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魂の行方、国の行末 無動来西

分分夜話 第9話 第6部 15―17

無動 来西

 21世紀を国は越えられるか
 ——終末植民地主義を克服する道——

 目次
  はじめに
  第1部〔8月18日公開〕

 1.譲位と個人と法律と

 2.山本七平著『現人神の創作者たち』
 3.前期水戸学の鋭鋒
  第2部〔8月25日公開〕
 4.崎門学と国学

 5.文部省作成『国体の本義』
 6.忘れられた植民地主義
  第3部〔9月1日公開〕

 7.日本の神(かみ)の諸相
 8.天主教の”でうす”は神か
 9.日本の神を蚕食した基督新教
  第4部〔9月8日公開〕

10.植民地主義から終末植民地主義へ
11.渡辺京二著『逝きし世の面影』・I
  第5部〔9月15日公開〕

12.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅱ
13.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅲ
14.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅳ
  第6部〔11月2日公開〕
15.招魂社の背後に欧米列強の植民地主義者の魔手が

16.勅裁を経て合祀される公務死、法務死の人々
17.A級被告の合祀と行幸批難
18.北白川宮能久親王と同永久王の合祀
19.神威の盛衰―御代の平安は翳(かげ)らないか
20.御名代と御由緒物
    付篇:斎王の御本質と大御手代奉仕について
21.終章  神前にて
   参考文献

 

  15.招魂社の背後に欧米列強の植民地主義者の魔手が

 16世紀に始まる植民地主義の魔手が、アフリカ、アジア、南北アメリカの三大陸に伸びてきましたとき、鎖国という手段によって、自給自足経済のもと200年以上もの泰平の時代を招来することにわが国は成功しました。渡辺京二氏が『逝きし世の面影』で外国人観察者たちの見た江戸文明を描き出してくれましたのは、欧米に支配されずに自律的に発達してきた文明の、亡び去った文明の暮しと風景とそこに育った日本人の心意でした。
 世界資本主義(植民地主義)は、江戸幕府の祖法“鎖国”を許さず、寛政年間(1789―1800)以降、外国船の来航が頻繁となり、嘉永6年(1853)米使ペリーの浦賀来航により、幕府はその強圧に屈して、安政元年(1854)日米和親条約を結び、下田、箱館を開港し、さらに嘉永5年(1858)日米修好通商条約を下田奉行とハリスの間に締結しました。続いて同様の条約をロシア、オランダ、イギリス、フランスとの間に結び、ついに鎖国は破れ、横浜、箱館、長崎での自由貿易の開始は、穀物を社会資源(注.第5部・12の注1参照)としてきた国内経済を混乱させ、尊王攘夷運動が激しくおこり、やがて江戸幕府を崩壊に導きました。
 尊王(尊皇)、攘夷、倒幕、王制復古といった激動が、戊辰戦争を経て、明治維新を迎えるまでに、わが国の行末を憂い、身を捨てて行った人々をいかに弔い、その人の名と功績をいかに伝えて行くかが、各藩によってその温度差はあるものの、人を神としてお祭りすることが頻繁に行われました。

1)嘉永3年(1850)5月、佐賀藩有志が楠正成・正行父子を祭る。
2)文久2年(1862)5月、大阪の久留米藩邸に幽閉中の真木保臣、
  楠公祭を行うとともに、寺田屋事件の犠牲者を祭る。
3)文久2年12月、津和野藩士福羽美静と長州藩士世良利貞らは、
  京都霊山の霊明舎で殉難志士の霊を祭る。
4)文久3年7月、津和野藩士多胡真強、福羽美静らは京都祇園社に小祠を建てて、
  安政の大獄と桜田門外の変の関係者46人の霊を祭る。
5)文久4年2月、長州藩は下関に招魂社の創建を決定。慶応元年(1865)8月、
  同社竣工なり、招魂祭を行う。こののち戦死者あるごとに合祀す。
6)慶応2年7月、天王山義挙3回忌にあたり、
  三条実美ら太宰府で真木保臣らの霊を祭る。
7)慶応3年11月、尾張藩主徳川慶勝、楠公社を創建。
  国事に殉じた者の霊を祭ることを朝廷に建白。

 これらの事例以外にも拾うべき史実はあるでしょうが、慶応4年5月10日の御沙汰書は、明治天皇の「仰出」としてのちの東京招魂社(靖國神社)へとつながる内容です。

 太政御一新の折柄、(中略)癸丑以来唱義精忠、天下に魁(さきがけ)して国事に斃(たふ)れ候ふ諸士及び草莽有志の輩、冤枉罹禍(えんおうりか)の者少なからず(中略)其の志操を天下に表し、かつ忠魂を慰められたく、今般東山の佳域に祠宇を設け、右等の霊魂を永く合祀致さるべき旨、仰出でられ候ふ。(以下略)。

 冤枉罹禍の者とは、無実の罪で禍(わざわい)を蒙って刑死したり、非命に斃れた勤王の志士たちのことです。京都の東山の霊山に明治天皇の思召(おぼしめし)をもって神社を創建し、招魂して合祠祭(ごうしさい)を行うこととなりました。この太政官達にある合祀祭は、のちに靖國神社の大祭式として整備されます。それは戦死殉国者の霊を新しい祭神として、神社に合祀するお祭りです。
 国事のために斃れた者、草莽有志の輩、冤枉罹禍の者、彼らの「忠魂」を永くお祭りし、その志操を天下に明らかにせよと、明治天皇が「仰出(おおせいで)」になられました。このときはまだ、京都に天皇がおられ、慶応4年が明治に改元されたのは9月8日のことでしたから、忠魂の合祀祭は京都東山で行われることとなりました。この年の10月13日に明治天皇は、東京に到着され、江戸城を皇居と定め、東京城と改称しました。
 5月10日の御沙汰書は今ひとつ出されており、「伏見戦争以来の戦死者の霊を東山に祭祀する」ため一社を建立し、こののち「王事に身を殲(ほろぼ)し」た者を速やかに合祀するとの布告で、16歳になろうかという若き明治天皇の「仰出」でした。
 慶応4年6月2日、上野の彰義隊壊滅後、官軍戦没者のための招魂祭を、江戸城西丸大広間に霊床(たまゆか)を設け、御鏡(みかがみ)一面を据え、榊を刺し立て神籬(ひもろぎ)をしつらえて、東従大総督・有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王の令旨(りょうじ)を祭主・報国隊員大久保初太郎が奉読しました。もちろん、諸道の総督や参謀、諸藩の隊長らがお祭りに参列し、海川山野の幸をお供えし、楽人が楽を奏する次第を見届けました。その日の『鎮台日誌』には、戦場で討死、あるいは陣中で病死した官軍将兵たちの御霊(みたま)を霊床(たまゆか)の神璽(シンジは御鏡、みかがみ)に招魂して始まり、簡略な直会(なおらい)を終えて、「送霊」の祝詞を奏上して終了したことを祝詞の全文とともに伝えています。神璽(しんじ)はこの場合、兵士たちの御霊が宿る神体(しんたい)、霊代(たましろ)や御形(みかた)のことです。
 さらに、京都河東操練場において同年7月10日、11日の両日、神祇官は鳥羽・伏見の戦以来の官軍戦死者374人の招魂祭を行いました。この明治元年には、多くの招魂社が創建されます。招魂社が護国神社と一律的に改称されるのは、昭和13年(1938)の内務省令によってです。現在の京都霊山護国神社を始め、鹿児島縣、福井縣、新潟縣、鳥取縣、高知縣、福岡縣の各護国神社が、明治元年に招魂社として創建されました。戊辰の役の戦死者を始め国事殉難者のために招魂祭が頻繁に行われ、各藩での招魂社創建への動向が、やがて国全体として行う招魂祭の場を求めた結果、東京九段坂上の社地に東京招魂社(のちの靖國神社)が創建されることになり、明治2年(1869)6月29日、戊辰の役戦死者3.588名の招魂式を深夜に行い、これを第1回合祀とし、軍務官知事・仁和寺宮嘉彰(にんなじのみや・よしあきら)親王が祭主をつとめられました。同親王はのちに小松宮彰仁(こまつのみや・あきひと)と改称されました。つづいて、午前7時から勅使が明治天皇からの幣帛(へいはく、絹の反物)を奉持して、招魂祭(合祀祭)が行われました。赤心隊員(駿河)と報国隊員(遠江)に属する神職が奉仕を命ぜられ、やがて同年11年23日にその内から62名を東京招魂社の社司として採用することになりました。
 招魂して御鏡に合祀する大祭の日、余興として相撲が行われ、花火が打ち上げられました。祭祀(さいし)はお祭りと同じ意味の語で、古代では「み祭り」が正しい言葉です。東京招魂社での第1回合祀祭は、「献供10膳」とありますから、お酒や海川山野の幸を盛大に奉って、しかも、明治天皇からの幣帛までお供えし、楽人が楽(がく)を奏でるという盛典でした。お祭りの「祭る」という語の原義については、西宮一民著『上代祭祀と言語』にそれは「たてまつる」という行為にあると考証されています。相撲や花火もまた、新たに神に祭られた方々への奉り物に他なりません。奉り物にはこの外に神宝や舞楽(ぶがく)、芸能などがあります。
 東京招魂社を永久(とわ)の鎮座地として、招魂された3.588名の戦没者は、その氏名が神名となりました。彼らの氏名は浄書されて、すべてが明治天皇に御覧いただき、御承認たまわった上で神となることが何より重い事実であると思われます。明治天皇の御製にそのお心が実直に歌われています。

はからずも 夜をふかしけり くにのため
命をすてし 人をかぞへて

かぎりなき 世にのこさむと 国のため
たふれし人の 名をぞとどむる

 慶応3年(1867)、16歳で即位された明治天皇は、明治元年の御沙汰書で、多感な若い心情に耐えることのできない悲しみを伝えられました。さきに、本文から抄出しましたので、重なる所もあります上に、少し長いですが、私が読み下してみます。

 太政御一新の折柄、賞罰を正し、節義を表し、天下の人心を興起あそばされたく、すでに豊太閣・楠中将の精忠英邁、御追賞仰せ出でられ候ふ。
 ついては癸丑以来唱義精忠、天下に魁(さきがけ)して国事に斃(たほ)れ候ふ諸士及び草莽有志の輩(ともがら)、冤枉罹禍(えんおうりか)の者少なからず、これらの所為(ふるまひ)親子の恩愛を捨て、世襲の禄に離れ、墳墓の地を去り、櫛風沐雨四方に潜行し、もっぱら旧幕府の失職を憤怒し、死をもって哀訴し、あるいは搢紳家を鼓舞し、あるいは諸侯門に説得し、出没顕晦、万苦を厭はず、つひに身命を抛(なげう)ち候ふ者、全く名義を明らかにし、皇運を挽回せんとの至情より尽力するところ、その志まことに嘉(よみ)すべし。
 なほ、いはむや国家に大勲労ある者、いかでか煙滅に忍ぶべしやと歎き思し食され候ふ。
 これによりその志操を天下に表し、かつ忠魂を慰められたく、今般東山の佳域に祠宇を設け、右等の霊魂を永く合祀致さるべき旨仰せ出でられ候ふ。
 なほ天下の衆庶ますます節義を貴び、奮励致す様、御沙汰候ふ事。
     五月

 東京招魂社(靖國神社)の合祀祭の眼目はこの明治天皇の御沙汰書にすべて述べられています。「親子の恩愛を捨て」、「墳墓の地を去り」、「万苦を厭はず、つひに身命を抛ち候ふ者」たちの「名義を明らかにし」なければ、あとかたもなく消えてなくなってしまう(煙滅)のではないかと、明治天皇は「歎かれ思し」めされた結果、殉国者の霊魂を永くお祭りできるよう「仰せ出で」られた、というのが主意です。

 この明治2年にも多くの招魂社が創建されました。現在の社名で拾いますと、2月に三重縣、山形縣、熊本縣、4月に岡山縣、8月に秋田縣、濃飛、9月に滋賀縣、11月に岩手、12月に長崎縣、各護国神社が創建され、国事殉難者、戦死者たちの御霊(みたま)をお祭りすることが始まりました。
 明治3年12月には、石川縣、明治5年11月には、栃木縣の各招魂社(のちの護国神社)が創建されました。明治6年12月23日、兵部省が廃止され、陸軍・海軍の二省の設置によって、招魂社は陸海両省の管轄となりました。
 明治7年(1874)1月27日、明治天皇は東京招魂社に初めて行幸され、本殿で親拝されました。御幣物(ごへいぶつ)として赤と青の大和錦(やまとにしき)一匹を神前に供されました。また、御製を宸筆して賜わり、それは同年6月30日に本殿に掲げられました。

我国の ためをつくせる 人々の
名も武蔵野に とむる玉垣

 同年8月27日、佐賀の乱鎮定の際の戦死者192名の招魂式を行い、この第2回合祀を受けて翌28日、勅使参向のもと臨時大祭(合祀奉幣祭)が行われました。
 つづいて同年11月5日、佐賀の乱の戦死者16名のための招魂式を行い、第2回と同様祭神名を浄書した霊璽簿を本殿に遷し(第3回合祀)、翌6日、勅使参向して大祭が行われました。第1回合祀祭に判明していなかった戦死者の氏名が確認されたと思われます。
 明治8年(1875)2月21日、台湾における戦死者12名のための招魂式を行い、この第4回合祀を受けて、翌22日、勅使参向して臨時大祭が行われるとともに、明治天皇は2回目となる親拝を行わせられました。
 この年の7月3日には、佐賀の乱における戦死者1名のための招魂式が行われ、第5回合祀を受けて、翌4日、勅使参向して大祭が行われました。同年10月13日に大分縣護国神社の前身となる招魂社が創建されました。
 明治9年(1876)1月26日、江華島事件の戦死者1名のための招魂式と第6回合祀が行われ、翌27日勅使参向して大祭が行われました。
 明治10年(1877)は昨年以来の争乱の年となり、1月24日、熊本神風連の乱・秋月の乱・萩の乱の鎮定の際の戦死者131名のための招魂式を行い、第7回合祀をみた翌日、25日に勅使参向して大祭が行われました。同年11月12日、西南の役の戦死者6.505名のために招魂式を行い、第8回合祀の翌日、13日に勅使参向して大祭が行われました。さらに14日の臨時大祭に合わせて、明治天皇は3回目となる行幸をされました。
 明治11年(1878)7月3日、西南の役の戦死者160名のための招魂式を行い、第9回合祀の翌日、4日に勅使参向して大祭が行われました。
 同年11月5日、竹橋事件の殉難者4名のために招魂式を行い、第10回合祀の翌日、6日に勅使参向して大祭が行われました。この年も招魂社創建がつづき、1月27日に千葉縣、2月9日に茨木縣、7月6日に札幌、のちの各護国神社が誕生しました。

 明治12年(1879)6月4日、東京招魂社は別格官幣社、靖國神社となり、内務省、陸・海軍省の管轄となり、神社祭式に準拠したお祭りを行うこととなりました。同月24日、西南の役の戦病死者264名および戊辰の役における米沢藩殉難者2名のための招魂式が行われ、第11回合祀の翌日、25日に勅使参向して大祭が行われました。この年も招魂社の創立があり、4月21日に飛騨、10月4日に福島縣、12月某日に山梨縣、のちの各護国神社が創建されました。

 こののち明治44年(1911)5月4日には第37回の合祀祭が行われ、この間、明治天皇は7回の行幸(親拝)をされました。また、明治38年(1905)5月4日、日露戦争の戦死者30.833名の合祀祭(第31回)に際しては、天皇御名代として伏見宮貞愛(ふしみのみや・さだなる)親王と皇后御名代として閑院宮智恵子(かんいんのみや・ちえこ)妃が参拝されました。「御名代」の参拝は、勅使参向よりはるかに重い儀で、大正期にも2回ありました。この日の合祀祭から、巻子本(かんすぼん)であった霊璽簿が冊子本(さっしぼん)に変更されましたのは、日露戦争の戦死者30.883名という未曽有の浄書数をすみやかになし遂げるためであったと思われます。
 明治期には、以上のような歴史のもと、靖國神社の基本的性格が確立されましたので、以下に要点を記します。

1).東京招魂社(靖國神社)の創建は、明治天皇の仰せ出によっ
   て、国が実施した。
2).嘉永6年(1853)のペリー来航以来の国事に斃れた者およ
   び草莽有志の殉難者たちの御霊(みたま)を祭る。
3).鳥羽・伏見戦争以来の戦死者たちの御霊を祭る。
4).「向後王事に身を殲(ほろぼ)し候ふ輩(ともがら)」(明治
   2年の御沙汰書)の御霊を速やかに祭る。つまり、戊辰の役の
   戦死者の御霊(第1回合祀)・佐賀の乱の戦死者の御霊(第2
   回合祀)を始めこののち事変や戦争で増加する戦死者の御霊を
   祭る。
5).戦病死者・戦傷死者(軍人・軍属に限らず、地方官員、警部
   補・巡査、公使館雇)の御霊を祭る。
6).争乱に巻き込まれなどした殉難者の御霊を祭る。例。第1回合
   祀の「八右衛門妻、山城美与(みよ)」は明治元年8月20
   日、盛岡藩兵が秋田領に侵入してきた時、糧食・弾薬の輸送に
   奮闘したが、流丸のため斃れた。
7).主として陸海軍大臣から合祀対象となる戦死者について、上奏
   し、「御裁可」を経て、官報に発表するとともに合祀祭が行わ
   れた。
8).明治天皇の御裁可によって、神社の祭神となられた御霊(みた
   ま)の前に、親しく陛下自ら拝礼されることによって、ようや
   く永久に神社を「静宮(しずみや)の常宮(とこみや)」(祝
   詞)とされることになる。
9).神座はひとつ、しかしその御鏡に宿られる神の御霊(みたま)
   は事変、戦争を経て増加する。なお、霊璽簿(れいじぼ)は霊
   璽と略す場合もあるが、寺院の過去帳(霊簿、鬼籍ともいう)
   の如く、祭神名(氏名)と死没地、身分などを抄記したもの
   で、浄書して殿内に納めるので、丁重に扱われるが、神体では
   ない。

 靖國神社の神体は御鏡で、伊勢の神宮の場合で言うと、それは御樋代(みひしろ)に入れ、さらに御船代(みふなしろ)に納めるという故実を守っています。慶応4年(1868)6月2日に江戸城西丸大広間で行った、官軍戦死者のための招魂祭では、「霊床(たまどこ)に神璽(しんじ)を据え、榊の小枝を刺し、仮の神籬(ひもろぎ)をつくる」(『鎮台日誌』)と見える神璽は、この場合御鏡のことです。『日本書紀』や『神祇令(じんぎりょう)』などに「神璽の鏡剣」という例が散見しますことから、明治2年8月2日、栗原信秀の鍛錬になる神剣(本阿弥平十郎が研磨し、樅井源八が鞘をこしらえる)の奉納があり、これをも靖國神社の神体(御霊代みたましろ)とする伝えがあるようですが、これは神座近くに奉納する神宝の太刀と見るべきものです。

 合祀祭は令和元年10月17日に第144回を数えましたが、それは大東亜戦争の戦没者があまりに多く、今もその調査考証がつづいているからです。
 ①日清戦争での祭神数         ・・・13.619柱
 ②日露戦争での祭神数         ・・・88.429柱
 ③大東亜戦争での祭神数(未確定) ・・・2.134.000余柱
 膨大な戦死者を出した3つの戦争だけでも223万6千余柱の人々の合祀を見てきました。①と②の合祀祭には、明治天皇は明治28年12月17日(①)、同31年11月5日(①)、同39年5月3日(②)、同40年5月3日(②)に行幸され、御名代の参拝は同38年5月4日(②)に行われました。
 昭和天皇は③の合祀祭以外に満洲事変や支那事変などの合祀祭にたびたび行幸されています。昭和4年4月26日、第45回合祀に合わせ親拝され、戦死者合祀には必ず親拝され、昭和20年4月28日の第66回合祀まで20回の行幸、親拝をされました。終戦後も8回の行幸、親拝をされました。

 欧米の植民地主義はその圧倒的な武力を背景に、日本をも支配しようとする意志に満ちていましたが、倒幕を果たして明治維新をなし遂げたのち、急激な近代化、工業社会化をめざし、いくつもの戦役に日本は敗北を喫することがなかったため、やがて日本もまた植民地主義国家になろうとする、脱亜入欧以来の思考が大東戦争の際にも、傲慢な施策を採用しはじめることになりました。それはアジアの中でただ一国、近代化に成功し、独立国家を建設し得ていたことの裏返しの考えでもありました。

(令和2年8月28日記)

 

  16. 勅裁を経て合祀される公務死、法務死の人々

 「英霊」の語は、明治44年12月刊行の『靖國神社誌』に初出します。軍医総監森林太郎(鴎外)が寺内正毅陸軍大臣の同書の序文原稿を認めたので、漢籍に造詣の深い彼は、後期水戸学の中心的存在、藤田東湖(1806-1855)の「和文天祥正気歌」に「英霊未嘗泯、長在天地間」とある「英霊」を採用することにしたものでしょうか。「英霊は未だかつて泯(ほろ)びず、長(とこしえ)に天地の間に在り」と訓めば、招魂された戦死者・殉難者たちの御霊(みたま)の敬称として英霊はふさわしい語だと思われます。
 明治天皇は招魂社、靖國神社のあるべき性格を確立され、御自身も可能な限り、合祀祭によってお祭りされることとなった神霊(みたま)の前に親拝され、とこしえに鎮まられることになった祭神に向かわれて、多くの御製を詠まれました。

国のため かばねさらしし ますらをの   
たままつるべき 時ちかづきぬ       

 明治39年(1906)5月3日の第32回合祀祭か、同40年5月3日の第33回の折についてか不明ですが、この御製は明治39年のものと伝えられます。日露戦争は明治37年2月に勃発、同38年9月にポーツマス条約に調印して終戦となりました。

かなし子に かたりきかせよ 国のため   
命すてにし 親のいさをを         

 かなし子はかわいい子という意味で、これは日露戦争戦死者の遺児の上をお思いになられての御製です。明治天皇は明治45年(1912)7月30日に崩御され、昭憲皇太后(明治天皇皇后)もまた、大正3年(1914)4月9日に崩御されました。
 大正と改元されて最初の招魂式は大正2年10月22日に行われました。台湾での騒乱鎮撫のため殉職した警察官69名のためのもので、翌23日に勅使参向して大祭が行われました(第38回合祀)。
 大正4年4月27日、日独戦役戦死者979名、台湾での騒乱鎮撫の際の戦死者352名、幕末殉難者62名の招魂式が行われ、第39回の合祀の翌日、28日に勅使参向して大祭が行われたことを受けて、大正天皇は同29日に行幸され、親拝されました。
 大正5年4月28日の第40回合祀と大祭は省略しますが、大正8年(1919)5月1日、鎮座50年記念大祭に臨まれ、同2日に行幸され、皇太子(のちの昭和天皇)も同日行啓されました。明治2年(1869)の東京招魂社創建から数えて50年という記念の年の御親拝でした。

 大正天皇は大日本帝国憲法の下で即位され、また崩御された唯一の方です。つまり、明治天皇の招魂社創立のお考えを十分に体現されるとともに、靖國神社のあるべき姿を確立された時代を大正天皇は創出されました。大正天皇は和歌の詠数では、明治天皇に遠く及びませんが、漢詩を詠むことについては、歴代中最高位の作品を遺されました。「臨靖國神社大祭有作」と題する七言絶詩があります。西川泰彦著『天地十分春風吹き満つ―大正天皇御製詩拝続』(平成18年、錦正社刊)の読み下しを引きます。(注3)

靖國神社大祭ニ臨ミテ作有り

武夫(もののふ)義ヲ重ンジテ危キヲ辞セズ
想フ汝ノ戎(たたかひ)二従ヒテ命ヲ殞(おと)スノ時
靖國祠中祭祀ヲ厳ニス
忠魂万古皇基ヲ護ル

 大正天皇の和歌は優美さを特長とするものが多いように思われます。

国のため たふれし人の 家人は   
いかにこの世を すごすなるらむ   

 大正9年(1920)4月27日、日独戦役戦死者1,595名、満洲鄭家屯事件の戦死者11名、日露戦争戦死者1名、維新前後における殉難者17名等のための招魂式が行われ、第41回合祀の翌日、勅使参向して大祭が行われ、さらに29日には、天皇の御名代・閑院宮載仁(かんいんのみや・ことひと)親王、皇后御名代閑院宮智恵子妃の御参拝があり、皇太子(のちの昭和天皇)の行啓も行われました。
 大正10年4月27日、日独戦役戦死者1,484名、台湾での騒乱鎮撫の際に殉職した警察官13名のための招魂式が行われ、第42回合祀の翌日、勅使参向して大祭が行われ、さらに29日には、天皇の御名代・東伏見宮依仁親王の御参拝があり、皇后の行啓も行われました。
 天皇の御親拝に代わる御名代の参拝は、明治38年5月4日とこの2度を合わせて、歴史上3回を数えるのみですが、天皇御自身の参拝が叶わない場合、親拝と同様の重儀であることが忘れられているかもしれません。
 ともあれ、大正10年11月25日、皇太子迪宮裕仁(みちのみや・ひろひと)親王(のちの昭和天皇)は摂政に任命されました。大正天皇は御病弱であったと伝えられ、この5年後、大正15年(1926)12月25日に崩御されました。
 大正14年(1925)4月27日に、日独戦役の戦死者618名、維新前後における殉難者84名のための招魂式が行われ、第43回合祀の翌日、28日には勅使参向して大祭が行われ、さらに29日には、摂政宮の行啓があり、御名代より重い御親拝がありました。
 大正期最後の招魂式は、大正15年4月28日、日独戦役の戦死者54名、維新前後の殉難者6名のために行われ、第44回合祀の翌日、勅使参向して大祭が行われました。この年の12月には天皇の御病状は重篤となられ、12月25日崩御、同日、昭和と改元されました。

 昭和4年(1929)の第45回合祀祭から昭和20年(1945)の第66回合祀祭までは、行幸または行幸啓が合祀祭に合わせて行われましたので、以下に事変、祭神数、臨時大祭日を省略して整理します。(年月日略)

 4・4・24 第45回合祀  4・26 行幸    
 7・4・25 第46回合祀  4・27 行幸啓   
 8・4・25 第47回合祀  4・27 行幸啓   
 9・4・25 第48回合祀  4・27 行幸啓   
10・4・26 第49回合祀           
11・4・26 第50回合祀           
12・4・25 第51回合祀  4・27 行幸啓   
13・4・24 第52回合祀  4・26 行幸    
 同10・17 第53回合祀 10・19 行幸    
14・4・23 第54回合祀  4・25 行幸    
 同10・17 第55回合祀 10・20 行幸    
15・4・23 第56回合祀  4・25 行幸    
 同10・15 第57回合祀 10・18 行幸啓   
16・4・23 第58回合祀  4・25 行幸    
 同10・15 第59回合祀 10・18 行幸    
17・4・23 第60回合祀  4・25 行幸啓   
 同10・14 第61回合祀 10・16 行幸啓   
18・4・22 第62回合祀  4・24 行幸啓   
 同10・14 第63回合祀 10・16 行幸啓   
19・4・23 第64回合祀  4・25 行幸    
 同10・22 第65回合祀 10・26 行幸啓   
20・4・24 第66回合祀  4・28 行幸 

 (御同列で御親拝ない場合、多く後日に皇后行啓が行われました)。
 招魂対象:日清戦争戦死者、済南事件戦死者、維新前後の殉難者、台湾霧社事件の殉職者、満洲事変の戦死者、北清事変の戦死者、支那事変の戦死者、大東亜戦争の戦没者。(大東亜戦争の戦没者合祀は昭和18年10月の第63回合祀から始まります)。

 ここに確認されなければならないことは、靖國神社に祭神として合祀するためには、まず内務省、陸海軍省から祭神となる死没者の名簿を上呈し、御裁可をいただいた上で、靖國神社に通知され、祭神名を遂一浄書した簿冊(霊璽簿)を用意して、招魂式、合祀、合祀の臨時大祭をとり進めるとの流れです。ここに、御親拝が絶対的に行われなければならない理由がありました。
 第45回から第66回までの合祀数は、26万5千人余で、これに戦後、220万人余の合祀数が加わります。小堀桂一郎氏はこの親拝に関して、「“大君の額づき給ふ”畏れ多さについて相互間の黙契(もくけい)が存した」と言い、「この暗黙の約束あるが故に、職業軍人ならぬ一般庶民出の応召兵達も、国家のために安んじて我が命を捨てる倫理的覚悟を決める事が出来た。兵士達はその約束を守って捨命(しゃみょう)の倫理に身を徹した。されば国家の側にもこの無言の約束の遵守は要求されるべきである―。」(注1、原文は正漢字歴史的仮名遣い)。

 昭和20年(1945)4月24日の招魂式、第66回合祀の臨時大祭も翌日に終了し、28日には、昭和天皇が行幸、親拝され、翌月5月5日に皇后の行啓も行われました。
 しかし、8月14日にポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏することになり、同15日の「玉音放送」によって全国民が敗戦を知り、9月2日、東京湾停泊中の米艦ミズーリ号で降伏文書の調印が行われ、昭和26年9月8日のサンフランシスコ平和条約調印までの約7年間、わが国は連合軍の占領政策下に置かれることになりました。降伏文書調印から3か月足らずで「神道指令」が発せられましたように、米軍の占領政策は充分に事前に準備されたものでした。

 その終戦の年の11月19日午後6時、招魂斎庭で昭和20年9月2日までに死没した軍人軍属で靖國神社に未合祀の者たちを招魂殿に招魂する招魂式を行い、午後7時に終了しました。翌20日午前10時15分、昭和天皇が行幸され、招魂殿に親拝されました。翌21日午前9時、臨時大招魂祭本殿奉告祭が行われました。「昭和20年9月2日までに死没」と期限を区切ったのは、9月2日がミズーリ艦上で降伏文書の調印式を行った日であったからです。
 今次大戦(満洲事変、支那事変、大東亜戦争)による、9月2日までに戦没した軍人・軍属等で、合祀未済の者たちのために、一括で招魂祭を行い、個々の祭神については、後日調査して判明したものからその神名を浄書した霊璽簿を本殿に奉安し、遺族に合祀完了の旨を通知することになりました。現在、霊璽奉安祭と称しているのは、浄書された霊璽簿(神名帳)を本殿に納め、神社の祭神となったことを奉告するお祭りのことです。一括で招魂された者たちの氏名は不明でしたから、氏名の判明した者から順次合祀して行くことになり、昭和21年4月29日、支那事変戦死者1,046名と大東亜戦争戦死者25,841名のための霊璽奉安祭を行い(第67回合祀)、翌日合祀(奉告)祭が行われました。戦後最初の合祀祭で新たな祭神となる26,887名をお祭りすることになりましたが、勅使参向はGHQの意向で取り止めとなりました。
 この第67回合祀から占領期間中には毎年霊璽奉安祭と合祀祭が昭和25年まで行われ、28万人余の新たな祭神が鎮祭されました。それらの斎行は以下の通りです。(年月日は省略)

21・ 4・21 第67回合祀   
22・ 4・21 第68回合祀   
23・ 5・ 5 第69回合祀   
24・10・17 第70回合祀   
25・10・17 第71回合祀   

 昭和天皇照覧のもと、満洲事変、支那事変、大東亜戦争における死没者のすべてを招魂し、氏名や死没地の判明がまとまり次第、逐次霊璽簿を作成し、神社本殿に奉安している神体(御鏡)に合祀することが、昭和、平成、令和と続けられることになりました。
 大東亜戦争の死没者だけでも240万人以上と推定されていますことから、ある崇敬者が、小さな鏡ひとつに御霊(みたま)が240万以上も宿れるものではない、霊璽簿が神体なのではないか、という合理的な疑問を呈していました。御霊は一体(一柱)が何センチ平方メートルなのでしょうか、少なくとも霊璽簿は皇族方が浄書されたものであっても(注2)、神体の近くには納めますが、それは神名帳と呼ぶべきものです。
 しかし、今次大戦では、未曽有の数の遺体のない戦死者に対する慰霊をどうするかとの問題が生じました。陸軍墓地などでの「合葬」や「海上ニ在テハ水葬スルコトアルベシ」(海軍)といった臨時措置が行われもしましたが、可能ならば遺体の火葬処理と遺骨の本国への還送が一般とされてきました。けれども、大東亜戦争が苛烈になってくると、遺骨に代えて「霊璽(れいじ)」(戦死者の氏名を記した紙片)が交付される場合が多くなってしまいました。この「霊璽」は「御霊代(みたましろ)」の意味を使ったのでしょうが、それは戦死者の尊厳を保つための便宜上の用語であって、もしそれが“みたましろ”すなわち神体と考えるのであれば、すべての紙片を集めてきて奉祀するべきでしょう。おそらく靖國神社の霊璽簿はこの霊璽のイメージが強く影響してきたことと思われます。

 昭和20年11月19日、今次大戦(満洲事変、支那事変、大東亜戦争)において、本年9月2日までに死没した軍人・軍属等で靖國神社に未合祀の人々のために、一括して招魂殿に招魂する招魂式を行い、翌20日に臨時大招魂祭当日の儀を招魂斎庭で行いました。この日午前10時15分、昭和天皇は行幸、親拝されました。さらに翌21日に、臨時大招魂祭本殿奉告祭が行われました。
 しかし、昭和20年9月3日以降はどうするかという課題がありました。そこで5回にわたって、臨時招魂祭または相殿(あいどの)合祀祭が行われることになりました。相殿合祀祭は、招魂殿に招魂した御霊が氏名、死没年月日等未決定のため、本殿内の相殿(あいどの)に奉遷しておき、やがて氏名等が確定次第、霊璽簿に浄書して、本殿正床(まさゆか)に移す「霊璽奉安祭(れいじほうあんさい)」を行って合祀を完了することになりました。

第1回 昭和24年6月4日 臨時招魂祭
              昭和20年9月3日~23年5月31日に死没した者
第2回 昭和25年6月4日 臨時招魂祭
              昭和23年6月1日~24年5月31日に死没した者
第3回 昭和26年6月4日 相殿合祀祭
              昭和24年6月1日~25年5月31日に死没した者
第4回 昭和27年6月4日 相殿合祀祭
              昭和25年6月1日~26年5月31日に死没した者
第5回 昭和33年10月9日 相殿合祀祭
              昭和26年6月1日~32年9月30日に死没した者

 今次大戦で本殿正床(まさゆか)に将来お祭りされるべき戦没者たちの御霊を、昭和32年9月30日までの間での死没に限って招魂しました。戦傷者、戦病者が回復することなく死亡する場合や極東国際軍事裁判及び国内と各連合国に設けられた軍事法廷に関連して、自決した者、獄死・刑死した者たち(公務死)を招魂しました。
 昭和27年6月5日に始まりました戦犯者の助命、減刑、内地送還を嘆願する署名運動は全国一斉に行われ、やがて署名は4,000万人に達したと言われ、同年12月9日、第15回衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が可決されました。
 戦争の法規および慣例の違反による「通例の戦争犯罪」(B級)に加えて、「平和に対する罪」(A級)と「人道に対する罪」(C級)を“新たな戦争戦犯罪の類型として設定”して、裁判を行うというものでした。終戦直後の10月8日、マニラ軍事法廷に戦犯(B級)として召喚された第14方面軍司令官山下奉文(ともゆき)大将は、2か月のちの12月7日に絞首刑の判決を受け、昭和21年2月23日に死刑が執行され、また同方面司令官本間雅晴中将も同法廷で有罪とされ、昭和21年4月3日、銃殺刑に処されました。このようなBC級戦犯者として刑死した人々は約1,000人(被告人約5,700人の内)と言われますが、前記5回の臨時招魂祭ですべての法務死者たちは、招魂されていると見られます。
 昭和34年4月6日、支那事変戦死者348名、大東亜戦争戦没者88,667名のため霊璽奉安祭が行われました。第85回合祀ですが、ここにBC級戦犯とされた約340名の霊璽簿も奉安され、こののち順次約1,000名のBC級戦犯として処刑された人々を合祀することになります。くり返しになりますが、戦犯として刑死した人々のほとんどは招魂式ののち、その氏名、死没地等が明らかになり次第、もしくは厚生省援護局から祭神名票の送付があり次第、霊璽簿を浄書の上、霊璽奉安祭を行い、合祀が完了することになります。
 この第85回合祀の臨時大祭の2日目、4月8日に、天皇皇后の行幸啓があり、御親拝されました。
 さらにこれに先立って、同年4月4日付で「平和条約第11条関係死没者の靖國神社合祀について(内連絡)」が、厚生省引揚援護局史料班長から各都道府県主管課長宛に出されました。平和条約とは、昭和28年4月28日発効の「日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)」のことです。
 日本国との平和条約第11条に掲げる裁判により判決が確定した後において 拘禁中死亡した者の靖國神社合祀については、(中略)かねて引揚援護局復員課においてその祭神名票を作成し、これにより神社側において合祀に関し詮議中でありましたところ、今般その一部(外地裁判関係の死没軍人軍属の約半数)について右の詮議が終了し、昭和34年春季に合祀されることとなりました。貴都道府県関係の合祀予定者及びその遺族は、別紙記載のとおりであります。(中略)右の合祀については、あるいは重大な誤解を生じ、ひいては将来の合祀にも支障を起す恐れもあるという実情にありますので、靖國神社側は最も慎重な態度をとり、この際今次合祀者中に標記死没者が含まれていることを公表せず、世論と共に極めて自然に推移するよう希望しております。
 「戦争犯罪者までも合祀された」(同文)との誤解に配慮して、今後の事務に当たってほしいと厚生省復員課から全国に「内連絡」された情況のもとで、第85回合祀が行われました。

注1.
 平成30年12月刊、『別冊正論』所収、小堀桂一郎著「御親拝の実現を熱望する―行幸への障礙は除去できてゐる―」。
 平成31年1月月刊、『伝統と革新』31号所収、小堀桂一郎談(聞き手、四宮正貴)、「天皇陛下御譲位に現れる真のシンボリズムとしての“象徴”と行動で果たす機能としての“象徴”」。

注2.
 昭和21年4月1日、高松宮妃参拝後霊璽簿の浄書を奉仕。以後、秩父宮妃、北白川宮大妃、李王妃方の浄書奉仕があった。

(令和2年9月15日記)

 

  17.A級被告の合祀と行幸批難

 昭和33年(1958)10月9日、昭和24年6月4日に始まった相殿合祀祭(当初は臨時招魂祭と称す)は5回目を終え、昭和20年9月3日から昭和32年9月30日までの大東亜戦争戦没者の招魂の儀はすべて終了しました。
 その後は、氏名等が明らかになった者から、順次霊璽簿に浄書され、霊璽奉安祭によって合祀が完了して行きました。しかし、この推移の中で、いわゆる東京裁判で昭和23年11月12日死刑判決を宣告された7名が、同年12月23日、巣鴨拘置所で絞首刑となり、獄死病死の7名と合わせて14名の法務死の人々を合祀することの可否に右往左往する30年間が始まりました。その原因は、事後法「平和と人道に対する罪」(A級)によって裁かれたことを、どのように理解するかにかかっていました。同裁判そのものを大東亜戦争の継続行為と見なせば、14名は「A級戦犯」とされるでしょうが、事後立法は個人に罪を問うことができないと知るならば、14名は「殉難者」とされなければなりません。
 いずれにしても、昭和33年10月9日の相殿合祀祭までには、14名の招魂の儀は済んでいましたから、いつ合祀するかとの問題が世論の動向を見ることに重きを置く傾向を強めていました。前引の昭和34年4月4日の厚生省復員課の「内連絡」にBC級で刑死した人々への深い同情が発信されていましたが、それとて「靖國神社側は最も慎重な態度をとり、この際今次合祀者中に標記死没者が含まれていることを公表せず、世論と共に極めて自然に推移するよう希望しております。」と靖國神社の合祀の時機を待つとの考えを支持し、全国の主管課長にその方針を指示しましたように、14名の法務死の人々が合祀されるか否かは、単にそのお祭りの執行時機だけの問題でした。

 しかし、昭和21年2月1日から神社制度に関する一切の法令は廃止され、単立宗教法人となった靖國神社が昭和42年5月8日に厚生省援護局と協議した結果、同神社総代会で合祀期日を決定することになりました。ただし、14名の祭神名票は昭和41年2月8日にすでに厚生省援護局から神社へ送付されていました。そこで総代会では昭和44年1月21日に「未合祀の方々を10月の合祀祭に含めることに全員異議なく了承」されましたが、靖國神社国家護持法案に関する運動に小さからぬ影響を及ぼすとの考えから合祀は延期されることになりました。しかし、昭和45年6月30日の総代会では「(合祀の時期は[宮司が]慎重に考慮し総代たちの)御方針に従い合祀することとする」と決議されましたが、昭和53年3月20日筑波宮司死去(退任)まで実施されないままでした。

 同年7月1日就任の松平宮司は同年10月6日の総代会において、「A級戦犯14名の合祀については、昭和45年6月30日の総代会に時期を見て合祀する旨決定されて居り、今回これを合祀することとしたい旨報告」させると、総代たちの同意が得られましたので、10月17日の霊璽奉安祭(第106回合祀)を行うこととなりました。そこで10月7日に東京裁判でA級戦犯として起訴された東條英機元首相たち昭和殉難者(同宮司の造語)14名を含む1,766名の合祀者名簿(祭神簿)を上奏目録に添えて宮内庁へ提出しました。戦前は陸、海軍省の両大臣官房が「上奏目録」・「祭神簿」の事務を行い、これを宮内大臣を経て上奏し、「裁可」を仰いできましたが、戦後はこのように靖國神社が直接宮内庁へ届けて、御覧たまわった旨の回答を今は掌典職から口頭で伝えられるのみとなりました。このような「御覧」物の扱いが具体的にいかになされているかは不明ですが、同日の10月7日に神社から宮内庁へ「秋季例大祭に併せて合祀の儀執行につき勅使御差遣方願出の件」を伺い、同月16日に文書で勅使参向の回答がありました。つまり、14柱の合祀が公的に認めれらたということです。

 不思議なことがあります。昭和38年8月15日に初めて終戦の日の政府主催の全国戦没者追悼式が日比谷公会堂で行われましたが、「全国戦没者之霊」との標柱にある戦没者の中に、A級被告を含む戦争裁判受刑者たちが等しく大東亜戦争における追悼の範囲とされていることは不可解としか言いようがありません。戦死、戦病死、刑死等の人々の上を思い、哀悼の意を陛下とともに表するのであれば、A級被告の合祀だけは認めがたいとする根拠はどこにあるのでしょうか。また、「全国戦没者之霊」の標柱は全国戦没者の霊が宿っているものではなく、仏教寺院の板製の卒都婆(そとば)のようなもので、神聖な目印というほどの意味合ではないでしょうか。その標柱に戦没者の御霊が宿らないのは、そこに御霊を祭る行為がないからです。その標柱を目印にして、亡くなった人々を偲び、陛下ととも悲しみを共にするのが、おそらくこの追悼式の意味であろうと思われます。ここには誰一人具体的な氏名で呼ばれる死者たちの御霊は招魂されていないでしょう。そして、最も不審に思われるのは、幕末から今次大戦までに、植民地主義者から国を守るために死没した人々を顧ないことです。大東亜戦争が植民地主義的帝国主義の様相を色濃く持っていることは否定できませんが、この大戦とて幕末来の反植民地闘争の潮流を全的に否定するものではないでしょうから、幕末の殉難者遺族や日清日露戦没の戦死者遺族を見捨てた政府の考えはあまりに未熟ではないでしょうか。
 およそ150年ほどにわたるわが国の近代史の最大テーマは、植民地主義をいかに克服し、独立をなしとげて行くかとの点です。
 この視点を置き去りにして、”慰霊”はあり得ないと思われます。

 昭和53年10月17日、東京裁判でA級被告とされた14名を含む大東亜戦争の戦没者1,246名と支那事変の戦死者520名のための霊璽奉安祭が行われ、第106回合祀が終了しました。すでに述べましたように、神社からの手続き上にも何ら問題なく、第106回合祀と翌18日の「例大祭に併せ合祀の儀執行につき」勅使が参向しましたのは、宮内庁の了解と昭和天皇の御承認があったと理解されます。御承認の語が制規上不適切であれば、上奏目録と祭神簿4冊を「御覧」いただいて勅使参向は許可なったものと考えられますから、「お認めたまわった」と表現した方がよいかもしれません。

 この昭和53年10月にいわゆるA級戦犯14名の合祀をしたことが、こののち昭和天皇の行幸がなくなった原因だとする意見がありますが、手続き上神社の側に何ら不備はなく、昭和天皇も宮内庁も承知の上で、合祀祭が行われましたことは今述べた通りです。
 では、何故行幸、親拝の儀が行われなくなったのでしょうか。それは昭和50年11月21日の靖國神社並びに千鳥ヶ淵戦没者墓苑への行幸啓に際して、その前日の第76回国会の参議院内閣委員会での質疑に原因があります。質問者は社会党参議院議員、野田哲、秦豊、矢田部理の三名で、答弁は主として宮内庁次長・富田朝彦、内閣法制局長官・吉國一郎、総務長官・植木光教(答弁回数の多い順)の三名です。全内容については『第76回国会・参議院内閣委員会会議録第4号』を参看願います。冗漫な部分は省略または修正して、以下に引用します。

Q1.野田:宮内庁でこのような計画を立てて、(略)会議をされた
   わけですか。
A1.富田:この御参拝の件につきましては、昭和40年、戦後20年に
   当たりました際に、靖國神社からお参りを願いたいという要請
   がございまして、それにおこたえになって御参拝になっておら
   れますが、今回も本年の春早く靖國神社から、また千鳥ヶ淵墓
   苑に関しまして厚生省からお参りを願いたい(略)、陛下にも
   御内意を伺って取り運んだわけでございます。

Q2.秦:宮内庁側の説明によると私的行為だそうです。(略)私的
   行為と公的行為に対する警備とは一般的にはどうなんでしょう
   か。
A2.斉藤警察庁外勤課長:私どもは両陛下の行幸啓ということで御
   通知いただいており、行幸啓という前提で警衛警備を行ってお
   ります。
   秦:警備当局からすれば、富田さんがいかに強弁されまして
   も、私的行為と公的の警備上の限界はもうないんですよ。

Q3.秦:天皇の公式参拝を眼目としている表敬法案が(略)われわ
   れの抵抗がおろそかであれば強行突破されかねないようなこの
   時期に、私的行為の名のもとに天皇が靖國に参拝されるという
   ことは、どんな答弁、強弁に接しようともわれわれは断じて認
   めるわけには行かない。(略)あすの参拝というのは表敬法の
   先取りである、大きな政治問題である、自然人裕仁氏の自然行
   為で はない、私的行為というような強弁は聞けない。
A3.富田:陛下は数回(正しくは6回)にわたって、すでに憲法が
   制定公布されまして以来、(略)靖國神社の場合は常に私的行
   為ということでお参りになっておられます。

Q4.矢田部:(参拝にかかわる)費用はどこから出るのか。
A4.富田:これに要する経費は、いわゆるお手元金になっておる内
   廷費から支出されます。

Q5.秦:あすに迫った天皇の靖國神社参拝は、自主憲法制定はおろ
   か表敬法案などについて並み並みならぬシリアスな動きがある
   ときに、その反対の世論を逆なでするような無神経なやり方に
   ついてはぜひとも取やめてもらいたい。(略)あすの靖國参拝
   なんということは、自然人裕仁氏の地位の重みからすると、は
   なはだこのことが巻き起こす政治的な効果というか、社会的な
   影響というか、はかり知れないものがあるというのが私どもの
   考え方なんですよ。
A5.吉國:靖國神社にお参りになる行為は(略)私人としてお参り
   になる、天皇もそれは信教の自由はお持ちになっておりまし
   て、皇居内においても一定の宗教行為をなさることもございま
   す。靖國神社にお参りになる場合も、私的な行動として御参拝
   になるということをあらかじめ明らかにいたしておきまして、
   天皇の私人としての行為、私的な行為であると私どもは観念い
   たしおる、そういう理論構成でございます。

Q6.野田:総務長官は、明日の靖國神社への参拝を私的行為として
   行われることであり、妥当な行為だと考えていますか。
A6.植木:私的行為としてすでに終戦20周年の際に靖國神社に参拝
   になりました例もあり、30周年を記念して御参拝になること
   は、同じ私的行為として妥当なものとして承知いたしました。

Q7.秦:五たび廃案になった靖國法案、それをすりかえようとする
   表敬法案、これからまた新しい政治の争点に多分になり得る法
   案なんですよ。(略)なぜ戦没者追悼式への御出席が公的行為
   で、あすの靖國神社参拝が私的行為というふうに明らかに境界
   を截然と分けられるんですか。
A7.吉國:靖國神社に明日御参拝になります場合の姿と申しますの
   は、(略)お参りされることそれ自体は何ら一般私人と変わる
   ところはなく、(略)そこに従来国のために命を捨てた人が祭
   られてあるという事実に照らしてだけ天皇はそこに表敬される
   わけでして、私人がお参りをするのと実質においては何ら異な
   るところがない。ただ、警戒等においては、その地位からしま
   して当然一般の私どもがお参りする場合とは違ってくること
   は、やむを得ないことだろうと思います。

Q8.矢田部:天皇が公式行事として靖國神社を参拝すれば、憲法20
   条第3項に抵触することになると考えているのか。
A8.吉國:「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動
   もしてはならない。」という第20条第3項に直ちに違反すると
   いうところまでは徹底して考えることはできないと思います。

Q9.矢田部:宮沢さんの憲法によっても、随行者がだれであるかも
   重要な問題である。宮内庁長官や侍従長あるいは政府職員がこ
   れに随行するようなやつは私的行為とは言えないんじゃない
   か。さらに、費用の使い方も問題だ。私的行為であるとするな
   らば、純粋に天皇の個人資産から支出をすべきなんです。それ
   を公の費用で賄うということもおかしい。(略)内心的な自由
   は憲法上天皇も保障されていると考えて差し支えないが、表現
   の自由ということになってきた場合、これは一つの限界が出て
   くる。(略)重要な政治的な対立点になっているような場所に
   出かけていく、このことは憲法上の制約があると考えられる。
A9.吉國:天皇の表現なり言論というものについては、当然制約が
   あることはおっしゃるとおりでございます。重大な政治的な論
   争のポイントになっているような事項について、それが是であ
   るか非であるかということを明らかにするような行為をされる
   べきではないという点もそのとおりであろうと思います。

 15ページに及ぶ官報から長くなりましたが、重要点を抄出しました。最後に質問者の社会党の参議院三議員を代表して秦豊議員が「私たちは、私的行為、公的行為、次々に慣例を新しく積み上げようとするあなた方のありようについては、今後とも追及をやめないことは当然にしても、たとえば答弁書、質問主意書、さまざまな形式を駆使してこの問題の解明に当たらねばならない」と結びました。憲法解釈から内定費支出まで執拗な三議員の追及をもとに、『昭和天皇実録・第16巻』の昭和50年11月21日条には下のように記録されています。

 なおこの度の靖國神社御参拝は、終戦30周年に当たり、同社より御参拝の希望があり、また昭和40年10月には終戦20周年につき御参拝になった経緯もあったことから、私的参拝という形で行われた。しかし、この御参拝に対して、日本基督教協議会ほか6団体から宮内庁長官に参拝中止の要望が提出され、また野党各党からは反対声明が出された。さらには、衆議院議員吉田法晴(日本社会党)から天皇の靖國神社参拝に関する質問主意書が国会に提出されるなど論議を呼んだ。なお靖國神社への御参拝は、この度が最後となった。

 末尾の「最後となった」は、歴史記述者としては不手際と評さざるを得ませんが、当時の反対運動の苛烈さを思うと、宮内庁はもとより政府が多くの批判者を説得できなかったことは理解されます。しかし、そののち行幸啓を仰げるだけの論拠を築くこともできずに40年以上も経てしまいました。
 なお、昭和40年10月19日の靖國神社への行幸啓は、終戦20周年記念の年ということもありますが、同月7日に霊璽奉安祭が行われ、第93回合祀が終了したことを受けての御親拝でした。同様に終戦30周年の昭和50年10月17日に、霊璽奉安祭が行われ、第103回合祀の終了ののち11月21日の行幸啓となったものと考えられます。

(令和2年9月23日記)

funpun・yawa
mudou raisei
vol.9-6-1



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