英霊に捧げる手紙(全19通)
第13通・「小林家再興、孫・曽孫は8人です」
小林 敦子(愛知県小牧市)
お父さん、私は今日までお父さんにいつも助けられ、励まされてきました。
車の免許証の中にお父さんの写真を入れて持ち歩き、困った時には、「お父さん助けて」、良いことあったときには「お父さんのおかげです。お父さんありがとう」と、いつも話しかけています。
お父さん、3年前に探し求めていたフィリピンから届いた手紙の束が見つかりました。お母さんが旅立たれた後、遺品の整理をしていて、箪笥の底から出てきました。お母さんは再婚先に気を遣い箪笥の奥深くしまい、病のためその場所を思い出すことができなくなっていたのでした。
「敦子は歩くようになったか」、「風邪をひかせないように気を付けてくれ」など私のことを気遣うお父さんのことばがいっぱい書かれていました。
7ヵ月でお別れしたお父様がどんなに私のことを思っていてくださったか、胸にしっかり伝わってきました。お母さんは、私を育てるため親戚の勧めにより遠縁にあたる義父と再婚しました。しかし、私に小林家を再興させ、小林家を継がせることが自分の役割であると堅く心に決めていました。そのため私を母の嫁ぎ先の籍に入れずに同居人として育ててくれました。
お母さんは、お父さんから託された”私が小林家を再興して小林家を継いでいく”という思いを叶えることだけを、自分の使命として生きてきました。お父さん、そちらでお母さんに会われたら褒めてあげてくださいね。
お父さんがどのように生きて、遠い戦地「セブ島」で亡くなられたかを孫に伝えていくのが、1人娘の私にしかできない役割であると思い、定年退職後、お父さんの足跡をたどって「父への旅」を出版しました。本はお父さんが亡くなられたセブ島の山中に埋めてありますので、きっと読んでいただけたと思っています。
脳梗塞になった母は字が読めなくなっていたのですが、枕もとにいつも「父への旅」を置いて、お父さんの写真のページは繰り返し眺めていたお母さんの手垢で真っ黒になっていました。
今ではお父さんの孫が4人、曽孫4人になりました。お父さんの思いは孫である長男にちゃんと伝わっています。自分は小林家の跡取りという気持ちをしっかりもっていてくれます。
お父さんに「よくがんばったね」とほめていただきたくて一生懸命がんばって生きてきました。これからもお父さんに力をいただきながら、がんばって生きていきます。
〔小林さんの父・小林朝雄第35軍付法務官は昭和20年8月17日、セブ島で戦死。〕
(こばやし・あつこ)
第14通・「お父さんが撮った私と母の写真」
高木 美子(東京都練馬区)
小学校3、4年生の頃だったと思います。お父さんの事を知りたい思いに駆られ、小坂部の祖父に手紙を書いた事があります。
お父さんの故郷の坂部の山は空港ができて形が少し変わり、高速道路も通るようになりましたが、田んぼの中にある静かな情景は少しも変わっていませんよ。母は私達姉妹を自転車に乗せてよく連れていってくれました。実家に戻った母は、本屋、駄菓子屋、時にはパチンコ店までして私達を育ててくれました。私も子供の頃はよく店番や本の配達など手伝いましたよ。私の心の中には常にお父さんへのあこがれの様な会いたい気持ちがありましたが、子育てが一段落した頃から特に強くなった様に思います。ある日の新聞の戦友欄から独歩13連隊の遺族会長である鈴木重秀様に辿りつきました。そして翌年のレイテ島慰霊巡拝に妹と一緒に初めて参加させていただきました。昭和61年3月でした。その後の2回はルソン島に眠る安男叔父のもとへも行く事ができました。
一方、満州林業に勤務していた事がわかって新京へ行ってみたい気持ちはずっと持っていました。満林の本社がある新京。住んでいたと思われる梅ヶ枝町。3回目の中国への旅でようやく実現したのは平成17年9月でした。北京の頤和園(イーヘエユェン)で2歳半の私と母の写真を撮ったのはお父さんですね、その写真を持って私は娘と同じ場所で撮る事ができました。その感激が忘れられません。写真を残して下さって本当にありがとうございました。他にも雲崗(ユィンガン)の石窟と、第10中隊長をしていた清水河(チンスエヘエ)の山々の形は50年以上たっても同じでしたよ。水がきれいなところで広々としていて。
私達は母の再婚のおかげで4人姉妹となり、時々連絡し合っては仲良くしています。伊故海の姓を継ぐ事もなく、お父さんが目指していた弁護士の道を歩む者もなく申し訳なく思っておりますが、みんな幸せに暮らしています。かわいい孫の写真を目の前にしても、「お父さんに会って声をかけてほしい」です。どんなに年をとっても。
〔高木さんの父・伊故海正男中尉は第26師団独歩13連隊第10中隊長。昭和19年12月22日レイテ島ブラウエン西方で戦死。〕
(たかぎ・よしこ)
第15通・「無言館で年雄兄さんを偲びます」
鳥屋 ヨシ子(北九州市小倉南区)
清二兄さん、年雄兄さん、バギオの小学校の同窓会が編集した綴り方文集の中に2年生だったヨシ子の作文と兄妹3人の写真が掲載されましたよ。
私はおにいさんがすきです。にいさんはときどきかへって来ます。私はにいさんがかへってくるまでたのしくまってゐます。にいさんはうちへかへってくると、すぐともだちの所へいきます。にいさんはきのふうちへかへってきました。さうして、けさはやくしごとをしにいきました、私はさやうならと大きなこゑでいひました。
10歳も年が離れていたのですから、私と遊んでもつまらなかったのでしょうと今では思っています。
大分から移民で来た父母と、21歳の姉文子と13歳の私と4人が陥落直前のバギオを脱出しました。在留邦人では1番最後でした。繁華街セッション通りに写真店を開いて成功していた父はバギオを離れたくなかったのでしょう。でも爆撃で店は破壊され、何もかも失ってキヤンガンの奥まで地獄の逃避行を続けました。父母とも病に倒れ、父は7月25日、母は8月22日、山の中で亡くなりました。父の墓は兵隊さんが掘ってくれましたが、母の遺体は姉と2人だけで父の墓のそばに穴を掘って埋めたのですよ。気の強い姉がいたから出来たことと思っています。
清二兄さんも年雄兄さんもその前に戦死していたのですね。現地召集された清二兄さんは、ずっと一緒だったバギオの同級生がバナウエからフンドアン方面へ向かうウハという村で部隊から落後したのを目撃しており、姉が亡くなる前に、そこまで訪ねて行ってお線香を上げて来ました。私も誘われたけど家の都合で行かれず、すみません。
年雄兄さんが日本へ帰ったのは知っていたけど、東京の美校に入ったことは知りませんでした。都城の歩兵第72連隊に入り駐屯先の北満ハイラルからの街の雪景色や、スケート靴のかわいい少女がステーンと尻もちをついた姿を、兄さんの描いた軍事郵便はがきが届いたのを良く覚えています。大事にしていたのに山中逃避行の際失くしてしまいました。それとルソン島へ来てから、バギオへ行く公用兵に頼んだ絵具箱が無事我が家に届き、驚いた父がベンゲット道を下って、やっとウルダネタで部落を捜し当て親子対面が叶ったのでしたね。
72連隊の戦友会の方々は皆さん親切で、年雄兄さんが米軍上陸早々のリンガエン湾ラブラドルで戦死したことを調べていただきました。兄さん、ヨシ子も絵が好きですよ。巡回美術展がやって来るとよく観に行きます。信州上田にある戦没画学生の作品を集めた無言館は、開館した時から気になっていて、いつか行って見たいと思っていたから間もなく実現します。今秋の曙光会の1泊旅行が上田で無言館も予定に入っています。兄さんの絵は残っていないけれど、戦時下の画学生たちがどんな絵を描いていたのか見て、兄さんのことを偲びたいと思っています。
〔鳥屋さん一家はバギオの在留邦人で、大分県出身の父・谷水松吉・母よねさんは逃避行中に病死。長兄・清二さんは現地召集、次兄・年雄さんは日本で第23師団(旭兵団)に入隊、共にルソン島で戦死した。〕
(とりや・よしこ)
第16通・「父上、あなたの知らない話三つ」
牧野 弘道(千葉県成田市)
父上の33回忌を済ませた2日後、卒然として心不全で逝った母辰江、長姉礼子は乳がん、次姉道子は脳腫瘍、そしてあなたの代わりに戦後の牧野家を支えた兄一虎もまた医者の不養生で前立腺がんでそちらへ参り、もう我が家の戦後については十分話を聞かれたことと思います。私も昨年肺がんにやられましたが、手術成功、再発・転移もなく弟、妹と共に元気です。
父上、あなたの知らない話を三つ程。タクロバンで官舎で使ったラフラーガ邸の孫息子フレディを覚えていますか。彼は、私が慰霊団長としてタクロバンに着いたのを地元のラジオ放送で知り、訪ねてきました。「私にはお前と同い年の息子がいる」と可愛がられて官舎での昼食に席を許されたり、父上の飛行場巡視に同行して飛行機のコックピットに乗せてもらった思い出話などを次から次へと興奮して話してくれました。乗った戦闘機はオスカー(隼)、爆撃機はヘレン(百式重爆)と自分で調べたほどの大変な軍国少年だったようです。比国陸軍の情報将校として活躍した退役軍人で、その後も文通を続けましたが、2年前に亡くなりました。
次に、父上の副官が次々と戦死した後、私設副官に任命した参謀部付で大阪外語出の櫟(いちい)賢哲予備少尉。櫟さんは逃避行の途中落後して捕虜になり、戦後は滋賀県の名門校彦根東高の英語教諭を長年務めました。退職後に私家版「私の戦争」を発表していただいたお陰で、山籠もり後の父上の行動をよく知ることが出来ました。早く亡くなったので、またそちらで話し相手に呼びつけているのではないですか。
もうひとかた、通信の北村壽治軍曹を覚えていますか。私は今、比島戦の生還者と遺族の集まり「曙光会」機関紙の編集長を務めており、その縁で知り合った北村さんに面白い話を聞きました。内地からの大相撲中継がよく聞こえないということで、官舎のラジオ修理に出向いたら、父上に内地から送られてきた和菓子を振る舞われたそうです。レイテからマスバテ島分遺隊へ異動になって生き延びたことで父上に恩義を感じておられ、最近よく地元奈良名産の富有柿を送ってくれました。たまたま来宅中の弟正弘とその柿をいただきながら、弟がひねった一句。
柿好きの父に無かりし余生かな
北村さんも昨年95歳で亡くなりました。父上は52歳の生涯。私は今年傘寿、弟は喜寿を迎え、お陰様で余生を楽しんでおります。
〔牧野さんの父・牧野四朗中将は第16師団長。昭和20年7月15日、レイテ島カンギポットで戦死。〕
(まきの・ひろみち)
第17通・「飛べ! バタンガスのバラよ」
クリム 洋子(ハワイ在住、日系三世)
お父さん、洋子です。あなたが戦地に行かれた時、私はまだ2歳でした。でもこの70年間、あなたはいつも私の心の中にいて私を支えて下さっていると感じています。4人姉妹の3番目の私は、あなたに1番良く似ていると言われ育ってきました。
お父さんの遺骨も遺品もないフィリピンの地を30年前に訪れた時に、私はバタンガスのバラの花をお父さんと見立てて持ち帰るという不思議な体験を致しました。私はそのバラの花をハワイで待つお母さんに、これがお父さんですよと言って手渡しました。今回、私にとってこの不思議な体験を「曙光」の皆様にもご紹介させて頂きたく筆を取りました。
1985年、主人のドンと私は、当時フィリピン在住の主人の兄ビルと奥さんのアンの招待を受け、フィリピンを訪ねる事となりました。当時フィリピンでは反マルコス政権のデモが頻発し、そうした状況下での訪問には気が進みませんでした。しかし、お母さんからお父さんが戦死したフィリピンを訪ねるよう促され、私の気持ちが変わりました。そしてフィリピンのどこでお父さんが戦死したのか訊ねたところ、お母さんは特定はできないがバターンかバタンガスではないかと申しました。いずれにしても私はフィリピン滞在中現地に出かけ、お父さんの霊を慰めるため何か特別な事をしたい旨お母さんに約束しました。
ビルとアン夫婦が最初に案内してくれたのは、マニラの南方バタンガスにあるタール湖ロッジという所でした。海抜千フィートの高地にある美しいバラ園のような場所でした。大きな中庭にはテラスが階段状に並び施設の境界の柵まで続いていました。柵の向こうには遠く活火山を抱くタール湖の素晴らしい景色が広がり、更にその先には南シナ海を遠望する事が出来ました。
私は、この場所でお父さんの霊を慰める事を決意しました。ピンクがお母さんの好みの色でしたので、私はピンク色のバラをみつけ、「花を摘み取る事を禁じる」との警告板があった事を知りつつも内緒で摘み取り、夫とビルとアン夫婦が待っていた柵の所に行き、両手でバラの花を包むようにしてお祈りし、そしてバラにキスをして柵越しに投げました。するとしばらく風にあおられ空中を舞っていたバラの花が急に私の方に向かって戻ってきました。側にいたドンやビルそしてアンではなく、私の所に戻って来たのです。私は大変驚きました。
私は再度、心に込めてお折りしバラにキスをして柵の向こうに投げてみました。数秒間空中に舞ったバラは再度私の元へ帰って来たのです。これを見て、義姉のアンは何か特別な意味があるのではないかと申しました。
その晩、私は戻ってきたバラの花を紙表紙本に挟んで押し花にし、ハワイの家族に旅の楽しみと同時に不思議な体験について長文の手紙を書きました。手紙の末尾にはバラの花と共にお父さんの魂も持って帰りますと書き記しました。
私たちの休暇旅行はこうして今まで経験した中で最高の旅となり、これもお父さんのご加護の賜物と思われてなりません。帰宅したところ、姉のジョイスがフィリピンから送った私の手紙を読んだお母さんが大変感激し、そして涙したと話してくれました。
持ち帰ったバラの花は、丸いゴールドのフレームに入れお母さんの部屋にあった仏壇に飾りました。1995年にお母さんが亡くなった時には、我々が名付けた「バタンガスのバラ」はお母さんと共に棺に納めました。
お父さん、このようにしてお父さんとお母さんは2人で愛したハワイの地で永遠に一緒になられたのです。今年の5月には、第二次世界大戦終戦70周年と共に、お父さんの私たちへの深い家族愛と国家への献身を偲び、私たち姉妹で特別な「人生の祝」となるイベントをハワイで企画致しました。又、ハワイの菩提寺にある墓地には、お父さんとお母さんの2人の名前を刻印した新しい墓標を設置致しました。おかえりなさい、お父さん!
お父さんとお母さんは、これからもハワイ、アメリカ、そして日本で暮らす子供たちや孫そしてその後の親族にとってかけがえのない心の支えとなって忘れ難い存在になる事と思います。
〔クリム洋子さんは曙光会員ジョイス津野田幸子さんの妹。父西村幸生さんは三重県出身で第8師団歩兵第31連隊所属。昭和20年4月3日ルソン島バタンガス方面で戦死。戦前のタイガースのエースで巨人キラーとして鳴らし、野球殿堂入りした。〕
(くりむ・ようこ)
第18通・「つながり」
阪本 征夫(枚方市楠葉並木)
親父からお袋宛のかすれて読めない戦地からの葉書きの判読をテレビ局へ持ち込んで、早いものでもう3年が過ぎようとしている。
8年前最後を看取ったお袋の遺品の中から見つけた鉛筆書きの上、何度も、指でなぞりながら読んだと思われる。古びた葉書きの文中に、お袋のお腹の中に、私が生きづいている事を親父が知ってくれていた事が、古文書解明が専門の文化財研究所の方々のご協力で読み取れた時は、生まれた時から、父親の存在のなかった私にとって体中に電流が走り、一気に距離が縮まり、胸が熱くなったのを思い出す。
多分、今はそちらで2人仲良く昔の事や、私…息子の話をしている事と思う。
戦争末期の昭和20年生れの、私の69年の人生は、何度も困難な局面にぶち当ったが、その都度色んな人達に、お世話になり、助けていただけ、こうして今日という日を迎えられている。
今にして思えば、親父も又、私を見守り続けて、助けてくれたものと確信している。
そんなある日、NPOの仲間が主催するウォークに参加した。そのコースのゴール地点のほんそばに、偶然にも、親父の入隊した工兵聯隊跡に残っている正門にめぐり合うことが出来た。これも又、親父からのメッセージ…何かを感じない訳にはいかなかった。
そして、その門の前で仲間が記念になると言って写真を撮ってくれた。
後日「亡き父君の入営された正門の前に、70年の年を経て、立たずむ息子」のタイトル付きのパネル写真を、プレゼントしてくれた。
仕事を息子に譲り、第一線を退いたここ何年かは、念願であった靖國神社への参拝も出来ている。
今年は親父の70回忌、それを機にお墓もきれいにさせてもらった。その折、お世話になった石屋さんの嫁さんが、私の中学時代の同級生であった事には、少々おどろかされたが…。そう遠くない将来、私も親父達のいるあの世とやらへ旅立つ。
その時「よくやった、良い人生を送ってくれた」と頭を撫で、抱き締め、誉めてくれるだろう。
そして私自身、ようやく親父に会えたよろこびにひたれる日が、訪れる事となる。
〔阪本さんの父・阪本作治さんは独立工兵第65大隊。昭和20年3月17日、レイテ島オルモックで戦死。〕
(さかもと・いくお)
第19通・「靖國に眠るお父さんへ」
田村 治子(千葉県稲毛区)
「おなつかしき敏治様、永い永い間本当に御苦労様でございました。元坊も治子もそして母ちゃんも此の日をどんなに待った事でしょう。毎日電報の来る日を待って、最早2年。私達は21年6月12日、佐世保に上陸し元気でいます。」
お父さん、お母さんはこの手紙を舞鶴引揚援護局宛に毎年贈っていましたよ。もしや舞鶴ではないかと夢みて待って、待っていたのですね。その手紙の束が、返送の付箋が貼られてタンスの奥にあったのを、私はよく覚えています。今は弟と私で半分づつ大切に持っています。1枚1枚、天国のあなたへと言える程に素晴らしいラブレターですよ。
私の名前は、お父さんの敏治の一字から名づけてくれたのですね。私はこの名前が大好きです。誇りです。
ここに1枚のセピア色した写真が残されています。裏にはきれいな毛筆の字で、大林敏治33才、芳江28才、治子2才、元太郎3ヶ月と記されてあります。お父さんが出征された昭和20年5月ですね。お父さんの目は覚悟を秘めた様子。母は寂しさを耐えている様子に写っています。お父さんは終戦間近に迫る20年5月に満州の奉天から出征し、8月7日のソ連との開戦で負傷されたのですね。しかし松山の実家に引揚げて来た私達母子は、昭和33年7月の死亡告知書が届くまで、お父さんは行方不明でしたので、留守家族として生きて来ました。母子家庭としての母の苦労は筆舌に尽くし難い、幾度も山路を越える道程でした。けれども私は父に会える日を待ちに待って希望をつないで15才まで一生県命生きてきたのです。「父をたずねて三千里」を夢みていつか日本国中を捜しにゆこうと描いてきました。私は父の戦死の公報の現実を受けとめる事ができませんでした。戦争ゆえの悲劇と人生の矛盾をどこへぶつけたらいいのか答えのない道に苦しみました。そんな時、聖書をむさぶる様に読み始めました。17才の夏の夜の事でした。お父さんが虹を渡りつつにこにこと「治子大丈夫だよ」と手を振って夢に現われてくれたのです。その時に私はお父さんは天国に居るのだと確信したのです。それからは、お父さん達の崇高な犠牲の上に今日の日本がある事を忘れない生き方をしたいと心に誓い、願って、祈っています。
お父さん心からありがとうございます。
かしこ
平成26年8月13日
〔田村さんの父、大林敏治さんは、昭和33年7月24日付の死亡告知書には、歩兵第246連隊陸軍兵長とありますが、舞鶴引揚援護局への回送手紙には、満州第20320部隊竹島隊とあります。〕
(たむら・はるこ)
英霊に捧げる手紙(全3回・19通)
●6月15日
第1通・「顔も知らないお父様へ」小川晴子
第2通・「おじいさんのお話聞きたい」甲斐聡美
第3通・「災難続きを克服して」九ノ里俊一
第4通・「お父さんへ」谷口芳枝
第5通・「父が帰って来た夢を見る」土屋房子
第6通・「お父様に申し上げる言葉」新田和子
●7月6日
第7通・「恋しさ募るお父ちゃまへ」本間尚代
第8通・「父さん、母さんは103歳で元気よ」大田旬子
第9通・「父さんのおこころ、私の大切な宝物」大脇芳子
第10通・「命日の八月一日は靖国神社へお参り」荻原悦子
第11通・「一緒にお酒も飲みたかった」金森武士
第12通・「一通だけ残る手紙に私宛の訓戒も」亀井亘
●7月13日
第13通・「小林家再興、孫、曽孫は8人です」小林敦子
第14通・「お父さんが撮った私と母の写真」高木美子
第15通・「無言館で年雄兄さんを偲びます」鳥屋ヨシ子
第16通・「父上、あなたの知らない話三つ」牧野弘道
第17通・「飛べ! バタンガスのバラよ」クリム洋子
第18通・「つながり」阪本征夫
第19通・「靖國に眠るお父さんへ」田村治子
*曙光会は、フィリピン戦従軍者と戦没者遺族を中心とした者の集りで、戦争体験の記録と日比友好親善を目標としています。
