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魂の行方、国の行末 無動来西
遺族の遺言

遺族の遺言 その6

本間 尚代

  二百四十六万六千余柱の英霊の嘆きが聞こえる

(令和2年5月初旬の靖國神社境内、両側の長い柵の異様さ)

 武漢ウィルスが、世界中に恐怖を振り撒く御時世とはいえ、4月1日より、靖國神社は内苑に柵などして、参拝者を寄せつけず、何とガードの硬いことか。
 春季例大祭の4月22日。勅使参向の折には早くにお参りを済ませようと、午前9時過ぎに神社に着きました。厳重な警戒に何事かと驚きました。大扉の前に柵をして、その前にお賽銭箱が置かれ、この時間はここでお参り下さいと書かれた立札が、お賽銭箱の横に立っていました。御本殿が拝めないし、御本殿も見えないのにお賽銭箱だけ置かれているのは初めての経験でした。気の毒に若い人が数人、戸惑ったようにお賽銭を上げ、手を合わせて帰って行ったのです。それに神職がお賽銭箱の横にピタッと立って見張らなくても、緊急事態宣言で、自粛、自粛と言われている折、例大祭に参拝するのは、ほとんど遺族でしょうに賽銭泥棒扱いは随分失礼です。その後勅使の車が、神前まで入って行ったのも何を恐れてのことか、何十年も勅使の奉送迎をさせていただいておりますが、初めてのことでした。一瞬、上皇陛下のおしのびか、と思ったのは私だけではありませんでした。衛士4人による、共同歩調を取る姿を初めて見せていただきました。

 それ程警戒をしていながら、去る5月11日の沼山光洋氏の一年祭をやっているとは露知らず、12時少し前に着いて目を見張りました。沼山氏の写真が飾られた祭壇と思われる付近の椅子に腰を下ろしたり、立ったりで13人の人がいて本殿にお尻を向けて手を合わせていました。私はいつも通りの参拝を済ませ、何時まで続くのか炎天下で見届けることにしました。午後3時になっても、4時になっても祭壇を片付ける気配はありません。次々と寄って来ては手を合わせますが、本殿にお尻を向けていることに誰れも気が付かないらしいのです。常識ある日本人、保守を名乗る者が本殿にお尻を向けて誰れに手を合わせるのでしょうか。平伏している者までいたのです。靖國の御祭神の何たるかも知らないから出来るのでしょう。御祭神よりお偉い方は、天皇陛下しかいらっしゃいませんでしょうに。最終的には40何人かまで確認したと教えてくれた男性がおりました。沼山光洋氏が昨年(令和元年)5月11日に命を断たれたのは、天皇陛下の御親拝を願うという、自分の思いが叶わなかったからと言う一見素晴らしいと思わせる行動です。しかし、願を掛けて全国護国神社を参拝したとインターネット上に書かれていたと耳にしておりますが、普通、神社、佛閣に願を掛けるなら、御朱印や納経をいただいて公開すると思います。私の所にはその様な内容のインターネット上のコピーは届いておりません。靖國神社に祀られている「英霊」は生きたくても生きられなかった方々です。英霊は尊い命を国に捧げられ、御祭神、「神」として祀られているのです。その蔭には、私たち遺族が、どんな思いで戦後の荒波を乗り切ってきましたことか、一度でも遺族に対して思いを致したことがおありでしょうか。

 私たちは父たちの元に行くまで、戦後を背負っているのです。英霊の祀られている神社境内で、個人的な理由で境内を血に染められ、私を始め遺族がどんな思いで49日間、お清めに通って、二百四十六万六千余柱の御祭神に心からお詫びをしたことでしょうか。事もあろうにまた、一年祭などと境内を穢されたのです。三三五五と集って来て沼山氏の写真に手を合わせる前に、神前で御祭神に手を合わせるのが日本人であり、本物の保守というものではないでしょうか。確か黒服の数人の人が後で苑内に入るのは目にしています。下乗の立札の向かい側に、日本愛国党の車ほか、3台の車がずっと駐車していましたが、赤尾敏先生の愛国党であるならば、さぞ赤尾先生はお嘆きになられたでしょう。赤尾先生は常に国家、皇室を語られ、靖國神社とその英霊を崇敬され、遺族をとても大切にして下さる方でした。

 当日は久しぶりの暖かい日で参拝者の姿を見掛けられ、英霊がお喜びになられたでしょうに、参拝者は場違いな黒服集団に目を見張っておりました。その中で参拝者と思われる若い男性3人が、それぞれ祭壇の後側から神前に向かい手を合わせて、こうするのだよとでも言うように集団の方に向かい、合わせた手を上下に振っていましたが、誰れ1人気が付く人はいなかったのでしょう。私はその若い男性たちに有難う、英霊の御加護がありますようにと心の中で御礼を申し上げました。私の側を通る人が怪訝な顔をして私を見ていました。夕方5時に大扉が閉ってからも本殿にお尻を向けて手を合わせる行為は同じでした。私は祭壇が片付けられたら扉が締っていても御祭神にお詫びをして帰ろうと6時20分まで居りましたが、真夏日の日中とは変って肌寒くなって来たので、最後を見届けずに帰って来たのです。いったい朝何時から始めたのでしょう。私が行ってからも6時間以上、残っていた十数人の中には私が行った時からいた4、5人の顔もありました。密室ではない野外とは言え、40人からの集りにマスクなしの人もおりました。自粛要請が続いている最中に、決まり事を守ることも出来ないで”保守”ではありません。祭壇になっていた台の上のものは、徐々に車に運ばれ台だけが残っていましたが、昨年玉垣の中に献花台として置かれていた靖國神社の台だったのでしょう。

 令和2年5月11日の御祭神はこの風景をどんな思いで御覧になられたことでしょうか。私たちは御祭神に申訳なく思いました。6代宮司の松平永芳様が、当時の中曽根総理の無礼な参拝に影祓いをされたことを思い出して、私たちでも出来ることならそうしたいという思いに駆られました。あの中に1人でも御祭神に思いを寄せた方がいたでしょうか。日頃は英霊、英霊と口にしながら実際には理解していないばかりか、崇敬心のない人が多く嘆かわしいことです。神として鎮まられる英霊のいます靖國のお社での、このような一年祭を許可された山口宮司には是非、英霊とは、如何なる方かと伺いたいと思います。

 遺族の昇殿参拝も御祈祷も受付けておりませんだの、御遠慮申上げておりますでは、まことに情けないことです。毎年祥月命日に昇殿参拝をしてきた遺族は、このような時だからこそ父たちに縋りたかったのです。御祭神を忘れ、遺族を忘れ、宮司も神社も保身一筋では、いったい靖國神社は、何の神様をお祭りする社なのでしょうか。神職とは、世間がこういう危機にある情況だからこそ休んでいないで、祈り続けるのが本務なのではないでしょうか。遠方から今年で最後かも知れないと上京して来て、昇殿参拝も出来ず貼り紙1枚で、拒絶されたと帰って行く人に、授与所の窓口の一つでも開けて、一言、言葉を掛ける気遣いも考えられなかったのでしょうか。まったく思いやりの心も感じられません。神前で手を合わせ重い足取りでお帰りの遺族には、高齢となった私たちには、来年があるかどうか分からないので身につまされる思いがしました。

 「靖国会」のことは神社との関係を何度もお尋ねしています。電話の先では誰れに尋ねても、いつでも同じ答えです。神社とは直接の関係はありません、時々慰霊祭をやってくれたり、手伝いをしてくれるのです、と言われます。靖国会のことは、亡くなられた湯澤貞元宮司、山口現宮司にも何度もお願いして来たことでした。特に8月15日、参集殿前に大きな靖国会の看板を立て、参拝の申込みはこちらですと呼び込み、靖国会の受付で住所、氏名を書いて当日の参拝料を納めるのです。すると後日靖国会から振替用紙が送られて来るのです。年寄りは”靖國”というだけで神社からと思い込み、振り込んでしまうのです。靖國神社の靖國と、靖国会の靖国を混同するので、関係がないのなら止めて下さいと、直接沼山氏にも話して来ているのです。ある日台湾民政府の団体の受付を頼まれていた私と「あけぼの」会員の2人が参集殿に着くと、既に沼山氏が靖国会として4、5人の人たちの受付を済ませていたのです。私はすぐに昇殿参拝の申込に行った時の神職を呼んで靖国会の受付は片付けて貰いました。前日の羽田でのことです。門脇朝秀先生は、台湾の団体(民政府230名余)をお迎えすることになっていました。私は皆より1時間ほど早くに着いて、警備の人と打合せをしました。到着後、関税の出口に、台湾から預ってきた国旗を掲げて迎えたいこと、挨拶や名刺交換のため、30分ほどこの場所を使わせてほしいことなど、お話しして心よく了解をいただいておりました。その頃には、先生も娘さんの押す車椅子で着かれ、他の人たちも揃いました。
 4,5日前でしたか、文京区民センターで先生から民政府の訪日についての講演会がありましたが、お話の始まる前に5分間の休憩がありました。その時、先生が会場にいらっしゃるのを知らないのか、1人の男性(右翼)が、滔々と台湾民政府の訪日について語り出し、1人でも多くの日本人に迎えに出て貰いたいので、ネットでお知らせもしており、ここに出席の人は是非来て下さい、と言いました。私は、ちょっと失礼と話を遮りました。門脇先生は、その話のために今日ここにいらっしゃているのです。民政府の方とは台湾で充分話し合ってこられています、勝手なことはしないで下さい、ときつく告げました。
 話がそれてしまいましたが、到着時間を知らせるアナウンスがありましたので、皆んなに旗を広げてもらう間に、私は警備の人と最終の打合せを済ませて戻りました。すると、何と車椅子の先生の身体も顔も隠れてしまう大きな旗が広げられてあるので、誰れのなの、と聞くと沼山氏たち右翼の一団の仕業だと言うのです。すぐに沼山氏の側に行き、随分失礼なことをする人ね、取っ払って下さい、迎えの人たちの中には台湾人もいるのよ、日本人として恥かしいことは辞めなさい、台湾の人たちは門脇先生に会いにみえるのよ、と叱りました。沼山氏他右翼の一団は、さすがに台湾人の輪の中には入らず、近くで困った顔をして見ていました。
 また、ある時先生から、自分と湯沢さんに靖國神社から感謝状が出るので、靖國会館偕行の間に来て下さいとの連絡が沼山氏からあったと電話で私に知らせて下さいました。
 先生の娘さんと私は、神社からは多額の寄付でもしない限り、感謝状はあり得ない、何かに利用されると困るから、行かない方がよいと止めましたが、湯沢元宮司と2人で出かけて行きました。2人は靖國神社の感謝状と信じ込んでいましたが、翌日先生宅で私が見せていただくと、靖国会の角印が押され、事務局長沼山光洋と書名されているだけで、会長名も会長印もない、摩訶不思議な感謝状でした。娘さんと私とは未だに納得が行かず、首を傾げています。神社と靖国会との癒着ではないかと思えることがこれ以外にもありますので、いずれ整理して書いておくつもりです。靖国会は、昭和35年、徳川義親様が会長として神社を補佐する目的で発足されたと伺ってはおりましたが、その後の活動は寡聞にして存じません。確か平成16年から新たに靖国会を目にするようになりました。湯澤元宮司が退任された後、靖国会の顧問の名前を拝見するようになりました。沼山氏はその会の事務局長でした。

 武漢ウィルスは一向に終息するどころか日に日に東京以外の各道府県においても感染者が増え続けています。靖國神社では、ほとんどの神職が表立っての仕事はしていないのですから、この時こそ、御祭神の名前を誤記されていると聞かされました七千二百余名の名前を全員で訂正し、正しいご祭神の名前を本殿で奏上し、祝詞で心からお詫びをすることが重要ではないでしょうか。正しいお祭りをされたなら目に見えない敵、武漢ウィルスを退散させる英霊の御加護をいただけるのです。誤記されている御祭神の名前は一日も早く訂正しないと遺族もそのうちいなくなりますでしょう。名前の他にも誤記があるということですから、それも正すことが、英霊に仕える役目でしょうに。明治天皇御創建から150年を迎えた神社が、1番先に手掛けることは、御祭神の名前の訂正ではなかったのでしょうか。それとも外部の者は知らない、見られないことなので、聞き流してさえいれば、私もはじめ遺族は、いずれ目を瞑ると考え、時の過ぎるのを待ってでもいらっしゃるのでしょうか。口を聞けないからと御祭神を侮ると御祭神はすべてお見通しです。

 英霊は皇軍の兵士として、尊い命をお国に捧げたのです。英霊も遺族も、平成になってから、天皇陛下の御親拝を心よりお待ち申上げたのです。山口宮司は、御親拝の請願は今後共に致しませんと、神社新報紙上で宣言をされました。お社に祭られている、二百四十六万六千余柱の御霊は靖國神社に祭られ、天皇陛下の御親拝をいただけることを誇りとして命を捧げたはずです。残された家族もそれを誇りに何事にも耐えて来たのです。御親拝の請願は致しませんと宣言された神社新報を廻し読みをして、英霊は何の為に命を捧げたのかとの怒りと悲しみは消えることがありません。御祭神の御心も、遺族の心も踏み躙られた、不遜な振る舞いが、靖國神社の現在をすべて象徴して物語っていると思えます。亡くなられた松平宮司は、常にどうしたら御祭神が喜ばれるかと、英霊が生きているとして接して下さいましたし、遺族に対しても心ある思いやりをいただき、御遺族に喜んでいただくのにはどうしたらよいかを考えていますとおっしゃられ、御著書でも拝見させていただいております。

 山口宮司は神殿でじっと耳を傾けられたことがおありですか。英霊の嘆きの声や、子供の御霊の声が聞こえるのです。去る5月11日は子供連れの参拝が多かったからか、「赤い靴はいてた女の子」と「カモメの水兵さん」がくり返し、くり返し聞こえて一緒に口ずさみました。父のことは課長職にある方が謝って下さいましたが、山口宮司に一言詫びて責任をとっていただきたいと思っています。父のことは偶然のことから私が気づいたのですが、このままだったら七千二百名からの名前の誤記があると言われた方々と同じでした。靖國神社にとっても重大なことと私は宮司に書留を差し上げて返信をお待ちしたのですが、未だ梨の礫、崇敬奉賛会の会長も同じです。面倒なことにはなるべく触れず、順送りにして来た結果が、七千二百名からの名前の誤記につながっているのです。
 九段坂を登り大鳥居をくぐりホッとしたのに、今では風景もまったく変りました。時代に媚びて古い物や昔の風習を壊していては、先人の築かれた大切な日本の伝統文化は消えてしまいます。靖國神社は明治天皇御創建だから尊いのです。そっとそのままにして置いて下さい。現在の靖國神社は、祭られている御祭神、英霊から、どんどん懸け離れてきていると見受けられ、寂しく思っているのは私だけではありません。年のせいと言うばかりではなく、仲間の足は遠のいて行くのです。
 私は昭和30年に疎開先より東京に戻ってから父との約束を守り続け、靖國詣をしております。英霊は、天皇陛下にお認めいただいて、初めて御祭神として祀られると伺っております。現在の靖國神社では、この先を考えると恐ろしく、御祭神に申訳けないと思います。本来の靖國神社の姿に戻る日を心より願っているのです。

(令和2年5月28日記)

 

  情けない付記

 何度も電話を掛け続けてようやくつながった電話に、大東亜戦争の戦没者は何柱がお祀りされているのかと尋ねますと、女性は私では分からないので少しお待ち下さい、と誰れかに聞いている様子でした。今、誰れも分かる人がおりませんと言うので、また電話をしますと告げて切りました。6月初め(令和2年)のことでした。私は大東亜戦争の戦没者のことは当然職員さんも巫女さんも知っているものと思っていたのです。後日電話をするとまた、分からないと言います。こちらに来ていただければ分かる人がいるかも知れませんと言われました。
 6月16日の午後、時間に余裕があったので参集殿に寄ってみました。入口で机を片付けているブルーの袴の若い方に聞いてみました。案の定知りません。でも、この神職は、私には分かりませんが、調べて来ますのでここで(椅子をすすめ)お待ちいただけますかと常識ある応対でした。暫く待っていると部長が先になり、分からない、分からないんだとブツブツつぶやきながら出て来られ、挨拶もしそびれてしまいました。やはり、分からないですと言われました。パソコンも出来ない私ですが、今はどこでも資料は、パソコンに入力されていて何でもすぐに分かるでしょうに、現に千葉県の護国神社では、目の前ですぐ教えてくれたのです。
 私は平成元年9月末までは、高橋正二先生の「靖國の心」に日清、日露の戦争からそれぞれに何柱が祭られたかは書かれているので知っています、それ以降を知りたいのです、と言っても、最近は数も少ないからと悪びれた風も見せません。厚労省での収集されたお骨も、氏名の判明するお骨は少ないにしろ、30年間では相当の人数になるでしょうに、これはあなたの仕事でしょ、30年間仕事をしていなかったということですか、御祭神として祀られるはずの英霊が気の毒ですと言うと黙っています。そして、昨年は七柱で・・・と考えています。子供や若い人の語り部として私は、7月に子供のころの私から見た「大東亜戦争への道(仮題)」として話もする予定になっているので、大東亜戦争の御祭神が何柱か知りたかったのです、いったい何柱と話したらよいのでしょうか、子供や若い人たちに、いい加減なことは話せませんと言うと、しばらく考えられて二百五十柱位と言われたのです。ではそれを加えて話をしますが、靖國神社で聞いたと言って宜しいですねと念を押しますと、結構ですと言って、引っ込んで仕舞いました。随分失礼な人です。それ以降、訂正も言って来ませんので、調べることもしていないのでしょう。御祭神の名前、七千二百名からの誤記、祭られている御祭神が何柱なのか、神社にとって肝心要のことが分かっていないのでは、靖國神社としての体をなしていないと思います。8月15日を目前にして、御祭神に申訳けない思いで胸が痛みます。私の語部の予定も東京のウィルス感染者がどんどん増えるので、先送りに致しました。次には正確な数が判明していることを御祭神のために心から願っています。

(令和2年7月30日記)

izokunoyuigon
honma takayo
vol.6



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