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魂の行方、国の行末 無動来西
遺族の遺言

英霊に捧げる手紙(全19通)

  第7通・「恋しさ募るお父ちゃまへ」

本間 尚代(東京都世田谷区)

 8歳の私の頭を撫でながら寂しくなったら靖国神社に会いに来なさい、お父さんは何処にいてもお前のことを見守っているよと別れたのは昭和19年3月末のことでした。故郷の祖母に私を預け、お父ちゃまが東京に帰る日の朝のことは70年経った今でも脳裡に焼き付いて決して忘れることはありません。お父ちゃまの温もりに抱かれた1週間、別れが近づくにつれて心細さから無口になる私でした。そんな私の気持ちを引き立てようと楽しく過ごした日のことも話しかけてくれるお父ちゃまでしたが、口を開くと泣き出しそうなので、じっと唇を噛んで頷くだけの私でした。
 後になって考えてみますと父だってどんなに寂しかったでしょうに。3度目の召集が待っていたのですから生きて還ることはないと覚悟の別れのはずでした。最後に口を開いてあげられなかったことが申し訳なく、唇の痛みと共に思い出されます。
 その後は辛いこと、悲しいこと、くやしいことも沢山ありました。その都度小さな胸を痛め父と対話をして来ましたが、私の心の叫びが聞こえて導いてくれていたと信じています。疎開っ子とイジメられ、戦後は戦争加担者の娘と言われなき差別にも遭いながら、眠る間もなく働いている母には一言も話すことなく胸にしまって辛抱しました。お陰で逞しくなりました。
 ある時マニラ航空廠本部で父と机を並べていたタイピストの近藤未希さん(旧姓・大塚)他と靖国神社参拝の折、私はおとなしいお嬢ちゃんだったので、今の私とどっちが良かったかなと呟くと、隣にいた近藤さんが、おとなしくメソメソしていてはお父さんが悲しまれる、今のあなたを御覧になって安心されていると思うわと言っていただきました。
 母方の祖母、姉妹一族には大変お世話になりましたが、母をはじめみんなそちらに旅立ちました。最後の晩の床の中で、私達姉妹4人に託す父の夢を聞かせてもらい、私は外科のお医者様と期待に緊張しましたが、戦後は貨幣価値が変わり、私への学資保険も1年間のお米代に化け、残念ながら誰もお父ちゃまの夢を叶えることは出来ませんでした。
 私がお父ちゃまの側に行った時は、人様に笑われないよう一生懸命生きて来ましたと報告しますので、良くやったと褒めて下さい。三十三回忌を終え母と初めてフィリピンに行ってから私のフィリピン病は治癒することもなく、夢でもよいからお父ちゃまに会いたいと毎年ルソン島巡拝をしているのに今だ心の遭遇もありません。8年という短い年月でしたが、お父ちゃまの娘として生を受けた私は本当に幸せでした。

〔吉田正下士官はマニラ陸軍航空廠威15311部隊所属。昭和20年7月20日ルソン島北部、マウンテン州バーリグで戦死。〕

(ほんま・たかよ)

 

  第8通・「父さん、母さんは103歳で元気よ」

太田 旬子(静岡県浜松市)

 お父さん、旬子です。最後に別れてから71年過ぎました。幼稚園児だった私は、父の船が入港すると電報を受けた母は、生まれて間もない弟を背負い、重箱にボタ餅を詰め私の手を引き面会に行く列車に乗って…。
 父はすぐ私を抱き上げ頬ずりし、両手に栗饅頭を持たせてくれた。学校に行く兄、姉、小さい妹は母方の祖母に預けて。面会に行くのは弟と私だった。
 たくさん描いた絵を入れた慰問袋を出すと、軍艦の絵ハガキで「一生懸命勉強して母を助けて立派な日本の国民になれ。お父さんも頑張っています」と書いてある。昭和18年のハガキです。
 父は昭和19年10月頃フィリピンへ。同20年5月10日戦死。同21年秋頃戦死の知らせを受けた母の悲嘆した姿、私は母が可哀想でならなかった。そうだ、父の死を無駄にしてはいけない、母を助けなければと一生懸命勉強した。そして必死で働いた。母の苦労は5人の子供を残され、戦中は母方の伯父の家、静岡の山奥へ疎開し、戦後は母の実家の物置小屋へ移り、衣食住なき暮らしは本当に大変だった。「お父さん、今、母は満103歳、元気ですよ」お父さんは天国で107歳、戦死した時37歳、本当に残念、やりきれないです。
 戦争はぜったい起こしてはならない。今のしあわせ、平和は靖国に眠る英霊の方達のお陰です。
 お父さんの戦死したルソン島へ慰霊に、平成24年2月に行かせてもらいましたが、すごい山脈が連なっていて、ウミライは遥か彼方、見る事も近づく事も出来なかった。側に行けなかったが、ルソンの山々に向かって大声で叫んだ。
 「お父さん、旬子だよ。会いに来たよ。70年間放っておいてごめんね」と涙が止まらなかった。私も79歳ですので来年またルソン島へ行きます。その前に靖国で会いましょうね。子供も孫も主人もみな元気です。守ってくれるお父さんのお陰です。ありがとうございます。
 大好きな父へ
 平成27年2月吉日
      みつこより

〔太田さんの父・平賀龍二さんは海軍マニラ東方防衛部隊。昭和20年5月10日マニラ東方山地ウミライで戦死。〕

(おおた・みつこ)

 

  第9通・「父さんのおこころ、私の大切な宝物」

大脇 芳子(東京都世田谷区)

 父さん、こんにちは、今は母さんと節子姉と一緒に穏やかで楽しい語らいの日々をお過ごしでしょうね、色々と想像しています。
 父さんは、大正14年盛岡高等農林を卒業し、朝鮮総督府に勤務して、昭和6年に母(なつ)と結婚したんですね。女の子3人、男の子1人の姉と弟を育てて下さいました。家族は充実した生活のはずが、2回も召集され戦い続けた大変な歳月でした。
 家族が多かったお陰で、大変な時も皆で頑張れたと何時も思っています。
 昭和19年2月、3度目の召集令状が届き、朝鮮二十三部隊比島派遣、翼第16645部隊に入隊で朝鮮忠清南道大田(デジョン)駅より、母や4人の子ども、大勢の人達に万歳万歳と旗を振って見送って頂いたと母や姉達から聞きました。3歳の私は何も覚えていませんので寂しい思いです。父さんのこと、母や姉達がいつも話してくれました。
「優しくて温もりのある、愛情いっぱいの素敵な、素敵な父さんだったよ」と。
 父さんに会いたくて、平成14年靖子姉と韓国へ行きました。最初に訪れた場所は、私が60年前に生まれた、温陽(オンニャン)町へ。温泉街で駅の広場には色とりどりの花が咲き乱れ、私達を迎えてくれました。風の音は「よく来たね」と父さんの囁きのように聞こえました。温陽町は昔から皇室の保養地がある美しい町ですと、ガイドさんが説明してくれました。
 昭和20年9月、母と4人の子が父さんの実家信州へ引き揚げる日まで暮らした、大田の家を探しました。父さんの記憶のない私は、出征する前日、家族全員で写した写真の家を確認したいと願っていましたが、60年の歳月は本当に長く残念でした。
 父さんを見送った大田駅へ。工事中にて見物出来ず、出征する様子がどうしても浮かびませんでした。病弱な母、節子姉11歳、靖子姉7歳、芳子3歳、弟正治1歳を日本から離れたこの地に残し出征する、その時の父さんの心中は如何ばかりだったか。涙が溢れました。後日、「曙光会」で大変お世話になりました近藤敏郎様より、日本統治時代の大田駅等のお写真をお送り頂きました。姉達は、写真を見て「あの時の大田駅、懐かしい」と感激しておりました。私は近藤様に頂いた写真の中に、家族が父さんを見送る姿を心に深く刻み、近藤敏郎様に、厚く感謝を申し上げました。
 戦後の大混乱の中、母子5人は父さんが必ず生還すると確信し朝鮮から命がけで信州の実家へ引き揚げて来ました。釜山港で引き揚げ船を待つ間に靖子姉が体調不良になりヤミの漁船で九州へ、5隻出港しましたが日本に到着したのは2隻だったそうです。本土の鉄道は爆撃で寸断され、九州の小野さん宅で1ヵ月、5人がお世話になりました。小野さんは朝鮮総督府に勤務していた父と同僚で、八軒の官舎に住んでいたお1人です。日頃から親しくしておりました。引き揚げ時は両家の父親が出征しており、子供が4人ずつ居りました。小野さん宅は突然10人増え食事は食糧難の時で大変でした。それでも小野さんのお宅では快く受け入れて下さり助けていただきました。母は、毎日必ず子どもと一緒に合掌し「小野さん有難うございました」と言いました。
 また名古屋駅の地下道で食料が無くなり、通りがかりの人に食料品を売っている場所を尋ねましたが、分かりませんと言われ5人が座り込んでいた時です。復員の青年の方が白い靴下に入れた2本のお米を「私は家が近いし2、3日食べなくても大丈夫なのでどうぞ」と言って下さったそうです。私たち家族はお陰様で命を繋ぐ事が出来ました。
 多くの方々に助けて頂き無事父さんの故郷信州に引き揚げる事が出来ました。皆様の御恩を忘れた事はありません。
 昭和19年8月30日付、戦地から大田の家に「今日は芳子の誕生日ですね、父さんは南方で元気でいますよ~~」と玉砕2ヵ月前に出して下さった父さんからのハガキが届いたそうです。4歳になった私に、父さんのおこころを届けて下さったのでは、と最近強く感じています。母さんから父さんのハガキの事は聞いていましたが、私は見た記憶がなく引き揚げの際不明になったようです。父さんのおこころは、芳子の大切な、大切な宝物です。
 今、私は、夫と幸せな毎日を楽しく過ごしております。息子2人の家族8人が時々集まりますが、毎年お盆には信州のお墓詣りを40年以上続けています。今年も8月13日には、又会いにいきます。
 父さんが守って下さったお陰様で家族皆が頑張りました。本当にありがとうございました。

〔大脇さんの父・山岸喜太郎さんは第114飛行場大隊。昭和19年10月29日レイテ島ブラウエンで戦死。〕

(おおわき・よしこ)

 

  第10通・「命日の八月一日は靖国神社へお参り」

荻原 悦子(埼玉県横瀬町)

   八月に戦死の父をまた思ふ
   エアコンの故障に猛暑過ぐして
 昨年の夏、エアコンが故障して、それ無しに暮らす余りの辛さに酷暑の比島で戦死された父上を思い詠んだ歌です。
 今年は、戦後70年の由、昭和20年に戦死の父上も逝かれてから70年になるのですね。隔たる時間に圧倒される思いも致します。
 30年以上前に頂いた「台湾電力比島殉職者追悼誌」を今日久しぶりに読みました。大戦末期の不法地帯下の生活、苛酷な現実が詳述されていて(戦乱、病、飢え)戦慄する気持ちを抑えることができませんでした。でも、読み終えて、気持ちは不思議に高揚して何か勇気づけられました。多分、殉職された方々の生き方が、人間としての誇りと、愛情に満ちていて、共感させられたからでしょうね。想像を超える劣悪な状況に置かれた時、人間らしく生きるべく努力している姿には、崇高ささえ感じました。置かれた場所で、力いっぱい努力して生きたその姿に心を打たれたのだと思います。
 父上の歳を遥かに越えて、私も時に「生命の証(いのちのあかし)」を考えるようになりました。そして、今日、追悼誌を改めて読み、比島の土に還られた父上に確かな生を思っています。
 「よく生きて下さった」とお礼申し上げたい気持ちです。
 父上の命日8月1日が間もなく来ます。縁につながる者が集まって靖国神社に参拝する予定ですが、亡き母も喜んでいるでしょう。
 父上に手紙を書いたのは、比島宛て以来ですから、70余年ぶりのことですね。おかっぱ頭の少女の頃に戻った気持ちにもなりました。最後にもう一度、「お父さん……」と呼ばせて下さい。

〔荻原さんの父・松山正男さんは台湾電力比島支社から第8師団軍属に徴用。昭和20年8月1日マニラ東方山地で戦病死。〕

(おぎわら・えつこ)

 

  第11通・「一緒にお酒も飲みたかった」

金森 武士(岐阜県大垣市)

 顔も知らないお父さん、小さい頃お母さんに聞いたのですが、僕が生まれて1週間目に出征されたとの事。しかし父さんは僕の顔を見て往かれましたね。そしてフィリピンで戦死。昭和20年7月の空襲で我が家は全焼。何もない焼け跡から、祖母とお母さんは何不自由なく僕を育ててくれました。しかし小さい頃「父さんは如何したの?」と母さんや祖母を困らせました。また父親を囲んで楽しそうな夕食をしている家庭を見て、羨ましく思いました。夜布団に入って、「お父さん」と小さく呼んでみた事もありました。大人になって父さんと一緒にお酒も飲んでみたかった。
 祖母も母さんも父さんの所に旅立ち、私は父さんの倍以上も長生きし、妻にも先立たれましたが、2人の娘に恵まれました。特に下の娘は5月28日生まれで、父さんの戦死した日と同じです。それぞれ結婚し、一男一女が生まれ、娘夫婦や4人の孫達も仲良くしております。お正月や夏休みには、みんなが訪ねて来てくれ、一人暮らしの我が家もにぎやかになります。私はボランティア活動や慰霊巡拝等に頑張っておりますので安心して下さい。
 平和だった戦後70年、もう二度と新しい戦後は要りません。今日の平和な日々が80年90年と、何時までも末永く続く事を願ってやみません。

〔金森さんの父・金森伊作さんは第14方面軍教育隊教育係で昭和20年5月28日ルソン島で戦死。〕

(かなもり・たけし)

 

  第12通・「一通だけ残る手紙に私宛の訓戒も」

亀井 亘(静岡県浜松市)

 お父さんの青年時代は軍国調盛んで、国中の全てが拡大路線に向かっていたことでしょう。
 広島・比婆山麓の貧村に生まれ育った父さんは、叔父、叔母の想い出話通り、勤勉実直な人だったと思っています。
 昭和6年、福山の歩兵41連隊に入隊し除隊するまでに、兵精勤賞3回、善行証を受け、下士官適任証を付与されたことでも判ります。
 兵役終了後は、朝鮮で旅館業を営んでいた父さんの叔父の養子となりましたが、昭和11年、再び歩兵80連隊に召集され、以来歩兵239連隊に転属し中国戦線にも参戦して苦労されましたね。
 さらに昭和19年、北朝鮮会寧の歩兵75連隊で兵役に就くことになりましたが、所属部隊の多さに驚いています。
 軍歴簿を見ますと、その事由は様々ですが、歩41、歩11、歩79、歩80、歩239、歩50、歩75の七連隊に及んでいますね。
 職業軍人でも無かったお父さんは、3回の軍隊召集で各地に於いて、数多くの苦労を体験されたことでしょう。
 戦争が終って朝鮮から引き揚げた際、失ったのか、我が家にはお父さんからの手紙は今、ただ1通しか残っていません。それは会寧から部隊が動員する時、私たち家族に宛てたもので、遺髪、遺爪等と一緒に送られた即ち、遺書です。
 私宛には「亘ハ健全ナル皇國軍人トシテ御國ノ御役ニ立タシメルト共ニ、本人ノ職業及ビ方針ハ、全テ本人ノ能力並ビニ希望ニ依ラシムルコト、其ノ能力ハ何物ヲ犠牲ニシテモ充分伸バセ」と書いて下さいましたね。
 外地から引き揚げた混乱状態で何も無い厳しい暮らしが続きましたが、この一文は私の宝となっています。
 ボントックの地で戦友の皆さんと一緒に、いつまでも安らかにお眠り下さい。  合掌。

〔亀井さんの父・亀井正美軍曹は昭和20年6月27日ルソン島ボントックで戦死。第19師団歩兵第75連隊通信中隊。〕

(かめい・わたる)

 

 告知   

曙光会々員たちの『英霊に捧げる手紙』19通を以下の予定で掲載致します。

英霊に捧げる手紙(全3回・19通)

●6月15日

第1通・「顔も知らないお父様へ」小川晴子
第2通・「おじいさんのお話聞きたい」甲斐聡美
第3通・「災難続きを克服して」九ノ里俊一
第4通・「お父さんへ」谷口芳枝
第5通・「父が帰って来た夢を見る」土屋房子
第6通・「お父様に申し上げる言葉」新田和子

●7月6日

第7通・「恋しさ募るお父ちゃまへ」本間尚代
第8通・「父さん、母さんは103歳で元気よ」大田旬子
第9通・「父さんのおこころ、私の大切な宝物」大脇芳子
第10通・「命日の八月一日は靖国神社へお参り」荻原悦子
第11通・「一緒にお酒も飲みたかった」金森武士
第12通・「一通だけ残る手紙に私宛の訓戒も」亀井亘

●7月13日

第13通・「小林家再興、孫、曽孫は8人です」小林敦子
第14通・「お父さんが撮った私と母の写真」高木美子
第15通・「無言館で年雄兄さんを偲びます」鳥屋ヨシ子
第16通・「父上、あなたの知らない話三つ」牧野弘道
第17通・「飛べ! バタンガスのバラよ」クリム洋子
第18通・「つながり」阪本征夫
第19通・「靖國に眠るお父さんへ」田村治子

*曙光会は、フィリピン戦従軍者と戦没者遺族を中心とした者の集りで、戦争体験の記録と日比友好親善を目標としています。



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