分分夜話 第1話
無動 来西
続く天災と祈り
平成の30年間に起きた災害は、平成7年1月17日の阪神・淡路大震災、平成23年3月11日の東日本大震災をはじめ北海道、新潟、熊本、大阪などの地震災害だけではなく、大火災や豪雨による被災を忘れることができません。
女の子の死、男の子の死、老若男女の数々の死、そして心身に傷を負った多くの人々、痛ましく悲しい記憶を前にこののちなすべきことを考えはじめます。例えば、津波を防ぐ高い堤防を北海道から沖縄まで多くの島々を含めて建設することができるでしょうか。巨大地震に耐え得る建物を日本全国に建設し得る日が来るでしょうか。
天災によっては人が立ち向かうこともできないときがありますが、人為的努力によって防ぎ得る場合もありますから人々はたえず防災に尽力します。しかし、それでもおそらくいつか想像外、想定外の被災に叫び声をあげる日があるでしょう。私たちの被災の記憶は歴史的に言えばおよそ千数百年ほどの期間のものですが、こののちの日本史はおそらくそれより長い歴史となるように私たちは知恵をしぼり、より良い環境を整えようと考えつづけているのではないでしょうか。
大災害を正確に予測することはおそらく遠い将来にわたって完璧な情報を全国民に発信できないだろうと思われます。この解答不能の問題は現代だけにつきつけられたことではなく、地震などの大災害に国家がいかに対処すべきかは古代以来の重要課題でした。活火山の富士山の噴火史は何十万年もの昔に始まりますが、記録上正確に伝えられるのは貞観大噴火(864~866)です。勅撰の正史『日本三代実録』の原文は漢文で記録されたものですから、貞観6年(864)7月27日条の文を私なりに現代語に書き下してみます。
27日に天皇の詔勅(みことのり)がありました。去年7月25日、五畿(注。大和、山城、河内、摂津、和泉)ならびに伊賀、伊勢、志摩、遠江(とおとおみ)、相模(さがみ)、上総(かずさ)などの国に次のように指示されました。「国家を鎮護し、災害を消伏することは、神祇を敬い、祭礼を慎しんで奉仕することによってできるのです。したがって、法令を下達し、警告することもたびたびでした。伝え聞くところ、諸国の国司(注。国から派遣された地方官僚)はこの命ずるところを守らず、もっぱら神主禰宜たちに神々を丁重に祭ることを丸投げにした結果、神社は破損したままで、祭礼もおろそかになってしまったため、神明(神々)は祟(たたり)を発し、国家の災いがひき起こされました。直ちに、諸社を修復し、立派な姿とするように命じます」との天皇のお言葉でした。ところが、年を越えても国司たちは神社をおろそかにしたままでしたから、再度必ず怠ることなく実施せよと命じられました。
この場合、大災害が起きてしまったのは神々の「祟(たたり)」によることでしたから、神々を丁重に鎮める神事が求められ、それは天皇の命令によって実施されなければなりませんでした。この例は、富士山の大噴火が祟りの実態でしたから、富士山の周辺の神社はもとより富士山を信仰の目印としている神社の修復や神事執行が国司たちに求められました。富士山に降臨する神々や富士山から来臨する神々をお祭りする神社の神事が丁重であればあるほど祟りを鎮める効果があると天皇御自身が信じておられました。それは「苦しい時の神頼み」ではないかと現代の科学的知識を絶対的に信じている人々から軽んじられるかもしれません。しかし、そのような批判には考え直してみるところがあります。
神社には必ずその神社の神を奉じて近くに暮らしている人々がいます。今ならば氏子や崇敬者と呼ぶのでしょう。神社やその地域が噴火によって被災するとそこに生きている人々が被災者となりますから、神社を修復し、神事を盛大にすることは取りも直さずその神社の神を奉じている人々を救済することとなり、やがて災害から復旧しますと再びその人々は神社に集い、神事を繰り返してお互いの心の絆を太くして行きます。
どれほど多くの神社が九世紀の富士山周辺に鎮座していたのか知りませんが、そのエリアはおそらく推定可能かと考えられます。キーワードは「浅間(あさま、センゲン)」です。貞観のころには浅間神社を正式に読む場合、あさまのかみのやしろとセンゲンのかみのやしろと言う2通りの読みがありました。地名で「あさま」とあれば、神社のあるなしにかかわらず、そこは富士山をはるかに望む地です。伊勢の内宮の近くに朝熊山(あさまやま)があり、その頂上からは遠く富士山を望むことができますように愛知県や長野県などにも同様の地があると思います。「あさま」や「センゲン」の地名を調査すれば、富士山信仰圏とも言うべきエリアが推定でき、木花開耶姫(このはなさくやひめ)を奉じて神事を行うとともに、それは大噴火を鎮めることの役割を担っている地域でもあったと考えられます。この種の広い信仰圏は大和と紀伊にまたがる丹生都比売(にうつびめ)信仰圏が古代以来のものです。もちろん、このような信仰圏はその地域に一体感をもたらす大きな傘のようなものですから、その傘の下ではそれぞれの村や字にある神社で個別の神事が行われてきました。つまり、神を奉ずる姿は村や字(あざ)、地域によって異るため、それらを調和よくまとめることが古代以来の国家の最重要課題でした。
国民を統治し、安定した国情を作り出すためには、その国民が各々奉じている神々の協調を実現することこそが天皇の最も重いご使命でした。そのためには、皇祖の神(天皇の祖先の神)天照大御神(あまてらすおおみかみ)をご自身でお祭りする他にすべはありませんでした。この点については別の機会に詳しく説明しますが、一言で言えば、天照大御神のご神徳である“調和をもたらす力”に期待して、神々の世界を治め、ひいてはその神々を奉じて生きている国民をも治めるということです。これが祭政一致という考え方です。
お祭りを一生懸命奉仕したからと言って、必ずしも天災からまぬがれるわけではありませんが、お祭りを丁重に繰り返し行うことができないとすれば、復興、復旧を可能にする人々の力の結集も期待できないと考えられてきました。
10月の伊勢での神嘗祭に新たに実った稲を明治天皇は奉納され、国家国民の平安を祈られました。明治37年(1904)2月に日露戦争が始まった年の秋の御製(ぎょせい)です。
豊年の初穂ささげてあまてらす神のみたまを祭るけふかな
近代国家建設の先頭に立たれました明治天皇は、千年昔と同じく神を祭ることと国を治めることとが表裏一体の思想であったことを歌に託されたのです。
(令和元年11月15日記)
funpun・yawa
mudou raisei
vol.1
