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魂の行方、国の行末 無動来西

分分夜話 第9話 第2部 4-6

無動 来西

 21世紀を国は越えられるか
 ——終末植民地主義を克服する道——

 目次
  はじめに
  第1部〔8月18日公開〕
 1.譲位と個人と法律と

 2.山本七平著『現人神の創作者たち』
 3.前期水戸学の鋭鋒
  第2部〔8月25日公開〕
 4.崎門学と国学

 5.文部省作成『国体の本義』
 6.忘れられた植民地主義
  第3部〔9月1日公開〕

 7.日本の神(かみ)の諸相
 8.天主教の”でうす”は神か
 9.日本の神を蚕食した基督新教
  第4部〔9月8日公開〕

10.植民地主義から終末植民地主義へ
11.渡辺京二著『逝きし世の面影』・I
  第5部〔9月15日公開〕

12.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅱ
13.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅲ
14.渡辺京二著『逝きし世の面影』・Ⅳ
  第6部〔11月2日公開〕
15.招魂社の背後に欧米列強の植民地主義者の魔手が

16.勅裁を経て合祀される公務死、法務死の人々
17.A級被告の合祀と行幸批難
18.北白川宮能久親王と同永久王の合祀
19.終末植民地主義を克服する力 〔仮題、未定〕
20.御名代と御由緒物
    付篇:斎王の御本質と大御手代奉仕について
21.終章  神前にて
   参考文献

 

  4.崎門学と国学

 また、山本氏は蕃山(d)の水土論や素行(e)の日本中華主義、さらには仁斎(f)の朱子学批判などを丁寧に解読されています。ところが、闇斎(c)の崎門学派はのちに触れることとして、国学の展開についてはほとんど追究されていませんので、まず儒者たちと同様のメモ書きを国学者について作ってみます。

o)1627(寛永4)年―1686(貞享3)年
  下河辺 長流(しもこうべ・ちょうりゅう)
 江戸前期の歌学者。『万葉集管見』は契沖に影響を与え、国学の誕生を見る。
p)1640(寛永17)年―1701(元禄14)年
  契沖(けいちゅう)姓下川。僧籍に入る。
 徳川光圀の依頼で『万葉代匠記』を著した。代匠は長流(o)に代っての意。古事記・日本書紀・万葉集などの古代文献を実証的に研究する国学の基礎を確立。
q)1669(寛文9)年―1736(元文1)年
  荷田 春満(かだの・あずままろ)
 伏見稲荷神社の祠官羽倉(はくら)家の生まれ。国学四大人に数えられる。『創学校啓』。
r)1697(元禄10)年―1769(明和6)年
  賀茂 真淵(かもの・まぶち)
 春満(q)のもとで古典や古語の研究を進める。古事記読解への道をつけた。『万葉考』、『国意考』、『歌意考』。
s)1730(享保15)年―1801(享和1)年
  本居 宣長(もとおり・のりなが)
 真淵(r)に入門。35年を費やして寛政10年(1798)『古事記伝』44巻を完成。その総論にあたる『直毘霊(なおびのみたま)』で古道論を展開し、激しい漢意(からごころ)批判と皇国の優越を主張。『源氏物語玉小櫛(たまのおぐし)』、『玉勝間(たまかつま)』、『うひ山ぶみ』など多数。
t)1776(安永5)年―1843(天保14)年
  平田 篤胤(ひらた・あつたね)
 宣長(s)の死後、「没後の門人」を自称。著書数多ある中、『古史伝』37巻164段が主著とされるが、28巻(143段)までが篤胤の著で、以後は矢野玄道(やの・はるみち、1823―1887)が続けて完成させた。宣長の後継者を自認したものの、その文献学は継承しなかった。養子嗣の鉄胤(かねたね)を始め大国隆正・矢野玄道らがその学問をうけつぎ、国粋主義的な部分だけが政治化されて肥大化し、国家神道を明治初期に唱える。

 もちろん、これだけが国学者の著名な人々ではありませんが、大日本史を編纂する儒者たちとは大きく異る研究態度があります。それは、上代または古代の言語について、精緻な考証を倦むことなく生涯行う点です。ただ、篤胤(t)とその門人たちは、ある種のイデオロギストの面が強く、宣長(s)を頂点とする文献考証主義とは相当に研究姿勢が違いますが、国学者の範疇に通常入れています。
 山本七平氏は国学の森を俯瞰したかもしれませんが、その森の中へ自らが踏み込むことはしませんでした。戦後20年以上かけて、鬼気迫る解析力をもって前期水戸学の人々及び同時代の儒者たちの著作を読み込み、やがて現人神の語に大日本帝国憲法で裏打ちされた、およそ上代の概念とは異る政治的意味を付加する作業に、頑な愛国心を持して専念する御用学を生み出す底流になったものを発見されたのでしょう。その成果である文部省作成の『国体の本義』に触れる前に、山崎闇斎(c)の崎門学について山本氏の見解を参考にしつつ述べておきたいと思います。

 闇斎(c)は京都妙心寺で剃髪後、土佐の谷時中に朱子学を学び、還俗して、吉川惟足に神道を学び、神儒一致の垂加神道を創唱し、門弟6000人という崎門学派を形成しました。江戸時代は儒学が社会の基本理念として流行した時代で、神道思想もその理念に根本において一致するとの考えが、儒学者の側から提唱され、それを儒家神道ないし神儒一致思想とよびます。闇斎は純正朱子学を提唱するとともに、支那の純正教学としての朱子学に対応するものとしてわが国の純正神道の研究をすすめ、神典の総合的研究を行い、神道の口伝口承を集成して『神代巻風葉集』などを著述しました。「土金の伝」について、故谷省吾博士の講述を教わったのは、今から45年もの昔のことです。「土がギュッと締まって金となるように心を引き締めることが大切で、親指を内にして手をにぎると、土がしまるように、心につつしみが備わる」とのお教えでしたが、こういう修養法が武士の間で好まれたのです。闇斎の峻厳な性格を反映し、厳刻な道徳主義に徹底する倫理観は武士にこそ自覚されるべきものでした。
 崎門三傑の直方(g)、絧斎(h)、尚斎(j)はそろって、師の神道信奉に異を唱え、直方と絧斎は破門されましたが、師の朱子学考究の影響は三者三様ではあっても、師を敬愛することは変わらなかったと言われます。潜鋒(ℓ)、観瀾(m)、強斎(n)といった優秀な儒学者を輩出し、神道面では、玉木葦斎(いさい)や谷川士清(ことすが)が育っています。現代流で言えば、相当な変人として純粋に学理を追求する教育者であったことが、門第6000人を誇ることにつながるのでしょう。谷川士清(ことすが、1709―1776)は国学にも造詣が深く、『日本書紀通証』35巻の大著と『和訓栞(わくんのしおり)』93巻の50音順国語辞典は現代においても高い評価をうけています。篤胤没後の門人となった鈴木重胤(しげたね、1812―1863)もまた国学的考証主義に秀でており、『延喜式祝詞講義』は今も延喜式収載の全祝詞についてこれを越えるほどの考証を示した研究書はあるでしょうか。さらに、『日本書紀伝』は重胤が江戸で刺客に暗殺されたため未完となってしまいましたが、現存する内容は極めて精緻な考証に基いており、完成していれば宣長(s)の『古事記伝』に匹敵する大著となったと評されます。宣長(s)の批判して止まない「漢意(からごころ)」について、重胤は「理窟(りくつ)」のことだと説いています。
 また、儒仏混同に対して儒者は多くそれを弁別する論を立ててきましたが、崎門学を奉ずる武士たちは闇斎の如く、激しく仏教を難じました結果、明治維新後の神仏判然令を発出する動勢を生むことになりました。
 尊王論も攘夷論も儒教的名分論であり、政治運動としては本来別個のものでしたが、安政5年(1858)、勅許をまたずに井伊直弼が日米通商条約調印に踏み切った結果、尊王と攘夷は反幕運動として結びつきました。崎門学や水戸学が倒幕の思想的原理を生み出して行ったとする論調は多くありますが、果たしてそれほど判然と幕末動乱時の思想界を分析できるものでしょうか。
 例えば、文久3年(1863)は尊王攘夷運動の極盛期ですが、その8月14日、孝明天皇の大和行幸を機に公家中山忠光を始め38名の天誅組が五条代官所を襲撃して朝廷直轄を宣言しましたが、行幸はなくなり、諸藩追討軍に攻撃されて27日までに天誅組は壊滅しました。その中に国学者伴林光平(ともばやし・みつひら、1813―1864)がおり、のちに捕えられて京都六角で斬首されました。刑死までの間に獄中で執筆した『南山踏雲録』は陣中の記録とともに優れた短歌を多く遺しました、享年50歳。崎門学を尊重する立場の人々は、国学を町人の学として蔑む傾向がありますが、幕末維新へ向かう勢力には様々な学問、思想に秀でていた志士文人が活躍したことを忘れてはなりません。

 

  5.文部省作成『国体の本義』

 山本氏にとっては”現人神”の語の”神”が最も許せない考え方なのではないでしょうか。現人神は景行天皇紀・即位40年の条に初出します。

 仰ぎて君が容(みかほ)を視れば、人倫(ひと)に秀れたまへり。けだし神か。(中略)王(みこ)対(こた)へてのたまはく、「吾はこれ、現人神(あらひとがみ)の子(みこ)なり」とのたまふ。

 皇子(みこ)は日本武尊(やまとたけるのみこと)のことです。神は人に姿の見えないものというのが古代の考えでしたが、その神が、人の姿をとって現われ出たものは、非常に畏敬すべきものとされました。その人のかたちをとっている神が、天皇であるというのが現人神の意味です。現神(あきつかみ)や現津御神(あきつみかみ)という上代語も天皇の尊称として宣命などに使われますが、意味は現人神と同じです。もちろん、山本氏はそのような語義については承知の上で、この語に大日本帝国憲法のみならず、軍人勅諭などが加えた観念に承服できないと言うのでしょう。後期水戸学の尊王論や国体論は、キリスト者として過酷な戦争体験後20年以上もかけて”現人神”を創作した者を、捜索することに較べればさほど重い課題ではなかったのでしょう。
 しかし、欽明天皇13年(552)10月に百済の聖明王が釈迦仏一体を献上した際、物部・中臣の者らは「蕃神(あたしくにのかみ、または、となりぐにのかみ)」と呼んでいますように、外来の神(かみ)として仏を見ていたことと、天主(でうす)を「かみ(神)」と言い換えたこととは雲泥の差があります。明治6年(1873)の讃美歌の一節に(注1)、「めぐみある神を、万物はあがめよ」、「全恩(ぜんのん)の神(しん)をほめよ、さんびせよ天下の人」と歌った”かみ”や”しん”が少なくとも結果的には植民地主義を隠す手段となったことを忘れてはならないと思います。

 話しをもどして、『国体の本義』に言う「現人神」に移ります。昭和12年(1937)文部省作成にかかるものです。

 天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神(あきつみかみ)であらせられる。この現御神(明神・あきつかみ)或は現人神(あらひとがみ)と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔(しんえい)であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏(かしこ)き御方であることを示すのである。

 皇祖は天皇の先祖、天照大神から第1代神武天皇までを意味し、皇宗は天照大神に始る天皇歴代の祖先のこととする場合と第2代綏靖(すいぜい)天皇から当代に至るまでの天皇とする場合があります。つぎに、現御神、明神、現人神は天皇への尊称で、本来目に見えない神が現身(うつそみ、うつせみ)を備えて現われていることを言う上代語です。また、神の子孫(神裔)である天皇の現身に皇祖皇宗は「現れまし」て、天皇は「皇祖皇宗と一体であらせられ」る、と文部省は教示します。
 昭和12年当時、上代言語や上代祭祀の研究は今日ほど進んでいませんでしたから、文部省から「現人神=天皇」の教育を指示された教育者たちのほとんどは、おそらくスローガンの如き言い方で指導したと思われます。最大の問題は、今上天皇の現身に皇祖皇宗の神霊が宿り、「皇祖皇宗と御一体であらせられ」ると結論しているところです。
 大日本帝国憲法を明治22年(1889)2月11日に発布する際の「告文(こうもん)」は、「皇祖皇宗ノ神霊ニ誥(つ)ゲ白(まう)サク」で始まり、「神霊此レヲ鑑(かんが)ミタマヘ」で結ばれる憲法発布の勅語より重いものです。告文(一般の祝詞に似た神に告げまつる天皇の文)にある皇祖皇宗の神霊に「明らかに御覧願います」(鑑みたまへ)との考えの中には、かつて儒家が指摘した考え方の痕跡はほとんどありません。つまり、皇祖皇宗と御一体となられた方に、不徳または非徳という指摘は及ぶべくもありませんから、前期水戸学の儒者たちの直接的批難をかわすことができています。
 しかし、かつての誤った歴史を正した上で、天皇とは如何にあるべきかという設問に答えるためには、古代の文献、古事記、日本書紀、万葉集などを言語学的に正しく理解した者、主として国学者たちの研究をまたねばなりませんでした。小林秀雄(1902―1983)は文芸評論として『本居宣長』を11年かけて執筆し、さらに『本居宣長補遺』を3年かけて完成させましたように、宣長(s)1人を深く知るためには気の遠くなるような知的探究の営みをつづけなければならないと教えられます。宣長が『古事記伝』を35年かけて執筆したことを思えば、小林秀雄の14年に及ぶ、心の巡遊とでも評したいような営みが、宣長の国学の空間理解には必要であったということでしょう。

 大日本帝国憲法第1条に「万世一系ノ天皇之(これ)ヲ統治ス」とあり、第3条に「天皇ハ神聖ニシテ侵(おか)スベカラズ」とある皇位(天皇の地位)は「告文」に言う「皇祖皇宗ノ神霊」によってもたらせられるものですから、文部省の『国体の本義』の「現人神」使用の根拠となった考え方です。したがって、文部省はその説明として、前の引用部のあとで、「天皇は祭祀によって、皇祖皇宗と御一体とならせ給」う、と断定せざるを得なくなりました。
 その祭祀(お祭り)とは即位されて最初に行われる新嘗祭(にいなめのまつり)、つまり、現在では大嘗祭(だいじょうさい、古くはおおにえのまつり)を直接的には意味します。(注2).それは、新帝の御代に一度きりの大祭で、深夜に新帝親ら天照大神を悠紀殿(ゆきでん)と主基殿(すきでん)で二度丁重にお祭りされるものです。悠紀は斎酒(ゆき)のことで神聖(ゆ)な御酒(みき)を語源とします。主基は「次(すき)」とも表記される例がありますから、悠紀殿に次ぐお祭りを行う建物(殿)の意味で「すき殿」と言います。同じ内容の神事を丁重に繰り返し行うことが、上代以来の大祭の要諦です。伊勢の神宮の三節祭(さんせっさい、みおりの祭り)は、夜中に宵の儀と暁の儀の二度、丁重に盛大なお供物をして皇大神宮(内宮)では天照大神をお祭りします。お供えする物を由貴大御饌(ゆきのおおみけ)と言います。悠紀殿のユキとここの由貴は、上代特殊仮名遣いでは同語で、神聖な御酒(みき)のことです。大御饌は立派な盛大な食物(け)のことですから、由貴大御饌は、神聖な御酒に沢山の立派な食物を添えた奉り物という意味です。
 問題は盛大なお祭りを享けていただく方は誰方かという点です。昭和12年(1923)7月19日、平凡社から刊行された『神道大辞典』は、今日に至ってもこれを越えるほどの考証を示している神道関連の辞典はありませんし、『国体の本義』刊行と同年でもありますから、次に引用します。

  大嘗祭
 天皇即位の後初めて新穀を以て、皇祖天照大神を始め奉り、天神地祇を祭らせ給ふ御儀式。その主旨に於ては、毎年の新嘗祭と異る所なけれど、御代始に行はせ給ふを大嘗祭といひ、毎年行はせ給ふを新嘗祭と称して区別する。(以下、名称、沿革、制度、等々の項を略す)。

 大嘗祭は天照大神と天神地祇(テンシンチギ、あまつかみ・くにつかみ)の来臨を前に行うお祭りとすれば、そこに皇祖の神はともかく皇宗の歴代皇霊が降臨または招魂されていると考えるのでしょうか。天神は「あまつかみ」と呼び、高天原に生まれられた神または高天原から葦原中国(あしはらのなかつくに)に天降られた神々を意味し、地祇とは「くにつかみ」と呼び、この国土(中国)に天降られた天神(あまつかみ)の子孫、または初めよりこの国土に生まれた神を言います。例えば、伊勢の大神、賀茂の神などは天神であり、出雲の大神、葛木の大神などは地祇とされます。
 大嘗祭の殿内のしつらいを見ますと天神地祇を迎える調度などは見当たりませんから、新帝が皇祖と一体となられることはあっても、「皇宗と御一体にならせ給」うことの根拠はありません。日本民俗学の創始者、柳田国男は御衾(みふすま、寝具)・坂枕(さかまくら)などを設けて迎える神はただ一座、つまり皇祖の神に他ならないと指摘しています。新帝が大嘗祭で、その皇位に付与されるのは、天照大神の御魂(みたま)あるいは神威(かみのみいきおい)と推定するのが穏当かと考えられます。いずれにしても、「皇祖皇宗と御一体であらせられ」ることをもって、現人神と説くのは無理なことでした。この文部省の作文を支持していたのは、国学よりも崎門学を尊重する学識者であった疑いがあります。明治維新後亡びたと思われていた前期水戸学や崎門学の学統は、文部省の御用学を形成したり、国家神道とのちに名付けられる官僚神道をも生み出したと見られますが、近年この種の厳しい批判的研究成果をほとんど見ることはありません。
 漢語に神人(しんじん)とあり、ひとつの意味はキリスト教のイエス=キリストのことです。支那での伝道では天主(デウス)を神(しん)と翻訳していましたから、神人もそこで生まれた語と思われます。今(ひとつ)の意味は、『大漢和辞典』(諸橋轍次著)の巻八に7世紀の宋順帝が「姿貌端華、眉目如画」ゆえに「神人」となった、と伝えていることが現人神の考えに近いようです。
 しかし、昭和21年(1946)1月1日の「年頭の詔書」(人間宣言)では現人神否定宣言?がなされました。

 朕(ちん)ト爾(なんじ)等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、云々。以下略。

 誰が作文したかは問う気もありませんが、”天皇と国民との紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによって結ばれてきた”との文言は、日本国憲法第1章「天皇」の第1条に、

 天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 とあるところと表裏をなすものです。”終始相互の信頼と敬愛とに結ばれてきた歴史”とは、崎門三傑が聞くならば一笑に付すでしょう。つまり、非徳、不徳と批判されてきた天皇がなぜ永続しているのかは、あるべき天皇の正統性を考慮しつづける限り、実は正答がないのです。のちに詳しく述べますが、一言で言いおくならば、天皇が永続性を保持し得るのは、大嘗祭や新嘗祭といったお祭りを行うというシステムが保証しているのです。むしろ、”単なる神話と伝説”によって天皇と国民との紐帯は生まれたものではないとするくだりは、何かのプロパガンダとしか評しようがありません。古事記や日本書紀、風土記や古語拾遺などで伝えられる神々の記述を指して、”単なる”と切り捨てたつもりの傲慢さが、どれほど多くの遠い世の人々の記憶や失ってはならない心のありようを生き埋めにしてしまっていることでしょうか。国史や日本史を学ぶ者が、「神代」の伝えや風土記の神々の物語を、わが身の内に伝えられてある記憶について知らないという理由だけで、”単なる神話と伝説”などと言っては恥しいことです。記紀や風土記が神々を主語として語り、伝承している背景には、必ず神を奉じて生きている集団、私たちの遠い無数の祖先が存在しています。神が道をつけたと聞けば、その神を奉じている人々の集団が働いていたと考えるのが”神代”の伝えであり、主語が神であるから架空の物語りと速断するのはいささか近代人の驕りというものではないでしょうか。
 現御神や現人神は、最も尊い行為を行うことのできる人を”神”として崇める言葉ですから、わざわざ詔書で言挙げすることこそ無用のことでした。それよりもむしろ、現憲法第1条の「主権の存する日本国民の総意に基く」天皇の地位こそ問題視されるべきです。「主権の存する国民の総意に基」かない日が来たら、天皇の地位(皇位)は「国民統合の象徴」ではなくなると規定されていると読むのは誤りでしょうか。

 山本七平氏が「現人神の創作者たち」を20年以上かけて探索し、1冊の書籍として刊行されたとき、やはり納得の行かなかったのは「神」の一語ではなかったでしょうか。山本七平ライブラリ―(平成9年、文芸春秋刊)16の『静かなる細き声』の『あとがきにかえて』で、令息・山本良樹氏が印象深い思い出を認めています。

 10代の終わり頃、父に尋ねた事がある。
 「父上、戦場に『神』はいたかい」
 「いた」とのみ、父は答えた。
 昭和21年、自らの率いる部隊が全滅した中で、1人だけ生還した父は、故国の地を踏んだ。

 戦場に「いた」と実感した「神」は、日本の神ではなく、まして現人神でもありません。私は山本七平氏が「いた」と断言する「神」をでうす(Deus)または天主に変更してほしいと少なくとも半世紀以上にわたって願ってきました。

 

  6.忘れられた植民地主義

 古文書の読解力を培うため、大学の演習室にあったみかん箱一杯の古文書の束は、そのほとんどが寺請証文(てらうけしょうもん)で、寺院が檀家であることを証明した手形、宗旨手形とも呼ばれるものでした。文言はほぼ同じもので、「吉(切)利支丹(キリシタン)にても転び人にても、御座無く候ふ」が紋切型の主文でした。”転(ころ)び人”は、キリシタン信仰を捨てた者で、転び伴天連(バテレン)や転び伊留満(イルマン)は、宣教師や修道士の改宗者を指しました。江戸時代を通じて、寺院は幕府に協力することにより、神仏習合(仏が主、神が従)の成果は寺院の繁栄をもたらしましたが、儒学者たちにはその教学的不整合を指弾されることがたびたびでした。周知の通り、慶応4年(1868)3月28日、寺院の支配下にあった神社から仏具・仏像等を除去するよう布告(神仏判然令)がなされたところ、布告の意図とは異り、廃仏毀釈の運動が全国に及び、仏教や修験道は大打撃を受けました。
 天文18年(1549)イエズス会(耶蘇会・やそかい)宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島にカトリックを伝え、南蛮宗・伴天連(バテレン)宗などと呼ばれ、幕府法令では寛永14年(1637)・同15年の島原の乱まで伴天連門徒の語が一般に使用され、そののちポルトガル語を語源とする吉利支丹(キリシタン)が定着しました。延宝8年(1680)徳川綱吉が将軍となってからは、吉の字が避けられ、吉利支丹は使用されなくなり、切支丹などと表記されるようになりました。
 16世紀から17世紀初頭にかけて、アジアの脅威となるのが植民地主義者による侵略です。「分分夜話・第8話」に引きました、天文元年(1532)にインカ帝国は、たった180人のスペイン人によって征服されましたことも16世紀が植民地主義者の侵略開始の世紀であり、プロテスタントに対抗して、ローマ教皇の公認のもと男子修道会・イエズス会が東洋布教に力を入れ始めた世紀でもあります。西欧諸国が東インド(喜望峰以東・マゼラン海峡以西の地域)経営のために設立した特許会社・東インド会社は、貿易独占権を持つとともに、植民地を経営することになり、イギリス(1600年設立)、オランダ(1602年設立)を始めフランスなどが植民地経営、すなわちアジア侵略に躍進するのが17世紀です。
 16世紀から20世紀にわたる植民地主義との対決は、わが国においても最重要の歴史的課題ですが、例えば『日本史辞典』(角川学芸出版刊)は何版を重ねているのか、私の手元の6版(平成20年刊)には、植民地や植民地主義の見出しはありません。このことは、現在最も収載項目の多い吉川弘文館の『国史大辞典』(全14巻、項目5万4千件)もまた同様です。16世紀からのわが国の歴史を考えるとき、最も大きな脅威として意識されてきたはずの植民地主義について近世近代史の重要事項として語ろうとしない”日本史”や”国史”は果たして日本の歴史学の成果を正しく吸収しているのでしょうか。
 私は大学生のころから15回を越す引越しをしてきたため、蔵書はその都度、処分または紛失、寄贈により、今は見る影もありませんが、それでも手元に残ってきた植民地主義に関する書物があります。

 欧米人・亜細亜侵略の歴史  佐藤正午著
  昭和8年、大同館書店刊
 亜細亜侵略史        高橋勇著
  昭和16年、霧ヶ関書房刊
 東亜植民年表        河上光一著
  昭和19年、創元社刊
 桎梏の印度   原著者、J.T.サンダーランド
         訳者  ラス・ビハリ・ボース
         同   田辺宗夫
  昭和8年、平凡社刊

 おそらく戦前には、この種の学術的批判に耐え得る植民地主義の歴史やその残酷な悲史についての出版物は沢山あったと思われます。
 しかし、この70年の間には、興味関心のない研究テーマとなり、その結果、植民地主義とは如何なる侵略を意味するのか、アフリカ、アジア、南北アメリカの諸大陸への植民地主義者による侵略史、またその終焉を歴史的に如何に判断するのか、さらに、植民地主義と伝道・布教の歴史、等々今なお世界史の大課題として存在しているばかりか、そのわが国への影響を考証するという作業もなされていません。
 文部省が『国体の本義』で説いたような”現人神=天皇”の考え方は、すでに遠く江戸時代、17世紀の先鋭的儒学的たちが”あるべき天皇像、あるべき国史”を論じて行く中で、儒教的観念論を後期水戸学や崎門学に遺しました。その結果、やがて近代になって、古代の発想にはなかった、観念的な現人神が創作されました。儒教的観念論を宣長は「漢意(からごころ)」と断じ、鈴木重胤はそれを「理窟」と説明しました。
 素行(e)の『中朝事実』を自費で630部活版印刷し、観瀾(m)の『中興鑑言』を自筆書写し、50部石版印刷しました乃木希典大将は、大正元年(1912)9月11日、東宮御所において皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)・雍仁親王(後の秩父宮)・宣仁親王(後の高松宮)に拝謁し、その二書を奉呈しました。2日後の9月13日は明治天皇の御大葬が行われ、乃木大将夫妻は殉死されました。「天子の明徳を中朝たるこの国全土に明らかにしたまう」(『中朝事実』注3)のが天皇即位の意義に他ならないゆえに、「後醍醐天皇が、奥向きの行儀がおさまらず、ご寵愛の婦人の言うままに政治を行われた」(『中興鑑言』注4)失徳の行いを厳に慎まなければならない、といったことを深く学習たまわらむことを願ったのでしょう。

注1.
『明治文化全集』第11巻・宗教篇、P252.昭和3年(1928)、編集代表者、吉野作造。

注2.
1)大嘗祭について数多の研究書が公刊されていますので、穏当な所論で構成されている岡田莊司著『日本神道史』(平成22年、吉川弘文館刊)を参考用としてあげておきます。
2)神宮式年遷宮については、小堀邦夫著『伊勢神宮のこころ、式年遷宮の意味』(平成23年、淡交社刊)を参照して下さい。

注3.
『中朝事実』の現代語訳は、荒井桂著『山鹿素行中朝事実を読む』(平成27年、致知出版社刊)参看。

注4.
『中興鑑言』の現代語訳は、注3の『中朝事実』とともに、『かたくなにみやびたるひと・乃木希典』(平成30年、展転社刊)に一部収載。

(令和2年8月25日記)

funpun・yawa
mudou raisei
vol.9-2



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