遺族の遺言 その9
本間 尚代
日本遺族会の堕落
日本遺族会の会長、水落敏栄氏(参議院議員)は遺族と言っても父親をニューギニア、フィリピン、硫黄島など激戦地で亡くした私たちとは随分英霊に対しての思いも違う様です。たしか山形で戦死と聞いています。
平成28年1月29日、フィリピンのルソン島、カリラヤ霊苑への行幸啓は、天皇陛下、皇后陛下におかれましては外地に於いて、最後の慰霊の旅となられました。都道府県代表の遺族、関係者と私たち曙光会の一行、招待された在留邦人の方々と100名程が小雨のパラつく中に整列してお待ち申上げたのです。そこにはレイテ島、ミンダナオ島、セブ島などの島々から51万8千名の戦没者の御霊が三三五五に集られるのを肌に感じながら雨の上るのを念じておりました。両陛下の御到着予定時刻は午前11時20分でした。その頃から雨も上りはじめ、薄日も差して来たのです。
御到着は11時55分。ゆるやかな苑内の坂道をゆっくりとお車は進み、碑前に整列してお迎え申し上げる私たちの前に両陛下はお立ちになられました。日本から御持参の白菊の花束を慰霊碑の前で花台にお供えをされ、深く長い時間をかけての拝礼に、参列者の私たちも心から感謝の思いを捧げました。碑前からゆっくりとした足取りで戻られると前列の方に居た人たちと少しお言葉を交されました。16列になって並ぶ1列目と2列目の所で足を止められ、前にいる2、3人とお言葉を交されては次の列に進まれるのです。14,15列の曙光会員の前は、先をお急ぎになられそのまま進まれるのではと、皆と別の所に遺族会の男性3人と並ぶ私は考えておりました。ちょうど柱の陰になり、仲間の列は見えなかったのですが、厚労省の方の何げない手の合図に少し身を引いて見ると、青森から参加の男性の前に、両陛下がお立ちでした。彼の生れる2ヶ月前にお父さんは、ルソン島南部、タンバリットで戦死されているのです。彼の姿を目にした途端、自分のことどころではなく涙が溢れたのです。フィリピンで流した私の初めての涙でした。カリラヤ霊苑に着いて車から下りるとすぐに厚労省の方が飛んで来られ、整列される皆さんの「曙光会」の名札は外さないようにして下さいと声を掛けていただきました。もしかして両陛下が足を止めて下さるかも知れないと、産まれた時には、もうお父さんはいなかった彼に、陛下のお姿を少しでも近くで拝ませて上げたいと一番背の高い彼ですが、前に並んで貰ったのです。雪国の人で口が重いので、何かあった時にと思い、初渡比の昭和52年からのつき合いで普段から行ったり来たりと、気心の知れた女性に横に並んで貰いました。案の定、陛下のお言葉に答えられず、彼女に促されてお返事をしたそうです。両陛下は、2列に並んだ曙光会員の間を進まれて、それぞれが持っていた写真を手にされ一人、一人にお言葉を賜ったのです。
そして在留邦人、フィリピン人の招待者前列の人にお声をお掛けになられ、最後の私たち遺族代表として参列していた一人、一人にお言葉を賜ったのです。会報の「曙光」にもお目を通していただいていたようで、私には、「長いこと遺族のことを有難う」とお言葉を賜ったのです。私は涙で顔が上げられず、いつまでもお健やかであらせられますように、御皇室の弥栄をお祈り申上げます、と申し上げたかったのですが、涙で言葉になりませんでした。そして両陛下のお車を全員でお見送りをしたのです。
私はその後、共同記者会見に呼ばれ20分程過ぎたでしょうか。私たちは慰霊碑の前で記念撮影を済ませ、タガイタイに急ごうとしていました。皆の待つ碑前近くに行くと、天皇陛下の花束が無いと言うのです。エッと驚き、慰霊碑に目を遣ると「日本遺族会」の大きな花輪が2つ飾られて、天皇陛下のお供え下さった花束も、花台も消えているのです。そしてそこには遺族会での参加者が、白菊を1本ずつ供え、慰霊祭と称しているのです。天皇陛下のお車をお見送りしているほんの10分にもみたない時間の出来事なのです。先を急ぐ私たちに写真を1枚撮らせて下さいと頼んでも、遺族会の副会長とやらが、だめ、だめ我々は慰霊祭をしている、30分待ってくれと聞いてくれません。天皇陛下の花束はなくなっていても、フィリピンは始めての人がいたので、どうしても碑前の写真がほしかったのです。困っていると顔見知りの現地のガイドの1人が、次の案内を気にしてぐずぐずしている私との間に入って撮りなさいと言ってくれたので、写真だけは撮ることが出来たのです。
天皇陛下をお見送りしていた新聞社も、テレビ局の記者も、カメラマンも誰れもが、陛下の捧げて下さった花束の肝心な写真を撮ることが出来なかったのです。私は読売新聞を始め何人もの記者や、カメラマンから、陛下の供花台の後で記念写真は撮れましたかと尋ねられました。私は、その場で、日本遺族会に抗議をしたかったのですが、初めてフィリピン、ルソン島の地に立った仲間をカリラヤから2時間半程時間のかかるタガイタイの高台から、お父様終焉の地、バタンガス方面を日のある内に見せて上げたかったのです。日本遺族会の無知で非常識な振る舞いに憤りを押さえ、先を急ぎカリラヤ霊苑を後にしたのです。
予定時間もずっと遅れているので気が気ではありませんでしたが、目的地、タガイタイに着くまでは日暮れも待っていてくれたのか、バタンガス方面は、はっきりと望むことが出来て私はホッとしたのです。慰霊祭を始めて間もなく日が沈みました。
日本遺族会は、カリラヤ霊苑での、天皇陛下の御親拝を畏れ多くも一瞬にして穢したのです。曙光会の仲間も2人、別々の県から遺族会に参加していたのですが、その時は気が付かず帰国後、私に言われて気が付いたのです。カリラヤ霊苑から時間にして30分位の所に、山下奉文閣下、本間雅晴閣下処刑地跡に慰霊碑が建立されており、仲間の2人は何度もお参りをしているのです。1人はマニラに帰る途中、強引にモンテンルパに案内をし、後で皆んなに喜ばれたと聞きました。遺族会の予定は、マニラ当着の翌28日は、市内観光と散策となっていました。市内には両陛下が拝礼され花輪を捧げられた、フィリピンの無名戦士の碑をはじめ、市街戦で破壊されたままのサンチャゴ要塞の中には、日本軍の大砲が空に向けて据え付けられたままの姿で残されています。昭和50年代のマニラ空港は、野っ原のようで遠くに掘立小屋のような税関があり、タラップを降り、地に足をつけたところから戦場だと教えられました。現在の空港は「日本のODA」で出来ましたと書かれた立派な空港です。横道にそれましたが、他にも山下閣下を偲ぶ在留邦人建立の日本庭園には観音像も建ち、手を合わせる場所は沢山あるのです。
天皇陛下の御親拝を仰ぐと言う、51万8千人の英霊がお待ち申上げていた慰霊の旅を日本遺族会では何と心得ていたものか。カリラヤの帰りはショッピングと聞いて呆れ果てました。慰霊を忘れ、物見遊山にでも行ったとでも思っていたようです。同行の遺族の内からよく文句も、苦情も出なかったと不思議な気がしておりましたが、後で聞くところによりますと、フィリピン方面の遺族でもない人が多く参加していたと言うことです。
帰国翌々日、水落敏栄氏の議員会館内の事務所を訪ねました。アポなしですから勿論、水落氏のお留守は承知でした。女性が出て来たので先生はカリラヤ霊苑にいらっしゃいましたかと尋ねました。仲間は遺族会会長の顔を知らないと言いますし、私は忙しくしていて気がつかなかったので確認をとりたかったのです。その女性は、得意そうに、勿論よ、天皇陛下が行って下さるのでは、ウチでも慰霊祭をしなくてはと先生は行きましたと言うのです。そこまで聞けば充分なので、もう結構ですと帰って来たのです。遺族会の会長、水落敏栄氏自身が、天皇陛下、皇后陛下の行幸啓、御親拝とは、どう言うことか理解していないので呆然とさせられたのです。そう言う無知な人が靖國神社の総代の一人では、神社の堕落もさもありなんと変な納得をしたのです。平成28年、年明け早々には厚労省からの、参加者への服装など細やかな注意事項も届いていたのに、遺族会の中には、ジーパンにスニーカー、南国と思うからか派手な色の服の人がいたりと、天皇陛下の御親拝の意味も理解していない人も多く見受けられ、私は両陛下に申訳けない、恥かしい思いを致しました。カリラヤでの私たちは、自分たちだけ喜んで感謝していたわけではなく、それぞれが遺族仲間の関係地、中国、満州、ニューギニア、ビルマ、ガダルカナルなど、慰霊に行きたくても遠くて行けないと言う人たちのため、又全英霊のために祈りを捧げていたのです。フィリピンの人はよかったわね、だからこそ、天皇陛下には靖國神社に御親拝をいただきたかったと聞かされると胸が痛むのです。
『立憲君主・昭和天皇』(川瀬弘至著、産経新聞出版)の中に玉音放送を聴かれた当時の皇太子殿下(現上皇陛下)の日記の一部が引かれています。
「今は日本のどん底です。それに敵がどんなことを言ってくるかわかりません。これからは苦しい事、つらい事がどの位あるかわかりません。どんなに苦しくなっても、このどん底から這い上がらなければなりません。それもみな、私の双肩にかかっているのです。先生方、傅育官(ふいくかん)のいうことをよく聞いて実行し、どんな苦しさにもたえしのんで行けるだけのねばり強さを養い、もっともっとしっかりして、明治天皇のように皆から仰がれるようになって、日本を導いていかなければならないと思います」。
11歳の陛下のお覚悟を知り、戦前、戦後、疎開生活、焼け跡も御存知の陛下におかれては、国に殉じた父たち英霊だけではなく、同年代の私たち遺児、と呼ばれる者の心情にもお心くばりを賜っていることにカリラヤでも感謝を捧げておりました。
靖國神社にはどんな御事情がおありか知る由もありませんが、平成の30年間、天皇陛下の御親拝を英霊の皆様も、私たちも心よりお待ち申上げていたのです。遺族会の会長であれば、靖国神社、宮内庁などと、天皇陛下の御親拝が叶うように心を尽すことが一番大切な役目ではなかったのでしょうか。
戦後の母たちは寝る間も惜しんで働いては靖國神社のためにと奉納を続けました。ささやかな遺族年金が支給されるようになると、待っていましたとばかり日本遺族会から、年中寄付の割り当てが届き、時には自分の食費を削っても大切に英霊として祀られていると信じて応じていたと思います。それが遺族の心情を利用した、「英霊商売」であり、その一番手が靖國神社であったとは言葉もありません。父の名前や、所番地の間違いを切っかけに名前の誤記が7千2百名もあることを知り、御祭神として祀られていると信じていた父を始め、2百46万6千余柱の御霊が蔑ろにされていたのを知り、神前ではただただお詫びするしかありません。私たち遺族も遠くない将来この世からいなくなります。今の内に遺族ばかりではなく世間に知っていただかなくては、永遠に御霊は浮かばれません。
昭和30年から父との約束を守り、神社に通い続けた私は、明治天皇御創建の大義を忘れ、英霊の殉国の精神をも忘れ、次々と内苑が破壊され、靖国で会おう、と散って行かれた英霊の記憶に無い神社に変貌する様に心を痛めてきました。私たち遺族ばかりではありません。英霊となられた戦友が帰られた時の目標にと生還者が、植えられた桜の木は切られ、陶板の桜に変っていることは、当然総代会の一員である日本遺族会会長水落敏栄氏が知らない筈はありません。桜の木には部隊名の書かれた木札が下がっていたのです。木には魂が宿ると言うことを知らない宮司は、それだけで神職失格です。
また、会合のある時だけ神社に来るのではなく、遺族会の会長は全遺族の代表なのですから、常に参拝を心がけ、境内を見廻られていたら、どんどん外観の変ることも、神職の行儀の悪さもよくお分かりになられると思います。私の尊敬する議員のお一人は、少し時間に余裕が出来ると、さあ靖國神社に行こうと永田町から地下鉄で九段下で下車、大鳥居をくぐらないと何にもならんと歩いてお参り下さいました。その大鳥居の足元も去る10月16日、美観をそこなう像が建ち、外観を変容させました。明治天皇御創建の姿をとどめているお社だから尊いのです。これ以上変えないで下さい。
私の父は粗末に扱われている靖國神社から、とうに素晴らしい禰宜、神職様方のお護り下さる故郷の護国神社に還っていると、今は信じています。現在もお参りを続けるのは、結婚1週間目に赤紙の届いた人、1ヶ月で、3ヶ月で、半年でと御主人と別れなければならなかった、マニラ陸軍航空廠、曙光会の会員だった未亡人方との約束があるからです。子供もなく戦後ずっと1人で生きた人達から、「私の墓参りはいいからあなたが歩ける間は靖國の主人に手を合わせて」と言われ、約束を守っているのです。この方々は崇敬奉賛会にも、遺族会にも、随分貢献をされました。
天皇陛下に対して畏敬の念も持たず、神々への崇敬心を忘れてしまった結果、「英霊とは」と尋ねたら、遺族会の会長を名乗りながら答えることは到底出来ないでしょう。日本人としての心性も誇りも持ち合わせていない人が、遺族会の会長では、カリラヤ霊苑の51万8千人の英霊は浮かばれません。
注。曙光会は、フィリピン戦従軍者と戦没者遺族を中心とした者の集まりで、戦争体験の記録と日比友好親善を目標としています。
(令和2年11月30日記)
izokunoyuigon
honma takayo
vol.9
