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魂の行方、国の行末 無動来西
遺族の遺言

遺族の遺言 その4

本間 尚代

  小さな外交、英霊に導かれて

 「あけぼの会」主催の門脇朝秀先生が、平成29年6月13日に数えの104歳の天寿を全うされ、早いもので旅立たれて3年を迎えました。
 仕事を退職された昭和47年、日中国交正常化が成り、先生はいち早く台湾独立のための運動を始められたのです。
 お1人で「あけぼの会」を立ち上げられ、昭和51年(1976)10月より台湾向けの会報「あけぼの」を発行され、台湾の独立運動に尽力されたのです。
 その会報も亡くなられる2週間ほど前に最後となった487号を発送されていました。
 私たち曙光会とは、台湾人の会員を通してご縁ができましたので、その間の事情など綴っておきたいと思います。私はどんな困難をも貫き通される先生の武士然とした精神を尊敬し、押しかけ弟子のひとりとして何かとご指導をいただきました。先生がご高齢になられてからは、秘書兼小使い兼運転手として、少しはお役に立てたかなと、自負しています。特に台湾の総統選挙では、先生の草の根運動がしっかりと根付いて、蔡英文総統が誕生し、新総統の揺るぎない国家・国民を第一とする政策を知ったら、さぞ先生がお喜びになられたことか、と同居されていた娘さんと話をしては、過ぎし日のことが走馬灯のように脳裏をよぎり、話が尽きないのです。先生の告別式では、著名な方が多くいらっしゃるのに、弔辞をと声をかけて頂く身に余る光栄に預かり感謝しております。
 あけぼの会と曙光会の結びつきは、会員でフィリピンから生還した台湾日赤の看護婦さんや、生還者が両方の会員であったりと交流があったのです。父の部隊にも台湾人が大勢いたそうで、特に高砂族の皆さんは勇敢で、マニラを退却し山中に入ってからの食糧探しにはなくてはならない人たちだったと、感謝を込めて生還者が語ってくれました。
 年1度の曙光大会には、台湾からフィリピンの生還者や遺族(殆どの人がお兄さんか弟さんを特攻で亡くしているのです)が、10名くらいが参加してくれたのです。女性の参加者は、たいてい日本名を使っていたのです。例えば本名が純眞さんの場合は純子さんというように、日本人であったことを誇りにしてくれていたのです。私も同じフィリピンの遺族という事から親しくさせて頂き、台湾のお姉さんとの文通も続きました。先生のお伴で台湾に行くと、私まで楽しみに待っていてくれたのです。男性も女性も日本人が戦後失ってしまった日本人以上に日本精神の備わった人たちで、まるで大正生まれの叔母たちと一緒にいるようで、教えられることが多く恥ずかしく思うことも多々ありました。
 20年ほど前の秋のこと、あけぼの会員の男性、女性1名ずつと私の3人で、先生のお伴をした時のことです。台湾の人たちは、先生が台北空港に着くと迎えに出て来て下さって宿まで送ってくれるのです。その時も台北泊まり、翌日は霧社(霧社事件のあったところ)に向かう予定でした。なぜかその日は車の連絡が悪く、先生を待っている集会も短時間で切り上げ、南投県の埔里(プーリー)という山間の小さな町で1時間ほど次の車を待つことになりました。そこは戦前の日本人町でした。バスの車庫の前には、建物もそのままに和菓子の看板を掲げた店が残っています。そのままの状態で使用されているのです。2階建ての大きな本屋があり入ってみました。日本人の本は、台湾の若者に人気があるといい、村上春樹の本が置かれていました。私は名越二荒之助先生(高千穂商科大教授)から、外国に行ったらその国の教科書を買ってくることと教わっていましたので、探したのですが見当たらず、店員に声を掛けようと思った時、車が来たと呼ばれ、残念でしたが、店を後にしたのです。その町は、なぜか懐かしい日本の地方の町を思い出させるようでした。
 車は深い山の中を走りつづけ、途中で日が暮れて清流(チンリュー)という小さな部落泊まりとなりました。きれいな、清潔感のある民宿に落ち着かれた先生はお馴染みの様子でおかみさんと楽しそうに話をしています。そこには、霧社事件の資料を集めた記念館がありました。(事件の発端から終結までを題材にした「セディック・バレ」という映画になっています。)
 翌朝出発の30分程前に玄関を出ますと、先生は既に車上の人でした。向かい側の家の前に、うずくまるようにしてこちらを見ている寂し気な暗い表情の老婆が気にかかりました。私は会釈をして車に足をかけると、先生が「あのおばあさんの主人は、ニューギニアで戦死していて、おばあさんは遺族だよ、日本語は分かるからちょっと声を掛けて」、と言われました。私は「おはようございます」と声を掛けながら側に行きましたが、胡散臭そうにじっと見上げているばかりなので、私はその場にしゃがみ込みました。台北や高雄のような大きな町のことを話しても、多分行ったこともないのではと考えて、前日散策をした埔里が日本人町だったころのことを話しかけました。現在も当時のまま大切に建物などを使ってくれていて嬉しかったと話すと、少しずつ口を開いてくれるようになりました。ご主人が戦死した後、ずっと1人で暮らしているというのです。門脇先生のことも何度もそこに泊まっているから知っているというのです。そのうち、戦前の日本人は親切で良かったと懐かしそうに遠くの山を見つめて話し出しました。どんな仕事の日本人が住んでいたの、と聞くと、学校の先生、おまわりさんの家族、樟(くすのき)から、樟脳の材料になる幹や葉を取ったり、根を掘る人たちが大勢住んでいて、皆がとても親切にしてくれた、と嬉しそうです。だから主人は日本人として軍隊に志願して兵隊となり、大勢の仲間と一緒に日本に渡ったと話してくれたのです。
 戦後は消息の分からないままでいたところ、戦死の知らせがあって、役所に呼ばれていくと、白布に包まれたお骨を渡された。思い切って包みを解くと骨はなく、名前の書かれた紙切れ1枚が入っていた、と怒りを込めて私をにらむのです。戦死した日本人にはお骨が帰って、なぜ台湾人は差別されているのだと、吐き捨てるように話すのを私は黙って聞いていました。話の途切れるのを待って、私の父はフィリピンで戦死していること、私も遺骨を胸にして軽いので、家に帰る途中で開けてみたこと、ご主人と同じで、「名前とルソン島・バギオ東方山地」と書かれた紙1枚が入っていたこと、同じ日本人として戦ってくれた台湾の人のことを差別などしていないことなど、ゆっくりと話しました。おばあさんの表情が和らぎフッと息をついて私を見つめているのです。あなたのご主人も私の父と同じ靖国神社に台湾の英霊2万8千余柱(注。本稿末尾に参考資料を付記)の御祭神として祀られていることを話しますと、安心されて大変喜んでくれたのです。出発時間が気にかかり、先生の方に視線を向けると、「いいから…」というように手で制されるので、地べたに腰を下ろしておばあさんが気の済むまでおばあさんの聞き役に徹しました。戦後70年近くも重荷を背負って生きてきたであろうおばあさんに、申し訳なく私は心から詫びたのです。
 すっかり打ち解けて今度は、私に、いくつでお父さんと別れたのか、母のこと、姉妹のことを尋ねては母の労をねぎらってくれたのです。役所の係の人でも、納得するように説明をしてあげていれば、長年1人で悩むこともなかったでしょうに、本当に気の毒に思いました。小1時間もたったでしょうか、おばあさんに再会の約束をして、持っていた品川巻きと一口羊羹5個にタオルを添えて、お菓子は仏様にお供えして下さいと手渡しました。有難う、気を付けてお帰り、と手を振って車を見送ってくれたのです。
 動き出した車の中で先生に一部始終を話しますと、「良いことをしてくれて有難う、代議士だろうと、総理大臣であろうと、あのおばあさんの心は開けなかった。あなたにしか出来なかったことで、きっと神様のお導きだったのだ」と、とても喜んでくださいました。
 翌年は、私のフィリピン行きと重なり、台湾に行くことができませんでした。残念ながらそのおばあさんは、私と会って間もなく亡くなられていたのです。きっと安心してご主人の下に旅立たれ、再会を果たされたことと信じて、名も知らないお2人のご冥福を今も祈っているのです。
 以前、烏来の高砂義勇隊の碑にもお参りをしていますが、その時は久しぶりの先生の訪問を喜んだ部落の人たちが総出で歓迎会を催されましたけれども、遺族の話は全く出なかったのです。全戸から日本兵として従軍し、フィリピンやニューギニアで戦死していると聞いていましたので、私の会った人たちも皆遺族だったでしょうから、清流のおばあさんと同じ思いの人がいたかもしれないと気にかかるのです。
 先生は、台湾の山岳部の部落に単独で入り、台湾独立の大切さを1人ひとりに説いて歩かれたのです。長い年月には、先生の「無」のお人柄を信じて大きな「輪」.「和」になって、先生を待ち侘びてくれるようになったのです。最初の頃には、何だ日本人かと言うような人も中にはいたそうですが、先生は大人(たいじん)でいらっしゃるので「おおそうか」、「おおそうか」とにこにこと聞いていらっしゃった、と当の台湾の人から聞かされました。いくらお元気な先生でも、90歳を過ぎてからは台湾の人たちにも迷惑はかけられないからと、娘さんかお孫さんかが同行されるようなりました。
 早めの100歳の誕生祝は、台湾の人たちが準備して、大勢の人に祝福された様子をビデオや写真で見せて頂き、台湾の人たちの喜びが私たちにも伝わってくるように感じられました。台湾の人たちに先を越されましたが、日本では西村眞悟先生主催でお食事会が開かれて、私も末席を汚しました。それまでも、米寿も卒寿もお祝いをさせて頂きたいと思ってお話しても、ただ笑って首を振られる先生の御意思を尊重してきたのです。
 李登輝さんとも交流はおありでしたが、あくまでも先生の信条は”山の者たちとともに”、ということで台湾でも日本でも華やかな席には一切お出かけにならないことでも有名でした。3人でも5人でも私の話を聞いてくれる人には、時間を作るので連れてきて下さいと、足がお悪くなってからはもっぱら自室が講演場所になったのです。本当に地味な活動でしたが、台湾ではもちろんのこと、日本でも台湾にかかわる人たちからは敬意を込めて「門脇先生」と慕われる超有名人なのに、いつも淡々として台湾独立を願っていらっしゃったのです。台湾の独立は、台湾だけのことではなく、日本国の行く末にも係る大切なことなのです。日本の政治家も、中国の顔色ばかり窺っていないで、台湾独立に向けて手を差し伸べることが、かつて日本人として戦い、戦死し、靖国神社に祀られている2万8千余柱の英霊に対しての御恩返しだと、私は思います。どちらも国の大事なのです。
 この度、中国が原因も分からないウィルスを世界中にまき散らし、恐怖のどん底におとしいれている最中、台湾の蔡英文総統は日頃から中国をよく見極め、国民を守るという至誠を貫いてこられた結果、武漢ウィルスの罹患者を1人も出さずにいることに、世界中から蔡英文総統への称賛の声が揚がっています。
 日本の政治家にも是非、国を守る、国民を守ることのあるべき姿勢を見習って欲しいと願っているのです。
 武漢ウィルスが1日も早く収まるように祈っています。

注。
「台湾の靖国神社御祭神について。
 昭和16年、志願兵制度実施。昭和19年、徴兵制度実施。志願兵制度が実施された時は、1000名の採用に対して、45万人が志願し、軍司令部には、血書・嘆願書が山積した。600万人足らずの人口から、45万人の志願は正しく驚異的であった。そして、結局は20余万が従軍して、3万3千余人が戦死され、靖国神社に祀られている。
 平成11年11月13日、世田谷郷土大学での講演、「靖国の心――英霊の無念を晴らす――」より。講師は高橋正二先生(元陸軍参謀、明治薬科大学理事長)。」

(令和2年3月13日記)

izokunoyuigon
honma takayo
vol.4



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