンまでの道のりを調べて教えて下さいました。会報の『曙光』には、父の事を「尋ね人」として、何らかの情報をお持ちの方はお知らせ下さいと掲載して下さいました。すると佐賀県の光野二穂さんから、私の知っている村松さんではないかとお電話とお手紙をいただきました。光野さんの話では、「当時ピナパカン(今のマデラ)の三角州の所で3人しか乗れない丸木舟に、13名がいたので3名ずつ渡して最後に残ったのが松村さんだった。すぐに残して来た松村さんを探したが居なかった」と言われました。三角州にあったパイナップルやマンゴーを腹いっぱい食べるのに皆は夢中だったと言うことです。その時、その三角州ともう一ヶ所、親日派の部落があって、そこには食料のある事を同僚の山田さんと父が情報を得て来ていたそうです。そして光野さん達はそこに暫らく住んだのち、全員生還されているのです。また、彼から聞くところによりますと、舟に乗る時、「お先に、お先にどうぞ」と父は皆んなに譲って最後になったということでした。平成17年に光野さんは厚生省の職員2人と遺骨調査に行かれた時、マデラの近くの学校裏を掘ったが、日本兵の遺骨は出て来なかったそうです。その時、日本語を話せるおじいさんがこの学校に、やせ細った兵隊さんが校庭にいた女の子に声を掛け、倒れかかったので、その女の子が皆んなを呼んで来て、学校の横にあるポンカンの実を兵隊さんに上げると、貧るように食べて、体をおこして死のうとしたが、みんなに止められてその地で生活するようになったそうです。その地を掘る前にエチアゲ大学教授の家に、厚労省の職員が行って約1時間位話をして来るのを皆んなは車の中で待ったそうです。光野さんの言われるのには、おそらくその大学教授は、その地でみんなに慕われて生きた人の事を研究材料にしていたのではないかと言うことでした。もし本当に父であるなら、いくつ位まで生きることが出来たのか知りたいし、最後はマラリヤで亡くなったと光野さんは聞いたそうです。せめてその地に行って“父”を助けてくれた御礼の気持ちを伝えたいと思い、ピナパカンに「バレテ会」の方たちが行かれるとお聞きしたので、同行させていただき、光野さんと一緒に三角州の所まで行くことが出来ました。今でもゲリラがいるからと地元の警察の方がついて来てくれました。お線香の火をつけるのを警察の方が手伝ってくれて慰霊をし、手を合わせることが出来ました。平成21年3月のことでした。その後、2度フィリピンに行って参りましたが、これといったはっきりとした事は判らないのです。光野さんは置いて来て仕舞った松村さんの消息を探すためまたフィリピンへ行くと言われましたが、私は光野さんに「もう背中の重い荷物を下ろしてください」とお願いしました。
 戦記を読んで息子達が靖國神社に参拝した折、神前で声を掛けて下さった方がいらっしゃいました。鳥取県出身の北尾篤さんです。井手隊でただ1人の生還者と知りました。父とも御縁のあった部隊の方で、父が息子を引き合わせてくれたのではないでしょうか。父たちが飢えに苦しみながら、北部ルソンの山岳地帯に逃げても生き残れた人は少なく、フィリピン全島で51万8千人もの人が命を落としているのです。何と愚かな戦争をしたものでしょう。父たちは何にも言わずに、何にも言えずに死んでいったのです。もう決してこんな事をしてはいけません。しかし今も世界のどこかで戦っています。人間の愚かさを心から悔しく思います。

〒431-1304 静岡県浜松市北区細江町中川7399 ゆうゆうの里514 (電話)053-439-2888 太田繁子

(令和3年1月21日記)

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vol.10



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